飛鳥への旅

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中将姫伝説を訪ねて5:奈良町に中将姫伝説が数多く見られる理由は?

2009年03月14日 | 中将姫伝説を訪ねて
通称奈良町の中の鳴川町から井上町にかけて一帯には、藤原豊成卿の屋敷跡と伝えられ中将姫とその両親藤原豊成卿、紫の前の三人の御殿が三つ並んだ三棟殿が建つ広大な屋敷があった。
現在史跡としては、中将姫生誕の地として産湯に使われたという井戸が残る誕生寺、豊成卿の廟塔を護り豊成卿と中将姫の父子像をお祀りする高林寺、豊成の別宅跡がある徳融寺、それに安養寺、と中将姫ゆかりの寺が多く点在するのである。


「興福寺」は、藤原鎌足の子息である藤原不比等が和銅3年(710年)の平城遷都に際し移築した藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥の地にわが国はじめての仏寺である法興寺(飛鳥寺)を建立、その後、奈良遷都(710)に伴って、718年にこの寺も新都に移されて、元興寺と改められた、蘇我氏の氏寺である。
その南に藤原豊成の屋敷跡が点在する。


以下は私の私見である。


1.元興寺は蘇我氏の怨霊を封じ込めるため
 大化の改新で蘇我氏は藤原氏(中臣鎌足)に滅ぼされた。
藤原氏は蘇我氏の怨霊を封じ込める必要があり、
藤原氏の寺である興福寺の見下ろす場所を選んで元興寺を建てた。
しかし737年に天然痘が大流行し藤原不比等の四兄弟が相次ぎ急死したのは、蘇我氏のたたりといわれている。
法隆寺に夢殿を建立し2年後に完成し聖徳太子を封じ込める救世観音を安置したのも、怨霊を封じ込めるためである。
梅原猛氏は「隠された十字架」で「法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるために藤原氏により再建された、と述べている。
聖徳太子は蘇我氏の血筋にあり、蘇我氏の怨霊を封じ込めは、イコール聖徳太子の怨霊を封じ込めにもつながる。
元興寺の北面を巨大な興福寺が封じ込めたのである。

元興寺は滅亡した蘇我氏の氏寺なので、衰退あるいは消滅するのが自然だが、
藤原氏が保護したため大きな伽藍を備え南都七大寺の一つにまでなった。
元興寺には「鬼」に纏わる話が多く見られ、これは蘇我氏の怨霊と思われる。


2.藤原豊成邸は南面の守りである
では南面はどうかというと、ここを封じ込めたのが藤原豊成の屋敷である。
三棟殿が建つほどの広大な敷地をもち、藤原武智麻呂の長男として藤原氏の守りを固めた。
この他、東面には瑜伽(ゆうが)神社があり、元興寺の鬼門除けの鎮守として崇められている。
西面の率川(いさがわ)神社は、「ゆりまつり(三枝祭)」で有名だが、これは鎮花祭の一つで疫神が四方に分散して疫病を起こすのを鎮める祭りなのである。

中将姫像(当麻寺)
3.中将姫の登場
この後747年に中将姫が登場する。
中将姫は、幼くして生母に死なれ継母にいじめられが、世をはかなむ事なく、燃えるような信仰心で阿弥陀如来を感得して当麻寺に出家する。
継母は橘諸兄の息女照夜の前、橘諸兄の母は県犬養三千代である。
その県犬養三千代は、軽皇子の乳母から始まり功績を得て橘姓を賜り、その後藤原不比等と結ばれている。
実はこの県犬養氏は蘇我氏と近いといわれている。
蘇我の怨霊として継母の照夜の前が、中将姫をとことんいじめぬいた、と想定できる。
ところがその後、照夜の前の悪事がわかり中将姫が出家する。
蘇我の怨霊を撃退したが、さらに怨霊を鎮めんがために、当麻寺に出家した、と想定できる。
藤原不比等の四兄弟が相次ぎ急死した後、より強い怨霊鎮めとなったのが、
中将姫伝説の流布であり、当麻寺の浄土信仰の発展につながったと見られる。