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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月14日・トインビーの目

2017-04-14 | 歴史と人生
4月14日は、「ゲーム理論」の経済学者シェリングが生まれた日(1921年)だが、英国の歴史学者、トインビーの誕生日でもある。

アーノルド・ジョーゼフ・トインビーは、1889年、英国のロンドンで生まれた。父親は医者で、貧民救済にたずさわる社会事業家でもあった。
アーノルドは10歳のころから 寄宿舎生活を送った。寄宿舎では、頭脳優秀だったことが反感を買い、上級生らのいじめにあったり、寮の奇妙な規則に苦しんだりした。
22歳のとき、オクスフォード大学のベイリオル・カレッジを卒業したトインビーは、同学寮の学生指導教師となり、また、英国考古学研究所の研究生として、ギリシア・ローマ史の研究をはじめた。
26歳で大学を辞任し、英国外務省に就職。政治情報部に勤めながら、歴史学書を執筆。
30歳のとき、パリ講和会議に中東地域専門委員として出席。ロンドン大学の教授に就任。
40歳のとき、京都で開催された太平洋問題調査会に、英国代表団の一員として初来日。
41歳のころから、代表作となる大著『歴史の研究』の執筆をはじめた。完結したのは、65歳のときだった。この著作によって、トインビーは、従来の国家を中心とした歴史観を脱し、新たに文明を中心とした大きな歴史観を打ち立て、人類の歴史を文明の興亡として描き直して見せた。
67歳のときから、約1年半をかけて西まわりで世界一周の旅に出かけ、79歳のとき、日本政府から勲一等瑞宝賞を授与された後、1975年10月、ヨークにて没した。86歳だった。

トインビーは、ギリシア・ローマの歴史研究から出発して、全人類の歴史までを見渡すところまでいった大歴史学者である。彼は、たびたび来日し、日本にも多くの友人をもつ親日派だったが、長いつきあいである日本のいろいろな局面を彼は目撃してきている。
1929年、40歳のトインビーが初来日し出席した会議の主な議題は「満州問題」だった。当時、日本は山東出兵、張作霖爆死事件と、満州に軍事侵略を着々と進め、国際的に非難の嵐を浴びている真っ只中だった。国内的には、治安維持法ができて、思想統制がきびしくなっていた。そのときの公開講演でトインビーは、日本に対して警告を発している。
「日本はカルタゴの轍(てつ)を踏むなかれ」
カルタゴは、ローマと戦い、ついには滅ぼされた古代の商業国家で、敗戦の結果、カルタゴは焦土と化し、生き残った国民はすべて奴隷とされた。
トインビーは、日本に、カルタゴのようになってはいけない、といましめたのである。
でも、日本はトインビーの警告を無視し、中国大陸侵略、太平洋戦争と進み、結局、多くの都市が焦土と化した。幸いにして日本人は奴隷化はまぬがれたけれど。

歴史学が専門で、トインビーには多くを教わった。

日本のなかにいると、どうしても日本びいきに、ものごとを見がちになる。でも、もしも歴史学を科学として学んだ者なら、もっと客観的にクールに自国を見られる。
「子どもたちに愛国心を植えつけるために、歴史はあらかじめ、日本びいきに見るように教えなくてはならない」
というような社会科教育をする国からは、トインビーのような大学者は育ちにくい。
(2017年4月14日)



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