国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

7月1日のプラウダロシア語版でカリーニングラードの独への返還に触れた記事あり、独露間交渉開始?

2006年07月10日 | 欧州
 プラウダロシア語版を見ると、地域ニュースの欄(http://www.pravda.ru/districts/)は全てロシア北西部の記事であり、全21本のうち実に12本がカリーニングラードに関する記事である。その他の記事はサンクトペテルブルグ州とアルハンゲリスク州に関するものであり、前者はカレリア地峡やナルバ市を含むレニングラード州に接し、後者はカレリア自治共和国に隣接している。カリーニングラードはドイツ、カレリア地峡とカレリア自治共和国はフィンランド、ナルバはエストニアとの領土問題が存在する地域である。ロシアに対して領土問題で最も強硬でロシア人が最も敵対的と見なすラトビアとの国境問題を抱えるプスコフ州に関する記事はない。

 6月26日から7月9日までの間に実に20本ものカリーニングラードに関する記事が書かれている。(http://www.pravda.ru/districts/northwest/kaliningrad/)。公共料金値上げ、HIVの増加、知事の急死、人身売買問題、通過ビザ制度の問題などの記事に混じって、この地がかつてケーニヒスベルグと呼ばれたプロシアの地であること、カリーニンはこの土地と縁もゆかりもないことなどについて述べる記事が2本存在するのが注目される。「ここにプロシア精神が・・・・」の記事は、ドイツの一部としてのこの土地の歴史、第二次大戦時の要塞戦、残留ドイツ人を追放した後にソ連から住民が移住したこと、現在は飛び地となりビザが必要なことなどが詳細に書かれている。中でも特に注目されるのが、「ロシアがカリーニングラードを占領するのは2回目である。一回目はピョートル3世がフリードリヒ2世のプロシアから1758年に占領した領土を4年後に返還した。」「ロシア人の中では、『ピョートル3世がかつて行ったように、自分達もカリーニングラードを占領した後ドイツに返還することになる』という会話が時々行われる。」「いずれにせよカリーニングラードはロシアの一部であり、我々は多量の血という代価を払ってこの地を占領した。そして、現在地域はロシアと国境線で隔てられている。」という部分である。ドイツへの返還の話題を、プラウダが地域住民の話題の一つとしてではあるが取り上げた意味は非常に大きいと思われる。どのような形かは分からないが、この土地の主権についてドイツとロシアの間で何らかの交渉が開始された可能性がある。

 ただし、現在の欧州では国境線を変更せずにEUの枠内で領土問題を解決する方針が取られている。もしカリーニングラードが独に返還されるならば、第二次大戦でポーランドがドイツから奪った領土、ウクライナやベラルーシがポーランドから奪った領土なども問題になってくる可能性がある。反ロシア政策でロシアを悩ませるポーランドへの脅迫の意味合いの方が大きいのかもしれない。この問題がどのように解決されるかは、結果的に東欧の国境線全てを書き換えかねない非常に重大な問題であり、決して目を離せない。


カリーニングラードで人々は今日カリーニンを思い出す 2006年7月4日
http://www.pravda.ru/districts/northwest/kaliningrad/04-07-2006/89761-kalinin-0 

ここにプロシア精神が・・・・ 2006年7月1日
http://www.pravda.ru/districts/northwest/kaliningrad/01-07-2006/89521-kalinin-0

【関連情報】
5/29のプラウダロシア語版でカレリア問題の記事あり。ロシアとフィンランドの領土問題も解決か?
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=7a7c2241a41177d6c75785fc4de363e8

エリザヴェータ (ロシア皇帝) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%BF_%28%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D%29

ピョートル3世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB3%E4%B8%96
七年戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

フリードリヒ2世 (プロイセン王) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_%28%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B%29


【7/11追記】
●ポーランド首相に大統領の双子の兄が就任?
 【ベルリン=佐々木良寿】ポーランドからの報道によると、同国のカジミエジュ・マルチンキエウィチュ首相が7日、所属政党「法と正義」に辞任の意向を伝えた。同党政治評議会は、後任の首相にカチンスキ大統領の双子の兄のヤロスワフ・カチンスキ党首を推すことを全会一致で決めた。週明けにも議会で承認される見通し。
 同首相は辞任の理由を明らかにしていないが、自由主義的な改革を指向する首相と、欧州統合や市場経済に懐疑的なカチンスキ党首ら党指導部との確執が背景にあると指摘されている。首相は党指導部との協議を経ないまま、側近のボイチェコフスキ氏を新財務相に指名したうえ、今週に入り、昨年10月の大統領選挙でカチンスキ大統領と決選投票を戦った「市民プラットホーム」のトゥスク党首と秘密裏に会談したことから、カチンスキ派の不興を買ったと見られる。
(2006年7月8日12時8分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060708i304.htm

