飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(中部):長野、神坂神社

2009年06月24日 | 万葉アルバム(中部)

信濃路は今の墾(は)り道刈りばねに
足踏ましむな沓(くつ)はけ我が背
   =巻14-3399 作者未詳=


信濃路は今切り開いたばかりの道。切り株に足を踏みつけなさいますな、沓をおはきなさい、あなた。という意味。

神坂峠は、木曽山脈恵那山を越える峠道で、続日本紀に、「大宝二年、始メテ岐蘇山道ヲ開ク」、「和銅六年(702)、美濃、信濃二国ノ堺、径道険隘ニシテ往還艱難ナリ。仍テ吉蘇路ヲ通ス」とある。「今の墾道」とはこの木曽道のことであろう。

若い妻が旅に出る夫を気遣って詠んだ歌。沓は正式には革製で、ふつうは布や藁(わら)、木などで作ったが、一般庶民の多くは素足だったようだ。

神坂神社は神坂峠の直下にあり、南アルプスの赤石岳(3120㍍)、聖岳(2982㍍)を望む険しい山岳路に位置する。当時は険しい道を越えて、つらい旅を強いられる時代であった。
 中央高速道路が中央アルプスを貫き開通し、この工事の際に温泉が湧き出して、「昼神温泉郷」として誕生した。神坂神社へはこの温泉宿から車で楽に行くことが出来る。万葉当時と比べて隔世の感である。


万葉アルバム(奈良):桜井、海石榴市

2009年06月18日 | 万葉アルバム(奈良)

紫は灰さすものぞ海石榴市(つばいち)の
八十(やそ)の街(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ
   =巻12-3101 作者未詳=


海石榴市の、多くの道が行き交う辻で出逢ったあなたは一体誰か、名を名乗りなさい。という意味。
「紫は 灰さすものそ」は海石榴市にかかる序詞。紫草の汁には、椿(海石榴)の灰を入れて染めるという。

 「海石榴市」は奈良県桜井市金屋にあったとされる。
“名を問う”というのは求愛の意思表示だという。昔は市は”歌垣の場”でもあり男性が行きずりの女性を、ナンパしていたようだ。

この歌の返歌に、女の方から、
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さねど
道行き人を 誰と知りてか
   =巻12-3102 作者未詳=


いま会ったばかりの道行き人、どこの誰ともわからない人に、私の名前を教えることができますかと反発する。
この二首は実際に特定の二人で交わされたものなどではなく、
長いあいだ歌垣の場に伝えられて皆が歌い合った歌なのだろう。

難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地が初瀬川の港であった金屋で、
仏教伝来の百済の使節がこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされている。ここから北へ伸びる道が山辺の道である。
ここ海石榴市は仏教伝来の地でもあり、街道が交差し賑わう市として栄えたのである。

万葉アルバム(明日香):飛鳥寺

2009年06月12日 | 万葉アルバム(明日香)

三諸(みもろ)の神奈備山に 五百枝(いほえ)さし繁(しじ)に生いたる 
栂の木のいや継ぎ継ぎに 玉葛絶ゆることなく
ありつつもやまず通はむ 明日香の古き都は
山高み川とほしろし 春の日は山し見が欲し 
秋の夜は川しさやけし 朝雲に鶴は乱る   
夕霧にかはずは騒ぐ 見るごとに音のみし泣かゆ
いにしへ思へば
         =巻3-324 笠金村=
明日香川川淀さらず立つ霧の
思ひ過ぐべき恋にあらなくに
         =巻3-325 笠金村=


 三諸の神奈備山に、たくさんの枝が伸びて、びっしり茂った栂の木のように、いよいよ次々に、(玉葛)絶えることなく、いつまでも通い続けるであろう明日香の旧都は、山が高く川は雄大だ。
春の日は山が見たい、 秋の夜は川音がさやかだ。 朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に河鹿は鳴き騒ぐ。 見るたびに声を上げて泣けてくる、明日香時代のいにしえのことを思うと。
明日香川の川淀を去らず立ちこめる霧のように、すぐ消えてしまうような恋心ではないのだ、私の明日香への慕情は。という意味。

