パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年3月3日

2024-03-03 21:56:14 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:創世記 4:1-16
説教題:カインの精神

導入)
  創世記三章は、人間の堕落の記録で、四章は、カインとその子孫の行状に現れる堕落した人間の性質の記録になっています。どのような内容なのかを確認してみましょう。

本論)
1-2節 アダムとエバに子供が生まれます。エバの告白は、信仰の告白と言えるでしょう。彼女は、子どもが、神の約束されたサタンの頭を砕く存在かもしれないという期待をしてかもしれません。どうして弟の方に空虚というような意味のあるアベルと言う名を付けたのかは、聖書には説明されていません。
 聖書には、身ごもった事実が一度、子どもが生まれた事実が、「それに加えて」という意味になり得る「それから」と語で結ばれて二度記述されているので、カインとアベルは双子であったかもしれないと考える立場が有ります。仮にそれが事実であるとすると、後にこの兄弟に起きる悲劇度合いが一層大きかったことであろうと考えられます。
 アダムは羊を飼う者になりました。当時は、羊を飼う目的は、羊毛を利用したり皮を用いたりすることでした。動物の肉を食用にすることが神によって許されたのは、ノアと家族が箱舟から出た後のことです。(9:3-4参照)弟のアベルが先に述べられているのは、神を象徴する羊飼いになった最初の人物であったからかもしれません。カインは父親と同様に土を耕す者となりました。職業の選択は、能力に基づいたものであったのではないかと思われます。
3-5節 ある時期になって、というのは「日々の最後になって」という語感が有りますから、一週間の最後の日、安息日になってということではないかと考えられます。礼拝のために、カインとアベルは捧げものを持ってきました。主はアベルとその捧げものに目を留められたのですが、カインとその捧げものは主に目を留められませんでした。
 目を留めるという語は、「何かを鋭く熱心に見つめる」という意味合いが有り、場合によっては「着火する」と訳せるものだということです。アベルの捧げものは神の力で火が着いたのですが、カインの捧げものには火が着かなったと考えることもできます。
 何故カインと彼の捧げものに主は目を留められなかったのでしょうか。およそ三つの可能性が指摘されています。
1)カインは神が持ってくるように指示したものを持って来なかった
  律法には農産物の捧げものも含まれており、神との交わりの捧げものという位置づけになっています。にも関わらず主が目を留められなかったのは、それが指示された捧げものではなかったのではないかと考えるのです。
2)カインは初物や最上のものを持って来なかった
  4節は、わざわざアベルの捧げものが初子で最上のものであったということを述べています。それは、カインの捧げものとの対比になります。
3)カインに礼拝の心が無かった
  カインには神に対する畏敬の念が無く、仕方なく形式的に捧げものを持ってきたのかもしれません。
  カインには、何が悪かったのかはわかっていたはずです。しかし、彼は反省の色を見せず、悔い改めませんでした。むしろ、神が彼の捧げものを受け入れるべきであったというよな態度であったように思われます。
6-7節 神が失敗をしたアダムとエバを訪ねられたように、カインにも声をかけられます。悔い改めの機会を与えたと言えます。何が悪かったのかわかっているのだから、そこを直して、神との正しい関係に戻りなさいと促していると考えられます。更に神は警告を与えます。「あなたは、それを治めるべきである」という神の言葉には、カインがこれからしようとすることについて、感情を抑制することや、行動の選択は本人の責任であって、他人のせいにできるものではないということが含まれていると考えられます。
8節 カインとアベルが野に出かけるのは不思議ではありません。農耕も牧羊も野ですることです。それに、普通に散歩に出かけることも有ったでしょう。しかし、そこでカインはアベルに襲い掛かって殺してしまいました。どのように殺したのかは示されていませんが、後の節で流血が有ったと記されていますから、石で殴打したりしたのではないかと思われます。これは人類最初の殺人事件ということになります。カインは人を殺すということを理解していなかったと思われます。たいそう慌て、また恐ろしかっただろうと思います。どうにかしてアベルの死体を隠し、何事も無かったかのように装ったようです。
9-12節 再び神はカインに語り掛けます。罪の告白をする機会を作ろうとしたのではないでしょうか。しかし、カインは嘘をつきました。一つの罪が次の罪を犯す結果になることは多いのです。また、アダムとエバの時と同様に、罪は人に、神の性質を忘れさせる部分が有るようです。全知全能の神の嘘が通用しないことを忘れてしまったかのような回答をしています。また、その態度が反抗的です。「私は弟の番人なのでしょうか。」と聞き返しています。番人と訳された語の語幹は、保存する、保護する、担当して責任を持つ、という意味合いが有り、世話をする、注意深いと言う雰囲気を併せ持っています。神様の御心は、むしろ、私たちがお互いを守り、思い遣って生きることです。神は直接お答えになりませんでしが、「当たり前だ、お前は弟の番人だ。」というメッセージがこの記録には含まれていると考えられます。
 カインに対する罰が宣告されています。アベルの血が、正義を求めて叫んでいるのです。ですから、判決が下されなければなりません。流血は土地に呪いをもたらします。カインが耕す土地は作物を産出しなくなるという罰、また、カインは放浪者にならなければならないという罰が宣言されました。
13-14節 カインはあるべき姿に戻ることができませんでした。彼は神に赦しを求めようとはしませんでした。彼の「私の咎は大き過ぎて担いきれません。」という言葉には真実も含まれています。人間には罪の代価を支払う能力は有りません。だから、救い主イエス・キリストが身代わりになって死に、私たちの罪を代価を支払ってくださる以外に救いの道が無いのです。しかし、続くカインの言葉は、神を責めるような調子になっています。「あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので」という表現は、アダムが「あなたが私の側においた女が」と言って人のせいにした時と同じ調子が見えます。そして、自分はアベルを死に追いやったのに、自分が死ぬことは恐れているのです。
15-16節 神の判決を疑問に思う方もいるでしょう。モーセの律法では、人を撃ち殺した者は、必ず死ななければならない。」という規定が有ります。(出エジプト21:12参照)どうしてカインには死刑判決が出なかったのでしょうか。学者たちは、カインは人が死ぬということをよく理解しておらず、傷害を与える意図はありましたが、死を前提にした計画的殺人ではなかったからではないかという考えを示しています。また、当時の人々に、人を殺すことがどんなに悲惨なことかを示すための判決でもあったという考えも有ります。いずれにしましても、神に裁きの権威が有ることは心に留めなければなりません。
 ここで、神はカインに報復して彼を殺してはならないということを示されました。復讐は神がなさることだという前提に立っていると考えられます。カインに与えられた印は何であるかはわかりません。額に入れ墨のような印が刻まれたとか、不思議な自然現象が伴ったなどの説が有りますが、私たちには知る術はありません。


