「ふるさとの話」 平成29年5月号(後編)

2019年11月28日 | ふるさとあれこれ
ほんの時々ある話です。いや、滅多にないけどほんの時々ある話です。
電話で、「電気屋さんは修理頼めますか」、『はい、どのようなことでしょうか?』。

「洗濯機が傷んだんですが、なんぼくらいで直してもらえるでしょうか」、『えっ、
え~。いくら位かかるかと言われても、傷んだ洗濯機見なけりゃ直るかどうか、どれ
位かかるか判断できませんが』。

エアコンの工事に出かけようかという時に、尋ねるばかりの電話です。

「来てもらって、修理代高くつくからもういいと言った時にも、お金がいるんですか」、
『遠方に訪ねるにも時間を割かねばなりません。悪いところを見つけるためには点検
する技術が必要です。なので、直さなかった場合でも出張料と点検料はお願いしていま
す』。

電話のかかりから「お金が要りますか?、いりますか」を問うばかりです。

『あの、どんな具合に調子が悪いのかも、お急ぎなのかも聞いていませんし。お買いに
なられたところにお尋ねになってはいかがでしょうか』、
「いえ、大型量販店で買ったのです。引っ越してきました。ブログでアトムさんを見つ
けました。急ぎません」。

『当店、売り出し後の忙しさで、訪問させてもらうの2日後の30日になりますがいかが
でしょうか。それに、出張料とか点検料のいることご了解できますでしょうか』、

「見てもらうだけでいいです。買うのは他で買います。やっぱり出張料がいりますか。
点検料いりますか。2日先ですか」と未練たっぷりお金要るかと問いますね。

『申し訳ありません。お急ぎのようですから、ほかのお店を当たってもらえませんか。
ほんと、エアコン工事に行かなければなりません。申し訳ありません』、『お買いにな
られた大型量販店の豊岡の方に聞いてもらえませんか』と謝りますね。

時間がありません。雨があがっている間に、エアコン工事を急がなければなりません。




ふるさとの話㉘5月号(後編)

今から百年ほど昔のふるさとの話です。
今回は前編の続きで、藤本俊郎村長と幻に消えた西気鉄道のその後の運命です。
そして江原出石間を走った出石軽便鉄道の話(後編)です。
クイズのヒントも隠れています。

西気鉄道と村長の運命

日高小学校での起工式に先立つこと半年前の、大正8年(1919)6月には、請願し
ていた出石軽便鉄道の免許が国から下ります。
西気鉄道の工事がスタートしたことと併せて、発起人代表だった藤本俊郎村長の得意は、
想像に余りがあるものでした。
 
しかし、丹後山田と出石、豊岡を結ぶ山豊線計画を流産させたことで、猛烈に陳情して
いた神美村の平尾令太郎らの勢力と、大きな敵対関係になります。
その確執は、後々の腹背を敵に囲まれる四面楚歌の元となるのでした。
 
西気鉄道の敷設工事は着々と進んで行くように見えましたが、伊府を過ぎ野村あたりま
で来ますと、墓地の移転交渉が進まず工事が中断します。
庄境、頃垣へと続くあたりは、用地の買収や軌道や並行しての電柱の工事も少しずつ進
んでいましたが、少なからず暗雲も立ち込めてまいります。
 
当時の景気の後退と、政局の影響です。
ローカル線の採算の難しさに輪をかけ、大口出資予定の鈴木商店の倒産、相次ぐ敵対勢
力からの株主辞退や離反する者が続出します。
工事が進捗せず、再三の竣工延期申請を出す羽目となります。
 
大正15年、とうとう西気鉄道を夢見た但馬軽便鉄道株式会社は倒産し、藤本俊郎は破
産してしまいます。
地域住民の希望を大きくふくらませた西気鉄道の軌道には、一度の汽笛の声も聞くこと
なく夢は空しく消えたのです。

県議を任期半ばで辞任して、家も私財もすべて失った藤本俊郎は、西気鉄道倒産の大正
15年、ふるさとを去った東京の地で悲しくも七十才の生涯を閉じています。

出石軽便鉄道の完成 
西気鉄道の起工式に遅れること半年、大正9年6月、出石軽便鉄道の建設が始まります。
出石は室埴村弘原から、小坂村、中筋村の山裾を走って、国府村上郷に至ります。

円山川に橋を架け、日高村鶴岡から江原駅に至る11km余りの鉄路です。
資金難で工事中断や、菅谷川や円山川の橋梁工事もなかなかの難工事、それでも九年の
歳月をかけて昭和4年(1929)に出石軽便鉄道は完成しました。
 
7月の開通式は、出石城稲荷台で盛大に行われました。
町中が万国旗で飾られ、大名行列、花火打ち上げ、祝賀飛行で賑わう中を第一号の始発
列車が弘原の出石駅から華やかに発車します。

明治の頃より、鉄道の通らない町として取り残された無念さを、一気に払拭する待望の
鉄道がついたのです。地元の人たちからは「軽便(けいべん)」の愛称で呼ばれていま
した。
しかし、出石軽便鉄道も前途は苦難の道のりでした。

苦難十五年の軽便鉄道
最初に使用された汽車は、船舶用の35人乗りの気道車で、故障が多く貨車が引けない。
次に代えた中古の蒸気機関車は、欠陥で使えない。三度目は中古のガソリンカーで、何
と時速20kmで馬力が小さく、雪の狭間峠では「若い者は下りて押してくれ」という
ありさまでした。二
  
年でガソリンカーをやめて蒸気機関車にして頑張ります。
ところが利用者です。乗客は初午の日以外はとても少なく、平均5~6名くらいにすぎ
ず会社の営業内容は火の車だったのです。
あの手この手で沿線住民へ利用を促すも、ずっと赤字続きのこの鉄道は「シャッキン・
シャッキン(借金)」と音(ね)あげて走っているとまで言われていました。

更に、昭和9年(1934)の室戸台風で鶴岡鉄橋が流されます。
復旧工事の資金の都合がつかないため、青年団や消防団の奉仕人夫で復旧させたという、
涙ぐましい努力で鉄道を守り続けます。
 
しかし、昭和17年にまたも水害で橋が流されそのままに、昭和18年(1943)、
戦争のためレールをはがして供出させられることになり、とうとう昭和19年1月、出
石軽便鉄道は営業停止になってしまいます。

哀れレールは積み出しの港で終戦を迎え、出石軽便鉄道のさびしい十五年間を象徴して
いるようでした。

(日高、出石町史など参考に書きました)