ろらぶろぐれっしぶ

2娘の母で国語教室の先生のろらんがたあいのない暮らしを綴ります

中学英語 真面目という能力

2012年03月28日 | 子育て・教育の話
自分の子供が小さいので、夜が遅くなる中学生の指導は本来やっていないのですが、ご縁があって新中学2年生の子に、2回だけ出張講座を行いました。

英語がとにかく苦手で全然わからない。
テストの点もとても低い。
最近はもう勉強するのも嫌になっている。

そういう話でした。
2回だけでどこまで1年分の英語を補えるか、が難しいところでしたが、他の科目はそれなりにできているという話を聞いて
「たぶんいけそう」
と思ってました。
他ができる子なら素材・・・いわゆる「地頭(じあたま)」は悪くないだろうと考えたのです。


思ったとおり、問題こそ解けていなくても、理解力のあるとても賢い生徒さんでした。
たった2回で1年分の内容をぎゅぎゅっと詰め込んだのですが、理解も早くてスムーズに学習が進みました。
時間の関係でおおまかな内容だけ行ったので、あとの細かいルールや単語については本人にゆだねますが、つまづいていた部分は解消できたのではないかと思います。

行き詰まっていたのは、初期に習う文法を理解できていなかったことが原因でした。
わからない知識の上に、どんどん新しい知識が積みあがって、授業が進むごとに混乱は深まるばかり・・・。
ここまで混乱すると「もういや!」と、ノートを取るのをさぼったり、ひどい子は授業中何も聞かずにぼーっとしたり居眠りする子もいます。
わからない授業を受けるのってほんとに苦痛ですからね。

でもこの子のいいところは、そんなわからない状態でも、きちんと授業を真面目にうけていたところです。
わからないなりにきちんとノートを取って、重要事項をメモして、課題をこなしていたわけです。
普通にできる子よりもずっと苦しくてつらい作業だったと思います。

そのおかげで、
「こういう単語があるんだけど知ってる?」
「こういう表現は習った?」
といわれたときに、
「そういえば聞いたことがある」
「習ったような気がする」
と、ほとんどの内容についてぼんやりしたイメージが頭にありました。
完全にまっさらな状態ではなかったわけです。
今回の授業でその「ぼんやりイメージ」に、おおまかな太い線が加わったと思います。
さらに自分で細かい線を書き込んでいけば、大化けして一気にトップクラスに躍り出る可能性もあるだろうと思います。




この子には何より「真面目にやる」という能力が備わっています。
これは本当に貴重な能力です。
「やればできる」という子はたくさんいるのですが、その「やれば」がすごく難しい。
ぜひ自分の能力をフル活用して、大化けしてみせてほしいなあと思います。

お金をもらうということ

2012年03月20日 | まじめな話
私の中で、お金というものは幸せチケット。


仕事を手伝ってもらえて楽ちんだった。
できないことをやってもらって助かった。
ほしいものを提供してもらってうれしかった。
美しいものをみせてもらっていい気分だった。

それに対するお礼。



自分が誰かを幸せにしたときにお金を受け取り、もらった金銭は自分が幸せにしてもらったときに誰かにわたす。




どんなにすごい技術を持っていてもそれが人を幸せにできないのならお金にはならないし、
簡単なことでも喜ぶ人がたくさんいればたくさんお金が入ってくる。
ある人には全然必要ないものでも、違う人には大金を払っても手に入れたい。




昔、研究者とマニアの違いがよくわからなかったけど、今ならわかります。
マニアは自分の幸せのために、自分の満足のために知識を集めたり勉強します。
研究者は誰かを幸せにするために学問をする人。
その研究や論文が、未来や今の人たちの幸せにつながっています。

研究職についていながらマニアでしかない人たちもたぶんいるだろうし、世間ではマニアよばわりされながらも、実は誰かを幸せにする研究をしてる人もいると思うけど。



日本文学を学んだ学生の頃、研究に行き詰まったのはそこでした。
文学を研究することの意義を見失っていたのです。
日本文学は日本人の心の学問。
美しい文章、日本人の感情を解き明かして、さらに人の心を豊かにするためにはとても大切な学問です。
でも私はただひたすら「自分が好きだから」勉強していた。
うすっぺらい論文しかかけなかったのはそのせいです。
好きなことって素敵だけど、よく目を曇らせるので気をつけなくちゃ。




そんなわけで、私はお金になる仕事をしたい。
人を幸せにする学問をしたい。
みんなを幸せにして、いっぱい幸せチケットを手に入れたい。
そして自分もいろんな人に感謝して、幸せチケットをみんなに渡したい。


若い頃はお金を求めることに抵抗があったけど、それはごまかしてたくさんお金をもらうようなお金もうけのこと。
正当な対価を受け取って、正当にお金もちになったなら、それはとても誇らしいことだと思います。

【古事記より】赤猪子(あかいこ)ちゃん

2012年03月16日 | たのしい古典
久々の楽しい古典更新です。
今日のお話は、古事記の雄略天皇の記事から、赤猪子(あかいこ)ちゃんのお話を紹介します。
口調は軽めに、でももとのお話になるべく忠実に訳してゆこうと思います。
ではどうぞー。




