国際情勢の分析と予測

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1978年以降の中国の少数民族優遇政策は文化大革命に対する満州族の反撃?

2007年04月02日 | 中国
●中国少数民族地域の民族教育政策と民族教育の問題-内モンゴル自治区の民族教育を中心に-哈斯額尓敦

1.はじめに

中国は漢族と五十五の少数民族から構成される「統一した多民族国家」である。全国人口統計(2000 年)によると、全国において、漢族人口が 11 億 5000万人、少数民族の総人口は 1 億人であり、全国人口の 8.4%を占めている。地理的に見た場合、漢民族が大陸の中部から沿海東部にかけて居住し、少数民族人口の多くは西南・西北・東北・北部という辺境地域に集中して国境線を一回りするかたちで居住しており、少数民族の居住する地域は全国土の 64%を占め、民族自治地方として五つの自治区、三十自治州、百二十自治県・旗がおかれている。中国少数民族の社会、文化に関する研究はかなり進んできたが教育研究は最も遅れている分野であるといわざるを得ない。最近になって中国少数民族教育に関する研究は数多く現れたが、その特徴として内容は以下のようなものがある。中国国内においては、少数民族教育と少数民族地域の経済発展との関係を対象にする研究が多い。また現在の民族政策を客観的に分析するのではなく、現状の確認、低い就学率・進学率等の問題点の整理、問題克服のための政策提言を行うものが多い。事実上、中国の少数民族教育は国の「国民化」のための統合教育政策と、民族地域における文化の繁栄のための政策、及び少数民族に対して実施する「特別な優遇施策」という三点が交錯する複雑な政策環境におかれている。このような多面性をもつ教育政策が、中国の少数民族地域における民族教育のなかで、政策・理論と現実の大きな食い違いを絶えずもたらしているといってよいだろう。また外国人研究者においては、中国の少数民族教育に関する研究論文はそれほど多くなく、研究が深化してきているとは言えない。また外国人研究者は、「政治的問題」から自由ではあるが、実態把握のための資料収集が難しいこともあり、中国で出版されている『教育統計年鑑』などを用い、少数民族教育状況や政治運動、政策転換などの関連性を概略的に記述した研究が多い。しかし最近中国の少数民族地域に現地調査を行い、実証的アプローチをとる外国人研究者も登場しはじめたことが注目される。

 本研究は中国少数民族教育政策の内容を新たな視点から考察する試みを行ったものである。本研究の意義として次の二点を強調したい。
一、中国の少数民族教育に関して、その複雑性と矛盾性を分析し、民族教育の抱えている問題を新たな視点から検討する。今までの中国の少数民族教育をテーマにした研究論文では、外国人研究者にしても、中国出身の研究者にしても、単に国の統合政策、或いは少数民族地域における優遇政策を論じることが多かった。本論文では、中国の少数民族地域における教育政策の多面性を詳しく分析し、それが実際の民族教育の中でどのように働いているのか、つまり、少数民族教育政策が民族教育に与える影響のあり方まで分析していく。
二、中国の少数民族地域における教育の状況を新たな立場に立って、多元文化の視点から客観的に分析するよう努力した。新しい試みとして過去の「中央」の視点ではなく「周辺」の視点、「漢民族」の視点ではなく「少数民族の視点」から少数民族文化教育の現状を分析しようとするものである。

以上の点から、具体的に内モンゴル自治区のモンゴル民族学校教育の事例を通し、少数民族教育の現状からその中国少数民族教育政策の果たした役割について分析を行う。上述したように中国の少数民族教育は、少数民族地域における少数民族文化の繁栄のための政策、及び少数民族に対して実施する「特別な優遇施策」と国の「国民化」のための統合教育政策という複雑な政策環境におかれている。それでは、少数民族文化を繁栄させるそれらの政策と少数民族教育を対象として実施されている「特別な優遇施策」が少数民族教育にどのような影響を与えたのか。その政策が少数民族教育にどのように働きかけ、少数民族の教育事業がどのような繁栄を遂げられたのか。一方国の「国民化」を目指した統合教育政策が少数民族教育にどのような影響をもたらしたのか。その「統合」のメカニズムが少数民族教育の場でどのようにその役割を果たしているのか。本論文で内モンゴル自治区の民族教育の事例を通して、上の問題に対する答えを見つけ、多面性をもつ教育政策の下におかれる中国少数民族地域の「民族教育」の発展の矛盾性を分析し、その民族教育の抱えている問題を明らかにしたい。

