飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):桜井、鳥見山

2009年08月26日 | 万葉アルバム(奈良)

射目(いめ)立てて 跡見(とみ)の岳辺の なでしこの花
ふさ手折り われは持ち行く 奈良人のため
   =巻8-1549 紀朝臣鹿人=


跡見の岡辺に咲く撫子の花。その花をたくさん手折って持っていこう。奈良にいるあの人へのお土産に。という意味。
この歌はめずらしい「五、七、七、五、七、七」からなる旋頭歌(せどうか)でできている。

 「射目立てて」は地名の「跡見」にかけた枕詞。「「射目」は当時の人々が狩りに使った楯状のもの。目だけ見えるように小さな穴を開け、姿を隠しながら獣を弓で射った。

紀朝臣鹿人が、跡見庄にやってきて詠んだもの。おそらく寧楽人は家で待つ妻のことだろう。

跡見(とみ)庄は桜井市の鳥見(とみ)山山麓と推定されている。山麓にある等弥(とみ)神社にこの歌碑が建っている。異なる漢字でいて読み方が「とみ」と同一である。「とみ」という音により確定した土地が場所により適した漢字を当てた良い例であろう。
鳥見山は神武天皇の祭祀の伝承地とされていて、かつて天皇が山頂にて天神を祀ったという言い伝えがあるように、「とみ」は日本の原風景を彷彿とさせる土地なのである。
 鳥見山周辺には古代からの遺跡も多くみられ、写真は1987年聖徳太子の宮跡である上の宮遺跡発掘時のものである。さりげない万葉歌との対比が面白い。

 万葉の頃のナデシコは今のカワラナデシコと呼ばれているものだ。

カワラナデシコ

中将姫伝説の広がり2:岐阜県岐阜市大洞 願成寺

2009年08月20日 | 中将姫伝説を訪ねて
願成寺(がんじょうじ)は、岐阜県岐阜市大洞にある真言宗智山派の寺院である。
寺伝によると、養老5年(721年)、越前の国から泰澄という坊さんがやって来て、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺としたとある。


この願成寺には国の天然記念物の「中将姫誓願桜」がある。

継母(ここでは照日の前)に追われた姫は長谷寺、當麻寺を転々としたが、
風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈ったということである。


天然記念物「中将姫誓願桜」


 誓願桜は、樹齢1200年といわれるヤマザクラが変異した珍種で、国の天然記念物に指定されている。
同種の桜は確認されていないらしく、そのためこの桜はプルヌス・フロリドラ・ミヨシという学名で世界に発表されている。樹高も8.1mとそれほど高くはない桜だが、淡い桜色の花をよく見ると花弁が20~30弁ほどあり、ヤマザクラよりも多い。見慣れた桜の花とはまったく違う桜とひと目でもわかるようだ。それも千二百年もの間風雪に耐えてきた桜なので何ともいえない風格が漂っている。

万葉アルバム(中部):高岡、国守館跡

2009年08月17日 | 万葉アルバム(中部)

朝床(あさとこ)に聞けば遥(はる)けし射(い)水川(みづかわ)
朝漕ぎしつつ唱(うた)ふ船人
   =巻19-4150 大伴家持=


朝の床に聞けば遠いよ、射水川を朝漕ぎながら歌う船人の声は。の意味。

天平勝宝2年(750)3月2日、越中国守大伴家持が館舎の朝床からはるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌である。射水川(小矢部川)は当時この台地の下を流れていた。

 氷見線伏木駅から程ないところに、伏木特別地域気象測候所が建っているが、奈良時代には越中国守の館であった。真下に小矢部川(昔は射水川)がとうとうと流れ、眼前に有磯海、雪のいただく立山連峰を望む景勝の地である。
そこに「国守館址碑」が建っており、碑裏にこの万葉歌が刻まれている。

 測候所も今ではリニューアルされて「伏木気象資料館」として一般公開されている。写真はリニューアル前の1987年に訪ねた際の写真で、当時の測候所は風雪に耐えた風情を感じさせていた。