天皇がおでかけになって、美和河にやってきた時、河のそばで衣を洗っている少女がいました。

とっても美人でした。

天皇がその娘さんに
「お前は誰の子だ?」
とお尋ねになると、
「わたくしは引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)と申します」
とこたえました。
天皇は彼女に

「お前は誰とも結婚するなよ。今に私が召し上げて(妻にして)やろう」

とおっしゃって、戻っていきました。

それで赤猪子は、天皇のお召しがあるのをずーーーーーーーーーっと待って待って待って待って待ち続けて、とうとう80歳をこえてしまいました。


それで赤猪子は
「妃になれというご命令を待っている間に、ずいぶん年月を経て、私の姿は痩せしぼみ、もう頼るところもないわ。でもずっと待ってたってことをお伝えしないことには、気持ちがおさまらないわ!」
と思って、天皇へたくさんの貢物を持って、自分で献上しに行きました。



天皇は自分が以前「「結婚せずに待ってろよ」と命令されたことを、すーっかり忘れてしまっていて、その赤猪子に








「あんたどこのばあさん?
何しにきたの?」






とおっしゃいました
赤猪子は
「●年の△月に、天皇さまから結婚のご命令をいただいて、ずっとお召しをお待ちしているうちに80歳をすぎてしまいました。もう容姿も衰えて、頼るところもありません。でもお召しをずっとお待ちしていたという志を示そうと思って参ったのです」
と申し上げました。



天皇は大変驚いて

「私はすっかり忘れてしまっていた。しかしお前は志を守って私の命令を待ち続けて、無駄に盛りの時を過ごしてしまったのだな。なんとかなしいことだ」


とおっしゃって、心の中で








なんとかヤれるか?


とか思ってみるのですが、相手があんまり年をとってるのをはばかって、そういうことはできず、赤猪子に御歌を詠みました。


御諸(みもろ)の 厳白樫(いつかし)がもと 白樫(かし)がもと ゆゆしきかも 白樫原童女(かしはらをとめ)
三輪山の神威ある樫の木のように、その下の忌み憚られるおとめよ・・・




引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすはら) 若くへに 引寝(いね)てましもの 老いにけるかも
引田の若い栗林のよう若いときに寝ておけばよかったのに、年をとっちゃったなぁ




(ここに赤猪子の返歌があるけど省略)




それで天皇は、たくさんのご褒美をその老女にプレゼントして、家へお返しになりました。





おちまい。
天皇は基本的に一般人より寿命が長い設定なので、
「お前もじーさんだろ!!」
ってツッコミは不要です

にしても雄略天皇・・・・・・むちゃしやがる。





古事記が編集されたのが712年。
今年は1300年記念ということで、あちこちで古事記特集が組まれています。
結構「なんじゃそれ」話がいっぱいなので、よかったらみんな手にとって読んでみてね

「は?」って言わない

2012年03月13日 | 子育て・教育の話
授業中気をつけてること。
生徒の言った内容に対して


「は?」



って聞き返さない。


「は?」
っていう言葉には、本人にそんなつもりがなくても相手を否定する響きがあります。
大人はただ
「え?なんていったの?」
「なに?聞こなかったよ」
「ん?ごめん、聞き逃した」
くらいなつもりで聞き返してるのに、自信のない子は

「は?コイツ何言ってんの?バカじゃない?」


って聞こえてたりします。
気の弱い子や自尊心の強い子は、もうそれだけで

「いえ・・・なんでもないです。わかりません」

と、発言をひっこめてしまいます。
塾をやり始めた頃、うっかり「は?」って聞き返して何度か失敗したことがあります。
そんなふうにひっこめられた言葉は、どんな聞き方をしても二度と表に出してもらえません。



ある程度生徒との信頼関係が築けていればそこまで気にしなくてもいいですが、初期の頃はこういうちょっとしたことで生徒は萎縮してしまい、えらい遠回りをすることになります。



そんなわけで、私は授業中に「は?」は、全く使わなくなりました。

文章問題と国語

2012年03月06日 | 子育て・教育の話
小学3年生の子35人が、5人がけのいすに座ります。いすはいくついるでしょう?

35÷5=7   こたえ7つ


よくある普通の問題です。
もう10年以上前に家庭教師していた子が、問題を見たとたんに悲鳴をあげました。




「先生!!これ数字がみっつもあるからできない!!!」



私はポカンとして「みっつ???」と聞き返します。
問題を読んでみると確かに数字がみっつ。
35
でもこの「3」は3年生という学年をあらわしているだけなので、問題を解くには必要ない数字です。
「わり算の単元だから、問題を読まなくても数字をふたつとりだして割れば答えが出る」
という感覚なんだろうな・・・と思って
「よく問題を読んでごらん」
と言いました。