2.中国少数民族地域における民族教育

(1) 民族教育の時代区分
1949 年中華人民共和国が成立時から内モンゴル自治区を含む各少数民族地域に「民族教育政策」が実施された。中国の少数民族教育のシステムは中央政府の「民族の平等」政策を基礎として創られ、中央政府の様々な法的な規定と政策方針によって維持され、実施されて来た。しかし、民族教育政策は実践面では色々と挫折があり、ある時期には多くの特別措置が少数民族に与えられ、ある時期には少数民族と民族教育は直接な攻撃の対象になるというように極端に変動してきたのである。中国の少数民族政策と少数民族教育政策の歴史的な経緯について次のような時期区分がされている。
①1949 年~1957 年の少数民族政策に安定した政策がとられた安定期
②1958 年~1963 年の百家争鳴から反右派闘争への急転換、地方民族主義への攻撃、民族融合論に急進した急進期
③1964 年~1977 年の文化大革命による民族文化の破壊などの過酷政策が取られた階級闘争期
⑤1978 年~1990 年代までの改革解放政策により民族政策と民族教育政策が回復した時期。ただ、1990 年代に入ってから、中国政府が実施した市場経済の規則が少数民族の経済、文化、教育の各分野で公平競争のルールをもたらし、それが元から弱い立場にあった少数民族の文化、教育の事業を衰退、漢民族への融合の危機に直面させ、その速度を速めた時期となったとも考えられる。従って筆者はこの時期を「市場化」の時期(1990 年~)と称しておきたい。

(2) 少数民族教育政策の内容

少数民族教育政策の内容としては、具体的に次のような政策が取り上げられてきた。まず、「民族平等」を基礎にした民族教育政策と少数民族を対象とした様々な優遇政策と特別措置である。中国の少数民族政策の基礎は「各少数民族は一律に平等」であり、ここから導かれて、中国の少数民族教育は、理論的に「一律に平等」に扱われる諸民族が構成する「平等」社会の実現を追及することを目指した。従って、少数民族地域にも、漢民族地域と同じ学校教育、義務教育制度を導入し実施しているのである。他方で、中央政府は現実に少数民族地域は政治的にも、経済的にも、文化的にも「遅れて」いるととらえ、その漢族と各少数民族の間の「格差」をなくして民族「平等」を達成するため、少数民族に対して様々な形の「優遇」政策を取っている。その少数民族への優遇政策は「民族区域自治法」で以下のように規定されている。「国は、民族学院を創設し、高等学校に民族組、民族予科を設け、少数民族の学生を専門に募集・採用するとともに特別の学制募集、特別の定員配分という方法をとることもできる。高等学校及び中等専門学校は、新入生を募集・採用するにあたって、少数民族の受験生に対しては、採用基準および条件を適宜に緩める」。
しかし、中央政府は少数民族に対して民族伝統文化を重視し、民族言語、文字を発展させる「民族化」の教育政策を進める一方で、同時に少数民族を「国民国家」へ統合させる教育政策を実施してもいる。その統合教政策が次のような政策・措置によって現われていると考えられる。

①「中華民族」・「多元一体」理念の創出と教育場での実施:80 年代末、中国で社会学・民族学の権威として大きな影響力をもつ費孝通が「中華民族の多元かつ一体の構造」という概念を打ち出して、中国中央政府の少数民族政策に新たな方向を指し示した。費孝通の「中華民族多元一体の構造」の論は次の三点に整理される。

