1959年
二十四日付けで畠中良雄内野手と山下清治捕手を任意引退選手にするむね発表された。畠中は一昨年人見とともに東都(日大)の優秀選手として阪急へ入団、当初は人見以上に期待されていた。しかし瞳が肩の故障にもめげず打力を生かしてレギュラーにのし上がったのにひきかえ、畠中は打力がいま一つ足らず、あたら俊足と好守を生かしきれなかった。いっぷう変わった顔だち、赤みがさして外人を思わす風ぼうだったが、根はいたって人なつこかった。大の風呂好きで合宿では暇さえあれば湯ぶねにつかっていたものだ。「一日に三度」というのが日課で、三度の食事は欠かしても入浴は欠かさぬとひやかされた畠中だ。前二軍監督酒沢氏のいる日本楽器へ就職の予定だが、再出発にあたって、「力の限界を悟った。しかし一度は優勝の感激を味わいたかった。来シーズンからは戸倉さんの下でナインが心機一転、Aクラスに返り咲くよう期待したい」と別れのことばを残して住み慣れた合宿を去って行った。
二十四日付けで畠中良雄内野手と山下清治捕手を任意引退選手にするむね発表された。畠中は一昨年人見とともに東都(日大)の優秀選手として阪急へ入団、当初は人見以上に期待されていた。しかし瞳が肩の故障にもめげず打力を生かしてレギュラーにのし上がったのにひきかえ、畠中は打力がいま一つ足らず、あたら俊足と好守を生かしきれなかった。いっぷう変わった顔だち、赤みがさして外人を思わす風ぼうだったが、根はいたって人なつこかった。大の風呂好きで合宿では暇さえあれば湯ぶねにつかっていたものだ。「一日に三度」というのが日課で、三度の食事は欠かしても入浴は欠かさぬとひやかされた畠中だ。前二軍監督酒沢氏のいる日本楽器へ就職の予定だが、再出発にあたって、「力の限界を悟った。しかし一度は優勝の感激を味わいたかった。来シーズンからは戸倉さんの下でナインが心機一転、Aクラスに返り咲くよう期待したい」と別れのことばを残して住み慣れた合宿を去って行った。