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中将姫伝説を訪ねて3:徳融寺(奈良市鳴川町)

2009年02月21日 | 中将姫伝説を訪ねて
豊成の別宅跡。中将姫はここで少女時代を過ごし、継母にいじめられたと伝わっている。


「安養寺」の前の南北に延びる道をちょっと南へ行くと、融通念仏宗豊成山高林院「徳融(とくゆう)寺」がある。本尊は阿弥陀如来立像。元は「元興寺」の別院で、本堂の左前に歌が彫られた石塔(歌碑)が建っており、これは、松永弾正久秀が1560年(永禄3年)多聞城を築く時に持ち去ろうとした石塔婆で、「高林寺」に住んでいた連歌師の心前が次の歌

 曳(ひ)き残す 花や秋咲く石の竹

を詠んで、久秀に送ったら、連歌のたしなみがあった久秀が非を悟って、石塔を持ち去らなかったという。また、境内に市指定文化財「毘沙門堂」も在る。

 「徳融寺」は奈良時代の高官、右大臣藤原朝臣豊成とその娘中将姫の旧蹟で、豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、仲麻呂の兄である。


境内の「観音堂」の裏に豊成と中将姫を祀る宝篋印(ほうきょういん)石塔が二基並んで建っている。実際の墓は別の場所に別々に存在しているが、ここでは仲良く供養塔として並んで建っている。なお、豊成公の石塔と中将姫の石塔の間にあるのが四面に仏像を浮き彫りにした鎌倉中期の四方仏石で、正面が薬師如来、そして、右回りに釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られている。また、豊成公の墓脇の石柱には、歌舞伎「中将姫雪責(ゆきぜめ)」を公演する前ここへ詣でた片岡仁左衛門の名前が刻まれている。歌舞伎とのつながりもあるのだ。


 藤原鎌足から続く藤原四家(北家、南家、今日家、式家)の南家の右大臣藤原豊成の娘中将姫は747年 (天平19年)に生まれ、5歳の時に生みの母が亡くなった。そして、後妻に来た継母の「照夜ノ前」が悪女で、家来に命じて中将姫を崖の上から突き落としてしまった。それが写真の崖で、本堂の裏にあり、崖の上に「虚空塚」が在る。なお、突き落とされた中将姫は、常日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中に浮かび怪我1つしなかったという。また、中将姫は継母から盗みの疑いをかけられ、雪の日に外で竹に打たれるせっかんを受けたとされる「雪責松(ゆきぜめのまつ)」の跡もある。ここは実は中将姫の受難の色を濃く残す寺なのだ。

中将姫ゆかりの寺院があるこの辺りは、江戸時代初期からあった木辻遊郭跡である。
寺院のすぐ隣にも遊女が客待ちをした格子の古民家が今もわずかに残る。
その中にいて、悲しい日々を強いられた苦界の女性たちにとって、仏の加護で救われたという中将姫像は、唯一の救いであったであろう。
その神秘性と敬虔な姫の信仰の姿が、人々の心を動かし続け今に至っている。

また「観音堂」には我が国最古の子安観音とされる子安観音像が安置されており、像は乳児を抱き上げた姿をしている。奈良町にある中将姫ゆかりの寺(誕生寺・高林寺・徳融寺・安養寺)の中では、この徳融寺が最も大きい寺院である。
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