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『ねむりの町』ほか

5月3日・ビング・クロスビーの遺産

2020-05-03 | 音楽
5月3日、憲法記念日のこの日は、『君主論』の著者マキャヴェリが生まれた日(1469年)だが、「ホワイト・クリスマス」を歌ったビング・クロスビーの誕生日でもある。

ハリー・リリース・クロスビーは、1903年、米国西海岸のワシントン州タコマで生まれた。父親は英国イングランド系の簿記係で、母親はアイルランド系だった。7人きょうだいの上から4番目だったハリーは小さいころから、当時のマンガのキャラクターをとって「ビング」のあだ名で呼ばれていた。
音楽、演劇好きだったビングは、大学時代にジャズ・バンドを組み、23歳のときに楽団に歌手として入り、20代の後半にソロ歌手としてデビュー。1930年代にラジオの普及とともに、クロスビーの人気は広まった。オペラ歌手とはちがう、マイクで集めた声を増幅してスピーカーから出すというマイクロフォン・システムを生かし、クロスビーは抑えた音量でなめらかに歌う歌唱法「クルーナー・スタイル」を確立した。やわらかく温かみのある彼のバリトンに、不況期にあった世界の人々の心を温めた。ラジオ番組「ビング・クロスビー・ショー」で人気を博した彼は、その後、映画に進出し、世界的な人気を博した。
1977年10月、英国での公演を終えた後、スペインでゴルフ・プレイ中に心臓発作を起こし、没した。74歳だった。

1930年代、ビング・クロスビーは世界でもっとも人気のある歌手だった。その後1940年代にフランク・シナトラ、1950年代にエルヴィス・プレスリー、1960年代ビートルズ、そして1970年代にはデヴィッド・ボウイが出たが、クロスビーは亡くなるまで世界中の歌手が仰ぎみる尊敬の的だった。
彼が晩年に出演したクリスマスのテレビ番組を見た。イヴにクロスビーが家の居間でひとりぼっちでいると、ドアのチャイムが鳴り、不意の来客が現れる。
「すみません、近所に住んでいるデヴィッド・ボウイというものですが」
と、ボウイが入ってきて、二人でクリスマス・ソングをデュエットするのだった。

クロスビーは大恐慌のまっただ中の時代に、ぬくもりのある歌声で歌い、ヒューマニズムあふれる役柄を映画で演じつづけた。映画「我が道を往く」「ホワイト・クリスマス」の心温まる味わい。彼は、貧しい一般大衆に「幸せはお金じゃない。人間はハートだよ」というメッセージを発していた。

ビング・クロスビーは世界的なスターだから、もちろん莫大な資産があっただろうけれど、興味深いことに彼はそれを「隠し信託(blind trust)」という、遺産相続者にわからない形で代理人に委託して亡くなった。
「自分の子たちは、65歳の誕生日がくるまで、この遺産を知らされず相続もできない」
という相続条件が付いていた。
クロスビーは生涯に二度結婚していて、27歳で女優と最初の結婚をした。49歳のとき、妻と死別した後、独身にもどり、54歳でべつの女優と再婚している。彼が最初の妻とあいだにもうけた4人の子どもたちは、長男が62歳で肺がんで没し、次男と四男がそれぞれ56歳と51歳で拳銃自殺した。65歳に達し、遺産を相続できたのは69歳まで生きた三男だけだった。
(2020年5月3日)


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