飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社 ひのき

2009年12月28日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしへに ありけむ人も 吾(わ)が如(ごと)か
三輪(みわ)の檜原(ひばら)に 挿頭(かざし)折りけむ
   =巻7-1118 柿本人麻呂歌集=


 昔の人も私と同じように、三輪の桧原(ひばら)の檜(ひのき)を手折って、山葛(やまかずら)として頭にかざしていたのでしょう。という意味。

「桧原」は桧(ひのき)の生えている原。「挿頭(かざし)」は枝や花を折り取って髪に挿すこと。檜(ひのき)の葉をかざすというのは三輪の神への信仰の行為だったようだ。

三輪山の北西の麓、山の辺の道沿いに檜原神社がある。神域を示す鳥居と朱塗りの垣はあるが、社殿はない。大神神社と同じで背後の三輪山をご神体として拝する原初的な社なのである。


檜(ヒノキ)
ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。日本と台湾にのみ分布する。葉は鱗片状で枝に密着し、枝全体としては扁平で、細かい枝も平面上に出る。ヒノキは、日本では建材として最高品質のものとされる。正しく使われたヒノキの建築には1,000年を超える寿命を保つものがある。戦後人工的に植えられたヒノキが現代に花粉をまき散らし、公害となっているのもヒノキの一面を見るようだ。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

中将姫説話 インターネットの世界:電子化された和古書

2009年12月26日 | 中将姫伝説を訪ねて
 大学の付属図書館などで所蔵している和古書などの電子化が進められて、一部インターネット上で公開されている。
この中から、中将姫説話に関する電子化された和古書を調べた結果、以下のサイトから見つけることができた。
 特に1.広島大学所蔵 奈良絵本「中将姫」は、画像のほかに本文および翻刻(崩し字で書かれた文献を楷書になおして一般に読める形式にすること)も表記されているので、親切でわかりやすい。
電子化されている14点程の奈良絵本も同様の試みがされている。

1.広島大学所蔵 奈良絵本「中将姫」

 広大本は奈良絵本2冊。諸本は写本の形で伝わるものと、慶安4年に出された絵入り版本とが見られる。広大本と同じく写本2冊で伝わるものに国会図書館蔵本、慶應義塾大学斯道文庫蔵本(下巻のみ存)などがある。
 お伽草子、曼荼羅の絵解きの語り口をそのまま取り入れている。良家の婦人たちの娯楽教訓的なものだったようだ。

2.九州大学付属図書館所蔵 奈良絵本「ちうしやうひめ」

 近世初期写、上中2巻2冊(下巻欠)
 本書は広島大、実践女子大、多久市立図書館等に蔵される近世初期の書写になる奈良絵本に近い体裁を持つが、本文はやや異なる。

3.奈良女子大学附属図書館所蔵 「中将姫一代記」

5巻5冊。絵入の読本。刊記は寛政13(1801)年。権河道人による序文。書肆は、須原茂兵衛(江戸)・大野木市兵衛(大坂)・脇坂僊治郎(京都)・吉田新兵衛(京都)。「中将姫行状記」(享保15-173 0)を改題したもの。
このサイトには翻刻文が別ブラウザで開く機能がついている。
この版本は私が所蔵しているものと同じものである。
  →中将姫説話コレクション4 および 中将姫説話コレクション5

4.東京大学附属図書館霞亭文庫 「中将姫本地」

 お伽草子の再生品。武家対象の啓蒙教訓もの。

5.東京大学附属図書館霞亭文庫 「ちうじやうひめの本地」

 4.と類似の内容のものであろう。

6.大阪大学附属図書館赤木文庫 古浄瑠璃「中将姫御本地」

 江戸、鱗形屋孫兵衛板。
鳥居清信の挿絵をもつ説経半紙本のシリーズの一本と考えられる。
謡曲「当麻」と語句の類似あり、能の存在が浄瑠璃の源流のひとつの例。

7.野田市立図書館蔵 読本「中将姫物語」

 刊行年:嘉永5年(1852年)

中将姫説話 インターネットの世界:明治の錦絵

2009年12月25日 | 中将姫伝説を訪ねて
浮世絵で見る奈良大和の歴史と伝説サイトの中に、
以下の中将姫説話に関する明治時代に発行された浮世絵が載せられているので紹介する。
 中将姫説話も江戸時代後半から歌舞伎・文楽などで取り上げられるようになり、また子女向けに物語版本が多く出版された。
これらは説話当初の内容に、その後に興味を引くような物語が多く追加されてきている。
ここに紹介する明治の錦絵も一見して大きく変貌している形が想像できるものである。


歌川国芳:「本朝二十四孝」
中将姫を描く。弘化頃(1844~48年)中判錦絵


歌川芳虎:「横佩右大臣豊成と中将姫」
文久~慶応頃(1861~68年) 小判錦絵2枚組
版本だったものが後にバラされたもの


揚州周延:「雪月花」
大和:歌比子 照日前 中将姫 明治17年(1884年) 大判錦絵
継母らに折檻される中将姫を描いたもの。


月岡芳年:「皇国二十四功」
當麻寺の中将媛 明治20年(1887年) 大判錦絵

1986年4月 飛鳥(祝戸から山田寺へ)