一、中華民族とは、中国領域内の五十六民族の実体であって、五十六民族の総称ではない。つまり中華民族の一体感は、普通の民族一体感より一段上のレベルのもので、いわば中国領域内に住む諸民族は、「二重のアイデンティティ」を持つ。
ニ、民族が分散した多元状況が一体化するプロセスが重要で、その場合の凝集力の核心が漢民族である。
三、高いレベルと低いレベルのアイデンティティ(同一性)は排斥しあうものではなく共存できるものである。
このように、諸少数民族を融合し、漢民族を核心とする「中華民族」概念で、統一した多民族国民国家をつくるという「中華民族の多元一体」理念が教育を通じて有効的に実施されるようになった。

②「共通語採用措置」と「文字改革運動」:中国語の北京語を国の「共通語」と定め、少数民族地域で「共通語」の学習を積極的に進めることを奨励する五十年代から始まった政策である。またそれと同時期に、文字を持たない民族を援助して文字を創立する、すでに文字を持つ民族に対しては「文字改革」を行うなど少数民族文字を漢語拼音(ピンイン)化するという政策を採り、それが結果的には、文字・言語の共通性をつくることによる少数民族の漢民族文化への「融合」につながったのである。

③「二言語併用教育政策」:少数民族に対して、民族語と漢語の二言語教育、或いは二言語を用いた教育を実施するという言語政策である。中国の少数民族二言語教育が公式に始められたのは 1950 年であり、少数民族の初級中学で「国語と民族語を同時に教える」よう当時の国家教育部が定め、漢語の授業数を初級中学一年生から週三時間と指示したことから始まったのである。

④ 学校の思想・政治教育:漢民族と少数民族を問わず、学校教育において実施されている政治色が濃い教育であり、少数民族に対しては「統合教育」の最も重要な一環と考えられる。政治・思想教育はいかなる学校段階や学校種別において設置されている。その内容においては「マルクス・レーニン主義」、「弁証唯物主義」、「中国革命史」「民族理論」などが必修の科目として強調されており、少数民族の高等学校では、当民族の歴史、地理の科目が許可されないか、補助教育材料に留まっている。

特に「二言語併用政策」は様々な曲折を経て現在、国の政策として定着したものの、実際その制度と現実の間に大きな落差があることも現実である。具体的な問題を取り上げてみると、少数民族学校が行う漢語教育は、五十年代には初級中学の一年生から、六十年代には小学校高年生から、八十年代に小学校二~三年生から始めるようになり、学習開始の時間はますます早めになり、母語教育と同時におかれるようになった。しかも、小学校で民族語教育を受けた生徒達が中学校や高等学校に進学する場合、漢語教授体制の学校に進学するしかない状況におかれる地域も珍しくない。その他、中央政府の移民政策、経済開発活動などによる大量の漢民族人口の入植が少数民族地域での人口比例を崩し、それにより民族語の比重は小さくなり、代わって漢語の重要性が高まりつつあるのが事実である。八〇年代から「経済文化の建設」が提起されるようになり、少数民族の教育の発展は民族経済の発展に資するものであり、民族経済の発展に資する人材を養成することが目標とされ、民族教育が現実的利益のための教育という道に入った。 特に 1992 年の市場経済化政策は、経済重視に拍車をかけて、少数民族政策に一部市場経済の法則を揚げた効率主義、弱肉強食の競争原理が持ち込まれ、元から弱い立場にあった少数民族教育をもっとも不利な立場に追いかけた。高い経済成長とは裏腹に、民族教育への投資が減り、民族教育分野では経費や人材不足が深刻化して、大量の民族出版物が停刊し、民族学校が漢語学校に合併されるなどが起こりつつある。

ここまで、中国中央政府の少数民族教育政策の内容を検討してきた。分析の結果として中国少数民族教育政策は、民族地区自治と各少数民族の言語、文字、宗教、文化の発展を支持する教育政策を実施する一方、「中華民族」の概念を主張し、多民族国家を「国民国家」に完成させる政治、経済、文化的な「上から」の統合を実施するという、二重性を持つ政策であることが言えるだろう。次にこのような性質をもつ教育政策が少数民族教育に具体的にどのような影響をもたらしたかを、内モンゴル自治区の事例を通して分析してみたい。