その子はもういちど問題に目を向けます。
そして・・・。




「何回読んでもみっつある!!解けないよ!!!」






笑い話のようですが、その子は真剣です。
文章問題の文章を読むという習慣が全くなかったのです。
パズルのように数字を組み合わせて式をたてる、計算して出たものがこたえ。
そうやって今まで問題を解いてきたのです。
この子ほど極端ではないにしても、こういう解きかたしてる子、結構いますよね。


中学生でも
方程式2a+5=7a-10を解け
は解けるのに、
aの2倍に5を加えると、aの7倍から10をひいたものに等しい。aを求めよ。
は解けない。
そんな子はたくさんいます。



文章題では習った単元の理解だけではなく、問題文が何を聞いているのか、数字が何を意味しているのかを読み取る力も求められます。
だから読解力がその問題に追いついていない子は、そこでひっかかってしまうのです。
以前書いた「方程式は理解しているのにかけ算があやふやで間違える」という状態に似ているかもしれません。



これは算数に限ったことではありません。
たとえば歴史の出来事の名前は覚えられても、それがどういう事件なのか理解できない。
英文を訳そうとしても、それに相当する表現がわからない。
そんな現象を何度も見てきました。
「ちょっと読む練習を」
と、英語や数学の時間に多少取り入れることはありましたが、学校の授業はどんどん進むし、目の前に受験が控えていたりでなかなかゆっくり練習できません。
国語ができなくて他の科目が遅れているのに、他の科目についてゆくために国語の練習ができない、そんな悪循環に何度もじれったい思いをしました。


あー・・・
この子をもっと早く見ることができていたらなぁ。



何度そう思ったことか・・・。


まもなくはじまる私の国語教室。
小学生までの子が対象なのはそういうわけです。
国語といいながら算数の文章問題なども授業でとりいれてゆこうと思っています。
国語科の点数をのばすための国語教室ではなく、すべての学びの土台をつくる国語教室でありたい、そういう授業をしたいと、常日頃思っています。




とか言いながら、今月は高校受験のための短期国語講座をするこの不条理





※補足
これはみんながみんな小さいうちから国語の塾に行きなさいという話ではありません。
本人の興味の方向などによって差はありますが、文章問題などで必要な国語力は普通の生活の中である程度身につきます。

「わからない」ことをわかろう

2012年03月03日 | 子育て・教育の話
今日はめずらしく携帯からの更新。


あなたがまったく新しいことをはじめるとします。
学問、機械、おけいこごと、なんでもいいです。
次のどちらの人に教えてもらいたいですか?



A第一線で活躍する、その道のプロ。

Bあなたより1年ほど前に学びはじめた人





私なら断然Bです。





学問に限らず、その道というものは、どこまでもどこまでも奥深いものです。
極めるほどに新たな疑問が出てくる、知識はどんどん深まる。
そんな一流の人に教えてもらえたら、さぞかし上達するだろう……と、思う人、いるんじゃないでしょうか?
塾講師のアピールに「東大卒!」「京大卒!」などとうたっているのは、「優秀な人に教われば安心!」という信仰が実在するあらわれだと思います。
ところがよほど訓練をしていないと、そういう方たちは自分が初心者だった時の感覚を覚えていないのです。
もうその人にとっては当たり前すぎて、初心者が感じる「わからない」がわからない。
だから話は自然に難しくなり、習おうとする生徒は戸惑うばかり…。



昔ある市役所で、一般市民向け講座をする方に
「講座の内容は、自分が専門で1番得意な分野ははずした方がいいですよ」
と、アドバイスしたことがあります。
専門分野で思い入れがありすぎて、どれもこれも重要、伝えたい、はずせない、そんな濃密な内容は初心者には享受しきれないからです。


だから私は何かをはじめるなら、
「自分よりちょっと上の初心者」
に習いたいのです。
ついこの間まで同じ位置に立っていた人なら、つまってる場所も共感してくれるだろうし、そもそも詰め込みすぎるほどの知識もないですから。



といっても、世の中の先生たちはいつまでも初心者にとどまってはいられません。
何かを教えるためには、自分がそれを学ぶと同時に、こだわりを思い切って削る勇気や技術が大切なのです。
そして教え子の位置までの長い階段を降りてゆき、相手の「わからない」をわかろうとしなくてはいけません。
私もいつも気をつけているつもりですが、やはり大好きな分野や思い入れのある内容を教えるのはいまだに苦手です。


あなたが誰かに教えるときはどうしてますか?
報告書を書き方、時計の読み方、なわとびの飛び方、子供や初心者がつまづくポイントがわからずに
「そうじゃなくてもっと簡単なやり方があるでしょ?」
「こうやったらそうなるに決まってんじゃん」
「これはこうなって、例外的にこうなるときもあって、あとこの場合はこれを使って…」
「なんでこれがわからないの?」
イラつき、呆れ、
「この子は全然だめな子だ」
と、絶望したりしてませんか?

その子がダメな子と判断する前に、自分がその子の位置までちゃんと歩み寄ろうとしているか、ちょっと気にしてみてくださいね。
ハイハイする段階の赤ちゃんに、一生懸命走り方を伝えようとしている自分に気付くかもしれないですよ。