らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

高野街道を歩く(1)

2016-09-27 | 趣味

一昨日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー12名と高野山を歩いてきました。
前回は和歌山県九度山町までだったので、今回は九度山町の慈尊院(丹生官省符神社)登山口から町石道を上って高野山に行く筈でしたが、なにぶん参加者全員が70歳過ぎのご老体ばかりなので、このコースは否決となり、電車とケーブルカー、そしてバスを利用して高野山奥の院口まで行くことになりました。
帰りはケーブルカーの登り口である極楽橋駅まで歩いて下山することにしました。
今日から数回に分けてご紹介します。

「極楽橋駅」
南海電鉄 極楽橋駅からケーブルカー乗車口までの連絡通路です。
夏には「風鈴トンネル」に変わるようであり、この日も風鈴がたくさん飾られていました。
ここから高野山駅までは約330メートルの標高差があり、日本有数の急勾配を約5分で一気に昇ります。



ケーブルカーの交差地点です。
極楽橋駅から標高867mにある高野山駅までを約5分で上る2両編成のケーブルカーです。
途中には最大傾斜29.2度とい急こう配もある鋼索鉄道です。



「高野山駅」
高野山駅はケーブルカーが開通した1930年に開業し、2005年に国の有形文化財として登録されました。
2015年にリニューアルし、丸窓や欄干など昭和5年の開業当時2階に取り付けられていた意匠を再現するとともに、駅舎の外観も可能な限り開業当時の意匠へ復元しました。



「奥の院」
和歌山県にある真言宗の総本山・高野山。
数多くの歴史上の人物や全国の藩主・大名の墓、珍しい形の墓や供養塔があるのが「奥の院」と呼ばれる場所で、戦国大名の6割以上の墓がここにあるとのことです。
参道が作られたのは平安時代後期から鎌倉時代と言われ、 「一の橋」の入口から、空海が今も瞑想を続ける「御廟(ごびょう)」まで続く参道は約1.9kmで、参道の両脇には20万もの墓や供養塔が立ち並んでいます。

「奥の院燈籠堂」
手前の橋は御廟橋です。これから先は霊域になるので撮影禁止となります。
正面奥に見えるのが燈籠堂です。

燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)が初めて建立し、その後、藤原道長によって西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。
堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。
一つは、祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親灯(きしんとう)で、もう一つが、白河上皇が献じた白河灯(しらかわとう)です。
この祈親灯の事を、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で、献灯したと伝わるお照(おてる)の話に因んで貧女の一灯(ひんにょのいっとう)と呼ぶ説もあります。
それにあわせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂です。

なお、弘法大師空海御廟は燈籠堂の中に入り左手から参拝経路を回り込んだところ、ちょうど燈籠堂裏側にあります。



「水向地蔵」
金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいます。
奥の院に参詣する人々は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けてご先祖の冥福を祈ります。



「豊臣家墓所」
この墓所の正面には豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。
織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山応其(こうざんおうご)上人の説得により高野攻めを取り止め、以後、応其上人の言葉に耳を傾け、高野山を庇護するとともに復興興隆に努めました。



「汗かき地蔵」
奥の院の中間地点、中の橋を渡るとすぐの地蔵堂の中には汗かき地蔵をお祀りしています。
この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。



「姿見の井戸」
高野七不思議のひとつ、汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているそうです。
さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われています。