3.内モンゴル自治区における民族学校教育
<中略>

4.終わりに

以上、内モンゴル自治区のモンゴル民族学校教育の事例を通して、中国の少数民族教育政策のもとにおける民族教育の成果と現実的な問題を検討してきた。中国の少数民族教育政策の内容を分析した場合、それが少数民族地域において少数民族の文化の繁栄、教育の発展を図る「優遇政策」を実施する一方、学校教育によって少数民族に対する「国民統合」を目指す「統合政策」を実施していると考えられる。このような矛盾性を持つ教育政策の下におかれる少数民族教育はその発展の矛盾性をすでに示していることが観察される。中央政府の実施している少数民族の言語・文字と文化を発展させるための「優遇政策」を通して、少数民族教育はハード面での発展を遂げている。この点については、上に述べた内モンゴル自治区の事例からもわかるように少数民族地域において各段階の学校、民族学院などが大幅に増え、学校数、学生と教師の数、学歴などはかつてないレベルに達するなど学校教育が大きな成果を収めていると言えよう。しかし他方では、このような「優遇政策」が実施されているにもかかわらず、少数民族言語・文字による教育が衰退に陥り、民族伝統文化の教育が厳しい状況に直面するという矛盾が生じている。現実には自民族言語で教育を受ける学生の比率は小学生が 40 年代の 6 割から 90 年代の 5 割、高校生が 50 年代の 8 割から 90 年代の 4 割に下がり、これからも民族言語による教育はいっそう厳しい場面に直面し、学習者が少なくなりつつある状況は続くだろう。この点では、内モンゴル自治区における民族言語で教育を受けた学生数は小学校が 6 割、中学校は 5 割、大学が 4 割まで減っており、さらにウラン―ハダ(赤峰市)地区では民族言語で教育を受けた大学生数が 32.2%まで下がったことが裏付けている。逆にいえば、内モンゴル自治区ではモンゴル族学生の小学校が 4 割、中学校の 5 割、大学の 6 割が母語教育から「共通語」教育に転じたことは少数民族の教育を発展させ、少数民族文化を繁栄させるという国の「優遇政策」の理念から外れているに違いない。それはむしろ、少数民族教育政策の裏面にある「統合教育」と関連していると考えてよいではないだろうか。その理由として、「統合教育政策」のもたらした直接的な結果ではないとはいえ、少なくとも「統合教育」の目指す「国民国家」理念と一致しているとは言えるだろう。

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/tagen/tagenbunka/vol5/hasu5pdf.pdf

http://72.14.235.104/search?q=cache:QUra7dKmCDoJ:www.lang.nagoya-u.ac.jp/tagen/tagenbunka/vol5/hasu5pdf.pdf+%E5%B0%91%E6%95%B0%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%84%AA%E9%81%87%E6%94%BF%E7%AD%96&hl=ja&ct=clnk&cd=7&gl=jp





●中国の少数民族政策

 中国には56の民族が暮らしている。漢族がその大半を占め、少数民族は全人口の8%に過ぎないが、そうした少数民族に対し、中国は保護政策を採っている。

 少数民族政策は、文化大革命という紆余曲折の時代を経て、1978年以降回復された。少数民族を保護し、特権を与えるなどの政策の転換によって、その人口も急増の一途をたどった。1990年と2000年に行われた2度の国勢調査結果を比べると、漢族人口の増加率は11.22%(11,692万人増)だったのに対し、少数民族人口は10年間で16.7%の増加(1,523万人増)だった。増加の第一の要因は、漢族に対する厳しい一人っ子政策が少数民族には行われず、少数民族に対する計画出産規制が緩和されたことがある。また、漢族と少数民族の「通婚」が増える傾向にあるが、その間に生まれた子供が優遇政策のために少数民族を名乗ることで、人口が増えている部分も大きい。

