パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年5月8日

2022-05-10 16:31:39 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ16:21 - 28
説教題:自分を捨て、自分の十字架を負う

導入)
  この箇所は、「その時から」という表現で始まります。その時というのは、直前のペテロの信仰告白のことです。イエスを神の御子、キリストであると告白しました。その告白の上にイエスは教会を建てると言われました。この告白ができるほどの理解が進んで初めて、イエスはご自身の受難の予告をされたのです。「その時から」ということは、それ以降続けて、という語感が伴います。イエスは繰り返し受難の予告をされています。(17:22-23、20:17-19参照)イエスの受難はこの時から半年程後のことでした。

本論)
21節 イエスがキリストとして為すべきことが述べられています。それらを経験しなければならないという表現になっています。必要であり不可避であるという語感の有る語で、原語では、神の定めによってしなければならないという意味合いが有るということです。イエスは永遠の大祭司として、救いの業を完成させるために、これらの苦しみを経験しなければならないのでした。イエスの十字架の死が、偶然ではなかったことが明示されています。その神の御計画の中には、勿論最初から復活が含まれていました。イエスの復活と死は、私たちが救われるためでした。

22節 キリストの言葉は、弟子たち皆にとって衝撃的な内容でした。弟子たちのリーダー格として、ペテロがイエスをわきにお連れしていさめはじめたと書いてあります。いさめると訳された語は、強く反対の意思表示をするという内容の言葉ですが、叱るというニュアンスでも用いられます。イエスが波風を叱り、悪霊を追い出す時にも用いられています。しかし、この時は、もっと異なる雰囲気であったと考えられます。ペテロがいさめ始めた理由は二つ考えられます。一つは、尊敬する師であるイエスのそのような経験をして欲しくないという気持ちが有ったことです。もう一つは、彼らが持っているメシアの、栄光の王というイメージとイエスの予告が合わなかったということです。新改訳2017では、「主よ、とんでもないことです。」と訳した部分は、元来、「神があなたが良くない経験をすることから守られるようにお慈悲を示してくださいますように。」という意味の表現が使われています。「そんなことが起こるはずがありません。」と訳された部分も、「そのようなことが起こりませんように。」という語感になります。ですから、ペテロの言葉は、同様の表現を繰り返して、イエスの無事を祈るような姿勢のものだったのです。

23節 そんなペテロへのイエスの返答は、かなり厳しいものとなりました。それは、荒野でサタンの誘惑を受けた時に言われた言葉を思い出させる表現になっています。(4:10参照)ペテロがここでサタン(敵)と呼ばれています。荒野では、サタンはイエスに十字架の苦しみを経ないでメシアになることを提案したと考えられます。そして、ペテロの言葉も、それと同様の意味合いを持っていたと考えることができます。イエスは、十字架にかかる直前でも、できることならばこの盃を取りのけてくださいと神に祈っているのですから、イエスにとって、ペテロの言葉は、激しい二打目をくらったのに等しい誘惑であったことを、私たちは理解しておくべきであると思います。ペテロはイエスの邪魔をするものと述べられています。神の救いの御計画を挫くことになる発言をしたからです。イエスの「下がれ」という言葉には、大事な原則が示されています。一つは、弟子というものは、師たる人物を導くような存在ではないということです。私たちは、イエスを、自分の思い通りに動かそうとしてはなりません。ただ、従っていくのです。また、イエスに従う者は、神の御心を求めるのであって、人の思いを求めるものではありません。それをイエスは神のこと、人のことと言っています。イエスの予告に表された復活は、大変重要なことでしたのに、ペテロは、その部分には関心を払いませんでした。もし関心を払っていたら、もっと違った反応になっていたことでしょう。

24節 イエスはここから弟子たち全体に語り掛けます。彼らの心もペテロと同様であったと思われます。それで、弟子としてどのようにイエスに従うべきかを示されたのです。もし真摯にイエスに従いたいと思うなら、その人は、自信を脇に置き、自分の道を追求することを止めなければなりません。十字架を負うということには、幾つかの意味が有ると思われます。その刑を受ける者は、衆目に晒されながら、刑場まで自分の十字架を担がなければなりませんでした。クリスチャンは、公に、自分が十字架を負う者、イエスへの信仰を持つ者であることを示さなければなりません。また、イエスが受けた拒絶、迫害、恥を自分も受けることを覚悟しなければなりません。現代でも、その信仰の故に命を落とす人もいるのです。しかし、その先には、確実にイエスに続く復活が与えられるのです。イエスは十字架にかかられて、永遠の大祭司の務めと、神の小羊の役割を担われ、信じる者のために執り成しをしてくださいました。王である祭司、聖なる国民として召し出されたクリスチャンも、そのお姿に倣って、執り成しの祈りをささげるのです。「ついて来なさい」というご命令は、継続的な動作を表すということです。付き従い続けなさいということになります。

25節―27節 イエスは、従って行かなければならない理由述べられます。一つ目は、イエスに従うことだけが永遠の命に至る唯一の道だからです。(25節)二つ目は、私たちの命は全世界よりも価値が有り、尊いからです。そして、その代価を払うことができる方、イエスをおいて他にはいないからです。(26節)三つ目は、イエスの再臨の暁には、従った者には報酬が与えられるからです。(27節)この希望は、パウロやペテロが書簡で人々を励ます時に何度も語られたものです。

28節 この節の理解はいろいろ有ります。続く17章の変貌の目撃のことだと考えるのが文脈的に整合性が高いとする説、イエスの復活の方が文脈に合うと考える説、ペンテコステの聖霊の来臨とそれに伴う教会の誕生と宣教拡大だとする説などです。いずれの説においても、全ての弟子たちが目撃するのではないという条件には合致しています。変貌の時には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネしかいませんでしたし、それ以外の場面には、イスカリオテのユダはいませんでした。個人的には、イエスが復活を含むこれから起こることの説明をされた直後ですから、復活のことと考えるのが良いと思います。そして、この28節のお言葉で、イエスは、そのことが必ず実現すると宣言されていると考えるのが良いと思います。

まとめ)
  解説を確認して、皆様が個人的にいろいろ感じる所の有る聖書箇所であると思いますが、まとめとして一応三つのポイントを示しておきます。

1)キリストの救いの計画は必ず成し遂げられなければならなかった
  十字架で死ぬのは全く好ましいことではありません。それでも、神のご計画通りに事は起こらなければなりませんでした。復活は重要な要素でした。どのような形であろうと、神の御計画通りに実現しなければなりません。また、イエスは偶然の成り行きで十字架にかかったのではありませんでした。

2)キリストの弟子は心からイエスに従わなければならない
  弟子たちには自分の考えたメシア像が有りました。自分の地位が上がること目標にしていた者もいたでしょう。そのような自信やら自己中心的な目標を捨てなければなりません。神のこと、神の方法に従わなければなりません。他人と比較したりせず、とにかくイエスに焦点を合わせて行くのです。

3)キリストが備えてくださった将来の目標に焦点を当てる
  私たちにはイエスのご命令に従って行くべき理由が有ります。私たちの魂はイエス・キリストによってしか救われることはありません。イエスだけが私たちの罪の代価を支払い、命を贖い出すことのできるお方です。イエスに自身を委ね、明け渡しませんか。その決断の結果は、神からいただく報酬となるのです。
コメント
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