まとめ)
  カインの精神という説教題にしました。当然私たちはカインの精神に倣ってはいけません。私たちの中にもカインの精神は忍びこんで来ます。それを避けるために、私たちが心掛けなければならないと思われることを三つ取り上げます。

1)真心をこめて神を礼拝すること(カインはできませんでした)
  礼拝は神の示された要素をもって捧げられなければなりません。毎週日曜日には礼拝に集うことです。毎週悔い改め、礼拝の維持のための献金をし、互いに交わりを持ち、心配りをし合うのです。私たちは互いに番人のような姿勢を持つのです。私たちは、自分の初穂や最上を捧げる心構えで出かけ、礼拝をしているでしょうか。

2)心を頑なにしないこと(カインの心は頑なでした)
  どんなことが有ろうと、どんな理由が有ろうと、私たちは自分の感情的な反応を抑制する責任が有り、選択した行動に責任が有るのです。そういう原則を示しておられる神に、自分の優先順位やプライドは横に置き、神の教えに、譲り、従順するのです。自分のプライドではなく、神の賞賛を求めましょう。

3)神による解放の希望にすがること(カインはできませんでした)
  私たちにとっては、それはイエスキリストによる救いの希望です。正しい羊飼いであったアベルは、イエスキリストの型、予表です。アベルが兄弟カインに殺されたように、イエスは同じユダヤ人にころされました。アベルの血は正義を求めて叫びます。神は正義の神ですから、私たちの罪を罰しないで放免することはできません。その正義を貫き且つ私たちを救うために、神はイエスキリストを送られました。イエスは私たちの罪のために、身代わりになって死んでくださいました。イエスの血が、アベルよりも尊い救いのために信じる者たちの赦しを訴えて叫ぶのです。(へブル12:24参照)
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