 具体的な少数民族優遇政策は、①計画出産規制の緩和で第二子(農村では第三子)の出産を許可、②上級学校への進学時に漢族より有利(合格点数・宿舎費・奨学金)、③少数民族家庭に支給する一人っ子手当てが漢族家庭の2倍、④政治的に優遇され、幹部にもなりやすいケースがあるなど。このような優遇政策により、少数民族の政治的・社会的・経済的地位も向上してきた。
中国の少数民族政策はあまり外国では知られていないが、多民族国家である中国の統一にとって欠かせない政策の一つであり、社会安定に重要な意味を持っている。


ERINA(環日本海経済研究所)李勁
新潟日報2001年7月16日付
http://web.archive.org/web/20050906073314/http://www.erina.or.jp/Jp/Letter/H2001/EL010716.htm





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中国政府は自ら共産中国体制を崩壊させ始めた?

中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」の大幅に加筆した完全版では、溥儀は1945年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。1964年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。






【私のコメント】
ソ連軍の参戦という日本の敗北確実な情勢で、溥儀がソ連に寝返るどころか日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことが明らかにされている。このような危機において日本を助けてくれた満州族こそ日本の真の友人である。彼らはその報復として、文化大革命までの期間に大きな迫害を受けたと想像される。ソ連軍が侵入すると寝返って日本人に暴行略奪の限りを尽くした朝鮮人との違いは余りに大きい。我々は満州族のこの友情に報いねばならないだろう。日本が最近上海近郊に大規模な投資を行ったことで、満州国時代に日本が建設した工場は競争力を失い、満州では大量の失業者が出現している。これは、満州から漢民族を流出させるための日本・満州族の共同作戦なのかもしれない。

漢民族の満州への入植が解禁されたのは、アイグン条約と北京条約でロシアが満州北部を清に割譲させ、清への脅威が高まったことにある。ロシアの侵略への対抗処置として満州族の故郷の喪失という大きな対価を払ってまで開始された漢族入植は、今や4000kmの陸上国境の先の満州に住む一億人の中国人の脅威となってロシアを脅かしている。ロシアは自ら撒いた種により追いつめられているとも言える。

哈斯額尓敦さんの論文によると、中国の少数民族優遇政策が開始されたのは文化大革命による民族文化の破壊などの過酷政策が取られた階級闘争期の終了と同時期である。毛沢東が死去し四人組が失脚した1976-1977年は、ソ連でスターリンが死去しカガノビッチとベリヤが失脚した1953年に相当するのだろう。

中国の少数民族優遇政策は、①計画出産規制の緩和で第二子(農村では第三子)の出産を許可、②上級学校への進学時に漢族より有利(合格点数・宿舎費・奨学金)、③少数民族家庭に支給する一人っ子手当てが漢族家庭の2倍、などの点で優遇しつつ、上級学校を卒業した者が漢民族の支配する世界で生きてゆくことにより、漢民族への同化・融合を進めて少数民族を消滅させるという両方の性質を持っている。従って、この政策によって多くの少数民族は必ずしも利益を受けているとは言い切れない。しかし、既に独自の言語を失って久しい満州族は優遇措置の利益のみを享受できる立場にあると考えられる。「1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加している」とのwikipediaの情報も合わせると、実は1978年以降の少数民族優遇政策は文化大革命で迫害された満州族の反撃という性格を持っているのかもしれない。
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9 コメント

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Unknown (Unknown)
2007-04-03 14:36:30
満州族が独立国家を作るとは考えられない。満州族が多く居留している中国の省の総人口は4億人くらい?で、満州族は1000万人程度だから。

でも見方によれば、他の国や地域に行けば、1000万人の部族集団というのは馬鹿には出来ない。ユダヤ人もそれぐらいの人口だ。(アメリカだけだとユダヤは500万人程度) しかも、その1000万人以外にも満州族との混血比が強い漢族が居るだろう。