万葉アルバム(奈良):宇陀市、阿騎野

2009年08月13日 | 万葉アルバム(奈良)

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子
神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷かす 京(みやこ)を置きて
隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を
石(いは)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして
玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に
旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす
古(いにしへ)思ひて
   =巻1-45 柿本人麻呂=
 


 天下のすべてをお治めになるわれらの大君、空高く輝く日の神の皇子は、神であるままに神のお振る舞いをなさるというので、宮殿の柱も太く揺るぎない都を後にし、隠れ処の泊瀬の山は、真木が茂り立つ荒々しい山道なのに、地に根が生えたような岩々や、行く手をさえぎる樹々を押し伏せ、鳥のように軽々と朝越えて来られ、夕方には美しい雪が降る安騎の大野で、のぼりのように背の高い薄(すすき)や、小竹の群生を押しなびかせて、旅の宿りをなさる、昔のことを思いながら。という意味。

軽皇子(のちの文武天皇)が10歳の時、安騎野に狩りで泊まりになった。
その時に柿本人麻呂が作った歌で、かつて軽皇子の父君である草壁皇子の狩りのお供をして安騎野に来た時のことを回想し、草壁皇子に対する追憶の思いを歌ったものである。一連の歌、巻1-45~49の最初の長歌である。

歌碑は宇陀市かぎろいの丘にあり、丘近くの中央公民館の大ホールに写真の大きな絵が掲げられている。
草壁皇子の狩りの模様を描いたもので、早朝のかぎろいの光が出る様が見事に描かれている。
かぎろいを歌った有名な柿本人麻呂の歌はこちら。

絵と語りの芸能2:写し絵

2009年08月09日 | 絵と語りの芸能
 写し絵は、幻灯器を改良発展させ、さらに芝居の要素を強めて、写し出された絵に独特の語りで進行する小規模な芝居小屋の中で行なわれる芸能である。
日本では、寛文二年(1662)あたりから、人形を動かす「からくり」が盛んであった。そのからくりを幻灯に応用し、新しい表現を開発したのが「写し絵」である。
その幻灯器は、当時オランダから輸入されていた。
西欧の幻灯の種板(スライド)には、2枚以上のガラスを組み合わせたり、歯車やレバーを使った仕掛けで絵を動かすものがあったが、日本の写し絵は、伝統の技と組み合わせることで、複雑でダイナミックな動きを可能にした。
江戸では、「写し絵」と呼ばれたが、関西では、「錦影絵」または、「錦操り」と呼ばれ、他に「影デコ」(島根)、「影人形」(松江)とも呼ばれた。

 写し絵の幻灯機





 写し絵は、映像に語りと音曲を加えて劇を演じた、映画に百年も先行した芸能だった。単に映像を映しただけではない。写し絵師が「光を操り」、映像を自在に操作して劇を演じたのが「江戸写し絵」である。絵を動かす原理は今日のアニメーション映画と同じで、その基本技術はすでに江戸時代に考案され、劇に生かされていた。映画などのフィルムに固定され映像ではなく、客の反応に受け答えする「生」の映像と言えるだろう。



 江戸時代、写し絵は油皿に立てた芯を点して明かりとした。そこで得られる明るさでは、百名の客に観せるのが限度だった。その後映画が輸入されるにおよんで、興業としては成り立たずに衰退していった。



 平成5年に「劇団みんわ座」が「江戸写し絵」を復活させた。今では毎年公演を行っているというのだが、小さな劇団が自力で資料を復元することを可能にしたのはコンピュータだったという。目覚しいデジタルメディアの発展が伝統文化に及ぼす影響の方が目に付くような昨今にあって、デジタルメディアが伝統文化に果たす役割を考えさせられる。

 だるま夜噺

 あたま山

 牡丹灯籠 お札はがし

 みんわ座は現代の優れたランプを使い、欠点であった光量を上げ、鮮やかな映像を映すことに成功した。演劇性の高い「からくり」の技術を復元し、音楽と独特の語りで影絵が動き出す。語りでは人間国宝の新内節弾語りが演じる場面もある。大勢の観客に観て貰える江戸の香り高い「写し絵」を上演しているのである。
 「江戸写し絵」は、今日では世界でも例のない日本独特の芸能である。

