三月初め、一台のプリンターで複数のパソコンからプリントできるようにワイヤレス化しました。入手したのは、Pulanex MZK-SP300N2という廉価(送料込1.5k円)な無線ラン機でした。
本機とUSBケーブルでプリンターと接続して使用します。
非常にコンパクトで、セッティングも本機と、無線ラン親機のAOSSボタンを押せばOKというものです。
本機は、右サイドの上部にセットボタンがあります。
光回線のアダプターの右にあるバッファロー無線ラン親機の左上サイドにボタンが付いています。
ネットで本機の評価を調べるとやはり「プリント中に回線が切れる」など悪いもの「と問題がない」とするものがありました。
私の場合も、セットした3月初めから二週間はひどいもので、一夜あけると回線が切れていたり、プリント中に切れたり散々で、使い物にならないとあきらめそうでした。しかし懲りずに、繰り返し繋ぎ直し作業を何回も行ってきた結果、不思議なことに今週から回線が安定し、複数のパソコンからプリントが可能になりました。あきらめてはいけないようです。
2013.6.10
その後の経過を報告します。
一週間くらいすると、やはりいつの間にか回線が切れてしまい回復しません。しかたがなくリセットをして立ち上げていますがここでまたうまく繋がらず苦労します。
もう一台、名古屋の方で使っているものは比較的安定しています。
今年も、ひなまつは終わりました。
昔は、一月遅れで4月になっていましたが、この頃は3月に行います。
この地方では、「がんどうち」とよばれ、子供たちがお雛様を見せて下さいと訪問し、それぞれのお宅でお菓子をいただく風習があります。今年は約40人の子供が来てくれました。
かって当家の雛様は、土雛でしたが、現在はりっぱな雛様になっています。
この雛様は、私が名古屋の千種区に居住しているとき粗大ごみから回収させていただいものです。
きちんとした箱に入れてあり、かしらの表情や、着物の繊維や染め方をみると大正時代くらいのものかと想像しています。母親は、着物は絹のようだといっています。
身近な人は、そんなもの拾ってきてと言いますが、このお顔や着物をみるととても粗末にはできません。
母親は、飾るたびにろうそくをたて供養していました。
誂えものも本格的な塗りで仕上がっています。
二人だけですが、毎年飾っています。
この地域の旧家に保存されていた珍しい写真です。
この写真には、裏書きがあり大正2年に、この地方の下原(現下呂市金山町下原)出身の加藤鎮之助が当時の著名な文化人を飛騨漫遊の旅に案内したおり、この写真にある下呂市瀬戸地域にある景勝地孝子ケ池で休憩し、撮影したものでした。
主な人物名は、裏書きの解読で判明しましたが、どの人物かをすべて解明するのは困難でした。
裏書きにある人物について調べました。
土方久元
天保4年(1833)10月16日~大正7年(1918)11月4日
慷慨の士で、東遊して若山勿学・藤森弘庵に学び、志士と交わった。文久元年土佐勤王党に参加し、3年藩命により上京して時勢を観察し鷹司・三条・姉小路ら公家の邸に出入りし、薩長の諸士と往来した。中岡慎太郎と共に薩長連合の実現に尽力した。維新後新政府に仕え、江戸府・東京府の判事、鎮将府弁事を経て4年太政官に出仕し、内務・宮内少輔を経て内務大輔・内閣書記官長・元老院議官・宮中顧問官・農商務大臣・宮内大臣・枢密院顧問官・帝室制度調査局総裁心得などの要職を歴任した。
藤沢 南岳
天保13年(1842)年10月12日- 1920年2月2日
儒学者。讃岐生まれ。藤沢東�雄の長男。名は恒、字は君成、通称は恒太郎。号は醒狂、香翁など。大阪の泊園書院を父から継承し、数千人の門人を擁した。高松藩に仕え、左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後、藩の保全に尽力、藩学講道館にて督学、1887年大成教会を興した。
坂 正臣
安政2年(1855)3月21日生~昭和6年(1931)8月26日歿
愛知県の知多郡横須賀町生まれる。正臣は名、字は從叟、幼名は政之介。茅田小民・木隠弟鬼・観石・桃坪などと号し、その居を樅屋と称した。宮廷歌人として皇族たちに歌や書を教えた。下呂市萩原町中呂の禅昌寺にある「ゆかりの梅」の石碑に阪正臣氏の揮毫が刻まれている。
細川文学博士(細川 潤次郎)
天保 5年(1834年)3月11日) - 1923年(大正12年)7月20日)
土佐藩藩士・蘭学者・法学者・教育家・男爵。政治的要職としては司法大輔・貴族院副議長位であった。近代法導入の功績に関しては高く評価されている。
日本が近代的な法制を整えるにつれてその政治的な情熱は影を潜めて、やがて早々と政界を引退して教育界に「第二の人生」を求めた。
甲斐 虎山【かい こざん】1866年~1961年
大分県臼杵市の海添の人。幼少より画を好み、初めに菊川南峰に就き漢籍を修め、旧大分郡浄雲寺、城陽師に師事して画を修める。明治13年に同郷の加納雨蓬戸と共に戸次へ至り帆足杏雨に学ぶ。その後、三原活山・村上姑南・広瀬濠田・秋月古香にも師事した。専ら田能村竹田・帆足杏雨の画風を研さんし一家を成し、杏雨門下の名家として名も高くなり、別府亀川の瑠璃荘にて筆を取っていた。晩年揮ごうも多く、虎山独特の画風を持って多くの傑作を残した。
首藤白陽
慶応3年(1867年)~昭和2年(1927年)
名は寛、白陽は、号で、現在の大分市の生まれ。帆足杏雨に、南画を学び、福岡や京都を遊歴、大正年間には東京に住んで作画を行う。
後藤 秋(ごとう しゅうがい)
(1886~?) 名は正秀。明治19年岐阜県に生れる。田近竹邨に南画を学ぶ。京都に住した。
藤本煙律(ふじもと えんりつ)
天保9年(1838)(戸籍上では嘉永2年)に神東郡井ノ口村に生まれた。
煙津は、日本画を島琴江(1821~1899)に学び、のちに村田香谷(~1912)に師事して南宗派の画を修めた。
特に山水画を得意としたほか、漢詩・篆刻でも多くの作品を残した。戸籍の上では嘉永2年(1849)5月13日に出生したことになっているが実年と11年の差がある。同村藤本林蔵の次女ゑつと結婚し藤本家の養子となった。
加藤鎮之助
明治2年(1869年~昭和12年(1927年)
下原生まれ。号は桂山。加藤武精(名:四郎兵衛、加藤素毛の弟)の長男。岐阜中卒。東京に出て農本の奨励に意を注ぎ、除虫液で害虫駆除に尽力し、雑誌「大農園」
を発刊。大正2年養老に孝子源丞内の公聴碑を、また大正5年に孝子門原左近の碑を建立し、忠誠孝悌の顕彰に心を注ぐ。 大正4年1月、大阪府富田林市にある楠公夫人の楠家香華寺の再建を発願し、約30年をかけて楠費妣庵観音寺を建立した。享年69歳。墓は楠費妣庵観音寺にある。
以上がこれまでの調査結果です。なお、この飛騨漫遊で記された、書画類は、現在加藤素毛記念館に保管されています。
人物調査は、日本歴史学会編「明治維新人名辞典」、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」などを参考にさせていただきました。