だとしたら、満州族は独立国家を作らずに、中国という大国の中で寄生して、支配集団として君臨したほうが、満州族の利益にかなうと思う。つまり、アメリカにおけるユダヤ人のような存在としてだ。

満州族が他の中国の少数民族と決定的に違うのは、歴代の中国王朝には満州族系の王朝が多かったこと。清、金は女真族だし、唐は鮮卑だし、その他にも満州族の王朝は多かったりする。北魏とかもそうだったかな?そういう意味で、彼らの中には誇りが強いはず。(ちなみに、朝鮮半島を征服した高句麗や百済の扶余系も満州系である)

そして、この満州族は意外に親日であり、そして、漢族に対して不満があり、そして世界で一番、朝鮮族が大嫌いであるw

なんでも、金の時代に、漢族は朝鮮族を使って、女真族を痛めつけたそうだ。遠交近攻というやつである。だから、満州族が漢族を完全征服して清を建国した時、今までの恨みとばかりに朝鮮族を徹底的に属国として痛めつけた。

だから、現在の中国の東北工程の動きも分かるような気がする。これは、漢族にとってもデリケートな問題なので、思い入れが強い問題だが、漢族以上に満州族にとっては命がけだと思う。

朝鮮が聖地としている長白山(朝鮮名は白頭山)は、満州族の発祥地である。よって、中国国内の満州族は韓国・朝鮮に対して大激怒していると思う。

また、歴代の韓国の王朝も、百済や高句麗は、扶余系という中国満州地域の民族が半島原住民(韓)を征服して出来た王朝である。そのほかに扶余系の中から分派した鮮卑によって中国最盛期の唐王朝が建国された。

魏志には、満州に居た扶余系は8万余戸居たと書かれており、人口だと40万人くらい居たと思われ、当時の中国東北地区の大部分を占めていたと思われる。よって、その殆どが後の女真族や鮮卑に移行したと思われる。

韓国は、高句麗や百済を建国した王室が扶余系だったので、この扶余系を韓国民族として扱おうとしているが、これは無理のある話である。おそらく、魏志に書かれた、東北地区に居る扶余8万余戸は大半が、女真などの中国東北部族に移行したと思われ、そのほんの一部の亡命一派が百済や高句麗を建国したのである。

しかも、百済や高句麗も滅亡後は、支配階層の扶余系の9割以上が、中国東北地区や華北地区に逃げ延びたのであり(ほんの一部が日本にも逃げた)、後に残ったのは原住民の韓系と、扶余系とは別の征服者であり統一新羅を建国したワイ族である。


これらのことから、日本は、中国の裏を支配する満州族と協力することは理にかなっていると思う。
返信する
Unknownさんへ (princeofwales1941)
2007-04-03 18:37:58
>満州族が多く居留している中国の省の総人口は4億人くらい?で、満州族は1000万人程度。

満州族の集中的に居住する地域は東北三省+河北省北東部(北京・天津の北東側の高原地区)であり、その地域の総人口は約1億2千万人程度で、満州族は一割弱の約1000万人と推定されます。伝統的な満州族の居住地域もほぼこの地域に一致します。

遼に割譲された燕雲十六州の歴史からも分かるとおり、北京と天津は満州・モンゴル・華北平原・渤海の四者が交わる地政学的要地であり、それ故に満州系やモンゴル系の征服民族による帝国の首都が置かれたのだと思われます。この地域は文化的には北方民族の影響を色濃く残しますが、地理的には華北平原の一部であり、満州にもモンゴルにも所属しません。

さて、一億二千万人の総人口の中の一千万人の満州族が果たして国を作ることが可能かどうかと言う問題があります。ただ、内モンゴル自治区ではモンゴル族は人口の約二割に過ぎなくなっていること、満州族は間違いなく満州の先住民族であること、大学進学者が異常に多く政治力は非常に強いと想像されることを考えると、この地域が内モンゴル自治区と同様の民族自治区に指定されることはあり得ると思われます。そして、中国各地の民族自治区がや上海などが現在の香港と同様の高度の自治権を有する特別行政区に指定されて事実上の独立を手に入れると言うこともあり得るでしょう。