●親ロシア派が連立で合意 ウクライナ
2006年07月08日09時35分
 ウクライナ議会で新たに多数派となった親ロシア派の地域党など3党は7日、連立内閣を編成する多数派会派の形成で正式に合意した。3党は同日、04年のオレンジ革命時の大統領選で親欧米派のユーシェンコ現大統領に敗れた地域党党首のヤヌコビッチ元首相を連立内閣の首相候補とすることも決めた。

 3党は第1党の地域党と社会党、共産党で、議会が再開する11日にも連立内閣を編成する方針も示した。ヤヌコビッチ氏は連立内閣の最重要課題として、価格をめぐり紛争が起きたロシアからのガス供給問題を挙げ、「ロシアは戦略パートナーだ。共通の言葉を見つけ、今年中の再値上げを回避したい」と強調した。

 しかし、首相候補を議会に提案する権限を持つユーシェンコ大統領は7日、ヤヌコビッチ氏の首相候補指名に具体的な評価を示さず、自身の与党「我々のウクライナ」によって幅広い連立会派を形成するよう努力を要請。今月25日までに新内閣ができない場合には憲法の規定に従って議会を解散する可能性にも言及した。先行きにはなお波乱要素が残る。

 実際、社会党のオレンジ連立からの離脱で急きょできた新多数派3党は具体的な政策プログラムをまだ持たず、閣僚人事もほとんど決まっていない。また、ロシア語系住民の多い東部を中心基盤とする3党だけで内閣を編成した場合、ウクライナに根強い東西対立を激化させる恐れもある。
http://www.asahi.com/international/update/0708/009.html


◆米国と非常に親密でロシアと敵対し、ウクライナのオレンジ革命を推進していたポーランドの新政権は、市場経済や欧州統合拡大に反対であるという点で、米英の目指す路線と明確に決別し、独仏型の社会民主主義への接近を意味すると思われる。ウクライナの新政権も、親ロシア路線である。7月7日という同じ日に東欧の2大国であるポーランドとウクライナでアングロサクソン=ユダヤ型の市場経済推進路線、親米英路線政権が倒れたことになる。

これはイルミナティが東欧に持っていた拠点の崩壊を意味する。ユダヤの世界覇権がまた一歩終焉に近づいたと言える。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« JJ予知夢実現? 今後、日本... | トップ | 7月5日午前4時30分ひまわり画... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
第二次大戦前の独立時代のバルト諸国の国境線は未だにロシアの施政権下のままです!! (風林火山)
2008-03-03 00:42:41
エストニアとロシアの国境は、第二次大戦前のエストニアの独立時代はナルヴァ川ではなく、ナルヴァ川の東12Kmにありました。エストニア東南部の国境も独立時代は現在地から25Km東にありました。ヒットラーのナチドイツとスターリンのソヴィエト連邦の秘密協定(Molotov-Ribbentrop Pact)によって、バルト諸国はソ連に強制的に併合され国境線を西に動かされてしまいました。その結果、ナルヴァ川対岸のヤーニリン(ロシア名:イヴァンゴロド)やエストニア南東部のセトゥ地方の中心地ペッツェリ(ロシア名:ペチョールイ)は未だにロシアの施政権下のままで、約2,300平方キロメートルがエストニアに返還されないままです。

ラトヴィアの国境も東北部のアブレネ(ロシア名:ピィタロヴォ)地方の約1,300平方キロメートルがラトヴィアに返還されていません。

詳しくはウィキペディアの英語版、'Territorial changes of the Baltic States' http://en.wikipedia.org/wiki/Territorial_changes_of_the_baltic_states と 'Territorial disputes of the Russian Federation' http://en.wikipedia.org/wiki/Territorial_disputes_of_the_Russian_Federation と参照してください。
返信する

コメントを投稿