「三諸の」は、神の来臨して籠る所、「神奈備山」は、神のいます山で、甘橿丘を指しているという。

飛鳥寺の境内に巨大な万葉歌碑が建っている。
文学博士・佐々木信綱氏揮毫による山辺赤人の長歌とその反歌である。
碑には万葉仮名で刻まれている。

飛鳥寺は、本堂に鎮座する飛鳥大仏以外に何も見るべきものはなく、
小さなお寺の庭ほどの敷地しかない。
だが、境内の奥に、かっての塔心礎の位置を示す標識が立っていて、
往時の面影を忍ぶばかりである。


万葉アルバム(中部):高岡、雨晴海岸

2009年06月09日 | 万葉アルバム(中部)

磯の上の都万麻(つまま)を見れば根を延(は)へて
年深からし神(かむ)さびにけり
   =巻19-4159 大伴家持=


磯の上のつまま(タブノキ)を見ると逞しく根を張っている、長い年月を経ているようだ、何と神々しいことよ。という意味。

この歌の題詞には、天平勝宝2年3月9日、澁谿埼(しぶたにのさき: 今の富山県高岡市)でつままを見て詠んだ歌とある。
雨晴海岸にこの万葉歌碑がある。
20年程前に北陸に出張した折に、この海岸を散策した思い出がある。長い海岸線から海のかなたにアルプスの山並みが連なっているのが望まれる。万葉時代も同じような雄大な景観であったのだろう。遠くの雄大な山々を目の当たりにして、つままの木が伸びる力を与えられた、と感じてこの歌を読んだのではないかと私は想像している。


都万麻(つまま)は、クスノキ科タブノキ属の常緑高木の椨(たぶのき)のことである。
高さは、30メートルくらいまでにもなり、海岸に根付いてる姿を見て感動して詠んだのであろう。

万葉アルバム(関東):調布、布多天神社

2009年06月04日 | 万葉アルバム(関東)



多摩川に曝(さら)す手作りさらさらに
何ぞこの児(こ)のここだ愛(かな)しき
   =巻14-3373 作者未詳=


 多摩川にさらさらと晒して仕上げる手織り布のように、さらにさらにこの娘がかわいくてたまらない、という意味。

 納める布を白く晒すため、多摩川の清流で布を洗う娘たちのことを詠んだ歌である。
 武蔵国(今の東京都ほか埼玉県、神奈川県に分属する地域)の歌。多摩川河畔では手織りの麻布を朝廷に調(税)として献上した。今も調布の地名が残る。

 調布市の布多天神社の境内に布晒しの碑と呼ばれる弘化三年(1846)の碑がある。
この碑に下記の縁起が誌してある。
 「垣武天皇の延歴十八年(799)に中国から木綿の実が渡ってきたが、布に織る術をしらなかった。そのころ多摩川の近くに住む広福長者という者が天神社にこもってお告げを受け、木綿の布を織り、多摩川の水に晒して調えた白布を朝廷に納めた。これがわが国の木綿の始めとされ、天皇はこの布を調布(てづくり)と名付け、この地を調布の里と名付けたという。後にこの布が国中に流布され、調布の神社を布多天神社と改めたという。」

 狛江市の多摩川河畔に、この万葉歌碑が建っているのは知っていたが、歌のもとになっている調布に布晒しの碑が江戸期にすでに存在していたというのを、深大寺について検索している時に初めて知った。そこで先日深大寺散策へ出掛けた際、途中にあるこの神社を訪ね碑を探し、やっとそれらしき碑を見つけて確認したのであった。

万葉アルバム(関西):兵庫、明石海峡

2009年06月02日 | 万葉アルバム(関西)

天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(なかぢ)ゆ恋ひ来れば
明石の門(と)より大和島見ゆ
   =巻3-255 柿本人麻呂=


遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつ戻って来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきたぞ。という意味。

柿本人麻呂が旅の途上に詠んだ歌。「鄙(ひな)」は、都の外の地をいう。
ここで詠っている「大和島」とは、瀬戸内の明石海峡から難波の津(大阪)を見た時に大和の生駒・葛城連山があたかも大きな島のように見えることからきている。

万葉歌碑がある明石の柿本神社は付近が人麻呂生誕地と伝えらている。

防人として出兵した人が故郷へ帰ってくるときに、瀬戸内海を通って明石まで来て大和島が見えた時、本当に故郷へ帰ってきたという実感を抱き舟の上で小躍りしている情景が目に浮かぶようだ。