>満州族は独立国家を作らずに、中国という大国の中で寄生して、支配集団として君臨したほうが、満州族の利益にかなうと思う。つまり、アメリカにおけるユダヤ人のような存在としてだ。


少数派の満州族(あるいはモンゴル族も含めてもよいかもしれない)による多数派の漢族支配という政治システムは基本的に不安定です。金は中国北部しか支配できませんでしたし、元も短期間で滅んでいます。比較的安定していた清も、「廃満興漢」をスローガンとした太平天国の乱(これは恐らく国際金融資本の扇動によるものでしょう)によって一挙に弱体化しました。その結果、満州族は清を失うだけでなく、故郷の満州をロシアの侵略から守るために漢民族の大量入植が避けられなくなって満州をも失っています。中華民国時代、あるいは文化大革命期に彼らは激しい弾圧を受けたと想像されます。

このような歴史を顧みると、満州族にとっては先住民族の権利を最大限に活用して故郷の満州地区に限定してより大きな政治力を行使する方が賢明であるように思われます。満州の漢民族は満州族や朝鮮族、モンゴル人、日本人と同じ北方モンゴロイドであり、主に山東省や河北省などから移住した人々で、元々は氷河期にシベリアで狩猟生活を行っていた種族の子孫に当たります。各種優遇処置の実行や、陳腐化した工場の破産により発生した失業者を本土に帰還させることで、満州の漢民族の人口を減らし満州族の人口を増加させることはある程度可能と思われます。そして、満州族の高い教育水準を活用すれば、新満州国を満州族が完全に支配することは十分可能でしょう。少なくとも、中国全土を支配するよりも遙かに安定した政府が可能と思われます。

なお、上海閥と満州族を通じた中国の間接支配という政治システムは、満州国と汪兆銘による南京国民政府の再現であり、大東亜共栄圏の復活そのものです。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-04-03 22:41:41
清時代の少数の満州族による漢族支配と、これから起こるであろう満州族による中国支配とは根本的に違うと思います。

清王朝の場合は、満州族が直接、王朝を作っての支配体制なので、政策の失敗への批判は直接、満州族へ行きましたが、これからの満州族による支配は、あくまでも闇の組織・奥の院としての支配であり、政策の失敗は、漢族の支配者に行くのであって、満州族は裏に潜んでいるので、満州族に批判は行きません。

つまり、ユダヤ人方式です。

アメリカにおける保守白人が、中国では北京などの漢族であり、アメリカにおけるリベラル白人が、中国では上海・広東などの漢族であり、アメリカにおけるユダヤ人が、中国では客家・満州族になると思います。

そして、現在の中国人の朝鮮族への蔑視は、伝統的な漢族の朝鮮人に対する蔑視だけじゃなくて、清王朝時代に満州族が中国全土へ広めた朝鮮蔑視感情が大きいと思います。

それくらい、歴史的に見て、満州族は朝鮮人を嫌っており、その感情が中国13億人にも伝播している。

おそらく、これから朝鮮人にとっては、地獄のような未来がまっていると思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-04-03 22:55:47
現在の満族の中国社会での勃興は、かつてのロシア帝国内でのユダヤ教徒ハザール人の勃興に似ていると思います。

満族もユダヤ教徒ハザール人も遊牧民であり、かつて、農耕民であった漢族やロシア人を支配した歴史があります。

そして、その両方とも、数で勝る農耕民である漢族やロシア人に敗れ去り、最終的には併合・吸収されてしまいました。

よって、この両方のケースは似ている。

遊牧民だったユダヤ教徒ハザール人は、農耕民のロシア人に征服された後、ロシア社会内で強力な闇の少数民族に変質し、金融業などに手を染め、最終的にはロシア帝国を解体・ソ連の誕生に一役を買いました・

