「ふるさとの話」 平成28年2月号

2019年11月12日 | ふるさとあれこれ
『あっ、このコウノトリの置物うちにも飾っています』と、玄関の棚を指さしお話ししま
す。風呂水ポンプの修理を済ませて、帰りぎわでの話です。

Tさんのご主人は、2ヶ月くらい前に亡くなられました。
趣味で手作りの可愛いコウノトリが、三羽サクラの小枝に停まっています。

奥さんは、
「まだたくさん残ってるのよ。近所の人にも差し上げてるの」と、ご主人を想って寂しそ
うです。

『いや~、うちの出窓に並べて飾ってる可愛いコウノトリ、いつも見るたびご主人を思い
出してるんですよ』と話します。

電気屋してからウン十年、最近はとみにお亡くなりになる人多いいですね。
それも、ほとんど奥さん残して先に逝かれます。

街の電気屋帰りぎわ、Tさんちと同じようなあいさつばかりです。




ふるさとの話 ⑫ 2月号

今月は日高の「湯の原温泉」に伝わる伝説の話から始めます。
伝説に出てまいります「まんだら湯」をはじめ、7つの外湯を巡って城崎温泉の歴史をた
どります。
クイズのヒントも隠れています。

私たちの住む但馬の地は、温泉の豊富なところです。太古の昔には神鍋山も火山でした。
きっと、深い深い地中では温泉が、網の目のように広がっているのでしょう。
 
日高町三方地区の一番奥、河畑の山を駆け上がったところに「湯の原温泉」があります。
この地に不思議な「湯の原温泉伝説」が伝わっています。

昔からあった湯の原温泉
湯の原オートキャンプ場の、子どもの遊び場のあたりは昔湿田だったのです。
雪深い三方の山の奥です。不思議な事に、湿田には雪が積もりません。地中から、こんこ
んと湯が湧き出ていたのです。
      
近くには、薬師如来が祭られており、お堂には尼さんが居たとも、堂守か湯女が薬師如来
をお祀りしていました。

河畑のまんだら牛
年代は不詳だが(今から五百年くらい昔)、河畑にあった湯壺にまだら模様の「まんだら牛」
が落ちこんで死んでしまいました。
牛が落ちたその時から、湿田の油壺の温泉がピタリと止まってしまいました。

地中で何か不思議な事が起こります。
ちょうどその時に、城崎温泉の「まんだら湯」が、にわかに湧き上がって熱湯になります。
城崎温泉の湯量がぐんと増えたのです。城崎温泉はますます発展いたします。

河畑の村人は無料
以来、河畑の村人は「まんだら湯」に入湯に行けば、無料で入れたといいます。
 
ところが、河畑の者と偽ってタダで入る人が増えたため、木の湯札を出してもらい、それで
「まんだら湯」に入れたという。その「湯札」を見たという古老もあったが、まだ見つかっ
ていない。
 
河畑には、温泉に関係のある「湯の原」、湯の源と考えられていた「ユズロ」、薬師堂のあ
った「堂が平」、保養のための「保ケ谷」の地名が残っています。(河畑老人クラブ冊子より)

鴻の湯
外湯の中で最も古くから開けた湯、舒明天皇の御代(1400年前)、コウノトリが足の傷
を癒したことから温泉が発見されたという、鴻の鳥伝説の湯です。

まんだら湯
1300年前、温泉寺の開祖「道智上人」の曼荼羅千日祈願で温泉が湧いたという。
今から五百年くらい前、にわかに湯が湧きあがって熱湯となったが、折りよく来合わせた京都
の僧「日真上人」が、曼陀羅の修法で適温に復したと言われ、とてもありがたい温泉です。

御所の湯
後堀河帝の皇后、安嘉門院が入湯されたという逸話から因んで、御所の名が付いたという立派
な湯、古風な建物です。

一の湯
元々は「新湯(あらゆ)」と呼ばれていた。
江戸中期、学者「香川修徳」が泉質を絶賛して「海内一(日本一)の湯」と言ったことから、
一の湯に改名されました。

柳湯
中国の名勝西湖から移植した柳の木の下から湯が湧き出たことから名付けられた。子安・薬効
の湯といわれます。

地蔵湯
この湯の源泉から、地蔵尊が出てきたことからその名が付きました。
江戸時代には、村人多数の入浴が見られ、里人の湯として親しまれました。

さとの湯
城崎駅の隣に、平成12年に出来た湯です。誰でも「足湯」に入ることができ、JR駅のそばに
ある温泉として、全国的にも珍しい外湯なのです。

まんだら牛の伝説を聞き、城崎温泉の7つの外湯をめぐります。

(河畑老人クラブ冊子や、城崎温泉のパンフレットを参考に書きました)