 私も2回ほど、みんわ座の公演を観たことがあるが、小さな小屋のような空間で、真っ暗な部屋のスクリーンに色鮮やかに影絵が動き出すのは、子供の頃に体験したような新鮮な驚きでワクワクしていたものだ。現在の映像技術からすれば、簡素で単純な映像であるが、それだけにインパクトがあり独特の弾き語りも加わって、心に直接響くような新鮮さを感じるのである。
 みんわ座の復元は、昔の懐かしさと、今日的な舞台芸術の可能性を切り開く、斬新性を兼ね備えていると、日本以上に海外で評価されているのである。

<参考サイト>
劇団みんわ座 写し絵の舞台映像を動画で観ることができます。

万葉アルバム(明日香)、藤原宮跡

2009年08月07日 | 万葉アルバム(明日香)

ひさかたの天(あめ)知(し)らしぬる君(きみ)ゆゑに
日月(ひつき)も知(し)らず恋(こ)ひ渡(わた)るかも
   =巻2-200 柿本人麻呂=


今は、薨去されて天をお治めになるようになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつづけるわれわれである。という意味。

高市皇子が死んだ時、柿本人麻呂が詠んだ長歌に対する反歌である。
672年の壬申の乱、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父天武天皇に合流し軍事の全権を委ねられ乱に勝利した。
柿本人麻呂が壮大な挽歌を寄せていることから、2人は親交があったのではないかと言われている。一方持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌だともいわれている。

 690年(持統4)、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。その4年後に飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都した。しかし高市皇子はその2年後に急死する。高松塚古墳に葬られたともいわれている。

 歌碑は藤原宮そばにある鷺栖(さぎす)神社に静かにたたずんでいる。

万葉アルバム(奈良):橿原市、人丸神社

2009年08月04日 | 万葉アルバム(奈良)

秋山のもみぢを茂み迷(まと)ゐぬる
妹が求めむ山道(やまぢ)知らずも
    =巻2-208 柿本人麻呂=


秋の山に、紅葉した草木が茂っていて、そこに迷い込んだ妻を捜す山道すらわかわない、という意味。

この歌の前の長歌(207)で、「天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路(みち)は ・・・」とあり、「軽の路」は奈良県橿原市大軽の辺りで、畝傍山の東南の地といわれる。

当時、死んだ人は自ら山路に入っていくと信じられていた。まだ妻の死を認めようとせず、山道に迷い込んだだけだと思っているのである。

橿原市地黄にある人丸神社は、柿本人麻呂のいくつかある出生地のひとつとされている。
万葉集巻2にある柿本人麻呂の「泣血哀慟の歌二首」それぞれ長歌1首・短歌2首(207・208・209)(210・211・212)は、亡き妻を思う切々たる気持ちが溢れている歌である。



万葉アルバム(奈良):広陵町、百済寺

2009年08月01日 | 万葉アルバム(奈良)

百済野(くだらの)の萩(はぎ)の古枝(ふるえ)に春待つと
居(を)りし鶯(うぐひす)鳴きにけむかも
   =巻8-1431 山部赤人=


百済野の萩の古枝に春の訪れを待っていたウグイスは、もう鳴き始めているだろうか。という意味。

広陵町百済あたりが万葉歌に出てくる「百済野」である。
地名の通り、百済からの渡来人が住み着いた地であり、百済寺三重塔がある。
境内にこの万葉歌碑がある。
赤人は奈良の都でふと、かつて訪れた百済野を思い出したのだろうか…。冬のウグイスは舌打ちをするような小声で鳴くといい、よほど耳を凝らさないと気が付かないようだ。赤人は吉野の象山や和歌浦(和歌山県)でも鳥の鳴き声を題材に歌を残し、自然を歌った感性豊かな人柄がうかがえる。

田園風景と三重塔の優美な曲線と先端にすっくと立つ相輪が見事に調和しており、
美しい風景が四季折々見られるところである。