おそらく、これから中国社会でも似たようなことが起こると思います。よって、中国は国家分裂するのではなく、満族が闇の権力と化して、中国・漢族社会を乗っ取ると思います。

この場合、満族に乗っ取られた中国は、朝鮮半島にとっては地獄の帝国かもしれません。満族は歴史的に朝鮮人を嫌ってます。

逆に満族は日本人には好感を持っている。日本にとってはチャンスだと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-04-03 23:19:28
あと、現在の中国の朝鮮半島に対する攻勢は、将来、満族の自治区の獲得の意味もあると思います。

ユダヤ人がエルサレムにユダヤ人国家という存在を欲して、ソ連・大英帝国・米国・国連を使ってイスラエルを建国したようにです。

中国国内の闇権力になりつつある満族は、中国という大国を使って、北朝鮮を粛清・人口減させ、将来的に、満族の故郷である長白山を完全に奪還、中国東北地区から朝鮮半島北部にかけて、満族のイスラエル的国家を建国しようとしているのではないでしょうか?

満族は中国国内にも巨大なネットワークをはって中国を支配し、朝鮮半島北部には満州人国家を建国する。まさに、ユダヤ人たちがやっていることと同じではないのか?ユダヤ人もまた、エルサレムにユダヤ人国家を建国する一方で、ロシア・欧州・米英に強力なユダヤ人ネットワークを構築しています。

返信する
Unknownさんへ (princeofwales1941)
2007-04-03 23:48:02
>清時代の少数の満州族による漢族支配と、これから起こるであろう満州族による中国支配とは根本的に違うと思います。清王朝の場合は、満州族が直接、王朝を作っての支配体制なので、政策の失敗への批判は直接、満州族へ行きましたが、これからの満州族による支配は、あくまでも闇の組織・奥の院としての支配であり、政策の失敗は、漢族の支配者に行くのであって、満州族は裏に潜んでいるので、満州族に批判は行きません。


満州族が中国を奥の院として支配する力の源泉は何ですか?かつての清には強力な軍事力という武器がありましたが、それでも国際金融資本の「廃満興漢」のプロパガンダに脆くも崩れ去りました。ソ連前半期を支配したハザール人は同じユダヤ系の国際金融資本という強い味方の力で権力を維持しましたが、1953年のアイゼンハワー大統領登場直後のジューコフの反乱で失脚しました。今の満州族には強力な軍事力も、世界支配者の味方もいません。


短期的な政権樹立ではなく、数十年・数百年単位での安定した東アジア世界を実現するには、満州地域に虚構であっても国民国家を建設するのが良いのではないかと思います。それは満州国がかつて目指し、そして大日本帝国の敗北により挫折した路線でもあるのです。
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Unknown (Unknown)
2007-04-04 01:20:00
孔明さんが狂ってます。
どうにかしてください。
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Unknown (Unknown)
2007-04-04 01:21:42
その満州族を中国国外から支援するのは日本だったり。

いずれにせよ、完全な満州人国家の建国は不可能。
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>完全な満州人国家の建国 (princeofwales1941)
2007-04-04 18:22:09
>いずれにせよ、完全な満州人国家の建国は不可能。


そもそも、民族とか国民国家と言う概念が虚構なのですから、その完全性を問う事自体無意味でしょう。

フェルナン・ブローデルの受売りですが、国民性とは遺伝子ではなく地理的環境に規定されるものであると私は考えています。同じ北方モンゴロイドでも、シベリアのタイガに住めばエベンキ族に、モンゴル高原に住めばモンゴル人に、華北平原に住めばシナ人に、満州に住めば満州族に、朝鮮半島に住めば朝鮮人に、日本に住めば日本人になるのです。

先住民族と福建省からの移住民、更に第二次大戦後に流入した外省人という複雑な民族構成からなる台湾は、米中国交回復という国際情勢の荒波の中で「台湾人」という新たなアイデンティティを生み出しつつあります。同様の事は満州でも可能なのではないかと考えています。
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