1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月8日・山本寛斎の挫折

2017-02-08 | ビジネス
2月8日は、SF(空想科学小説)の父ジュール・ヴェルヌが生まれた日(1828年)だが、ファッションデザイナー山本寛斎の誕生日でもある。

山本寛斎は1944年、横浜で生まれた。コシノジュンコなどのもとで働いた後、独立。27歳のとき独立し、自分の会社を設立。英国ロンドンでコレクションを発表。これが機縁となって、デヴィッド・ボウイの衣裳を担当。ボウイが羽織ったマントに躍る「出火吐暴威」の文字も、たぶん山本寛斎によるのものだろう。
31歳のとき、仏国パリでコレクションを発表。しかし、このころから彼のファッション・デザインが受けず、会社の経営もうまくいかなくなった。一時はウツ状態となり、自殺を考えて悶々とする日々をすごした。
その後、一念発起して、企業をまわってスポンサーを募り、「スーパー・ショー」と題した、ファッションと音楽とアート、舞台芸術をあわせた総合芸術イベントのプロデュース業を開始。スーパー・ショーを世界各国で開催し、鉄道車両など幅広い分野でデザイン、アートを展開している。

山本寛斎のデザインの、ゆったりとした、大きめの服の感じが好きである。
たしか、大島渚監督が「戦場のメリー・クリスマス」をもって、カンヌ映画祭に乗りこんだとき、監督が着ていた「THE OSHIMA GANG」と染め抜いたTシャツも寛斎のデザインだった。
1990年ごろに放送されていた、作家、村上龍がホスト役を務めるテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』にゲスト出演したときの山本寛斎の印象は鮮やかだった。スーパー・ライブのプロデュースに力を入れているころで、全身これエネルギーのかたまりといった風だった。ちょっと見ただけで、
「ただものではない。こんな人ならどんな分野でもきっと成功する」
と思わせるオーラがあった。
そのころ、山本寛斎がいっていたことばのなかで、スポンサーになってくれるよう企業にお願いするため、そこの社長宛てに、まず誠意をこめて手紙を書くところからはじめると言っていたこと。あるいは、世界の舞台で勝負しようとするとき、自分はなにをもっているのかと突き詰めて考えたとき、最後に残る自分の強さとは「自分のなかにある日本人」これしかない、といったこと。それから、友だちに「今年はやるぞ」という気持ちを伝えたくて、年賀状でなく、元旦に電報を打つといっていたことが印象に強く残っている。

こんな元気に満ちた人でも、挫折感に打ちのめされ、自殺ばかり考えていた時期があったというのだから、人生とは苛酷だが、それを乗り越えてきたことが、山本寛斎という人間をさらに大きくしたことはまちがいない。
(2017年2月8日)



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