2009年12月23日 | 思い出の大和路探訪
 1986年4月26日(土)、奈良県飛鳥の地を探訪。(現地名では奈良県明日香村である)
 飛鳥の地はこれより1年前に訪ねて以来、2回目になる。
今回はひとりでじっくりと見て周った。これが契機で「飛鳥」が好きになり、
飛鳥の地を調べ、飛鳥時代の歴史を読み直し、古代史や万葉集に接する機会が多くなったのだと思う。
 その後現在まで10数回飛鳥を訪ねる結果になったが、四季折々いつ行っても飛鳥の地はふるさとであるかのような安心感と充足感が得られるのであった。
 
 今回のコースは、
近鉄「飛鳥」駅・・・・祝戸・・・・石舞台・・・・飛鳥寺・・・・飛鳥坐神社・・・・飛鳥資料館・・・・山田寺・・・・近鉄「桜井」駅


飛鳥川(祝戸付近)


研修所から祝戸の風景 
道の下奥に飛鳥川が流れている、正面が石舞台地区、うしろが細川山


石舞台
蘇我馬子の墓といわれている。


飛鳥寺
蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
今は小さな本堂があるだけだが、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍であった。


飛鳥寺本堂


釈迦如来坐像、俗に飛鳥大仏といわれている。


飛鳥坐神社
2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には夫婦和合の所作があり、奇祭として知られている。境内には、男性器を模した石が多く安置されている。


飛鳥資料館
6世紀から7世紀にかけての飛鳥時代の古代遺跡の出土品や模型を展示する。 1975年3月にオープンした。


資料館の庭で発掘調査が行われていた


山田寺跡
蘇我倉山田石川麿が讒言により妻子と共に自害した寺であった。


山田寺跡にある小堂のそばに咲くあしびの花

1986年4月 磯長谷の陵墓

2009年12月20日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年4月20日(日)奈良:近鉄文学散歩>

 大阪転勤時代の思い出深い最初の「大和路探訪」。
この散歩の会に参加したのがきっかけで、関西特に奈良県周辺をたくさん散策することができた。デジカメがない時代、コンパクトカメラで撮った写真をパソコンにスキャナーして掲載したので写りは良くないが、デジカメにはない味があると思っている。

 二上山の西麓。磯長(しなが)の谷には聖徳太子の墓をはじめとして、用明天皇や推古天皇の御陵、遣隋使小野妹子の墓などがあり、まさに王陵の谷と言ってよい。古墳時代終末期ありし日の文化を物語る陵墓を訪ねる。

コース:近鉄南大阪線「上ノ太子」駅・・・・仏陀寺・・・・科長神社・・・・小野妹子墓・・・・双子塚古墳・・・・推古天皇陵・・・・用明天皇陵・・・・叡福寺・・・・近鉄「上ノ太子」駅 (徒歩約8km)
 講師:奈良芸術短期大学教授 木村芳一さん


仏陀寺


仏陀寺境内にある蘇我倉山田石川麿の墓と伝承されている
大化改新の功労者であったが、讒言により中大兄に攻められ、飛鳥の山田寺で妻子と共に自害した。
古墳は方墳のようだが、今は墳丘が平坦になっている。


小野妹子の墓に通じる急な石段 付近は新緑に輝いていた。


登った所は桜の名所で、見晴らしも良い。
木村教授の説明に耳を傾ける。


小野妹子の墓


科長神社 石段下にある。
平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ばれる由緒のある神社。


磯長谷の双子塚古墳にて


推古天皇陵
あちらこちらで桃の花が満開だったのが印象に残っている。
大和は桃の花が多いところでもある。


伝蘇我馬子塚
太子町太子集落の西方院から山田に向かって旧道を進んだあたりにある。
この層塔は江戸時代の「河内名所図絵」に馬子塚とあるのによる。大和飛鳥の石舞台古墳が馬子の墓と推定されているのに比べ、極めて貧弱な感じがする。


叡福寺山門
「上の太子」とも俗称される聖徳太子ゆかりの寺である。


叡福寺本堂


叡福寺にある聖徳太子磯長墓
太子廟を祀る寺として、太子信仰の隆盛につれて、四天王寺・法隆寺とともにその中心となった。


聖徳太子磯長墓
円墳で、墳丘の裾に二重の結界石がめぐまされている。


羽曳野市飛鳥の集落
古代の大陸から渡って来た人々は、「渡来人の安住の地(アンスク)」と呼んだそうだ。それから転化したと言われる「アスカ」は、奈良県明日香村の”遠つ飛鳥”に対して”近つ飛鳥”として、その地名を今に残している。


飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
上ノ太子駅近く、ブドウ畑の中に小さな杜と社が見える。
この地は百済系渡来氏族飛鳥戸造の本処地であった。


近鉄南大阪線「上ノ太子」駅

万葉アルバム(関東)、筑波嶺、さ百合の花

2009年12月17日 | 万葉アルバム(関東)

筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ
   =巻20-4369 防人の歌=


筑波山の小百合の花の夜床、そこでも愛しい妻は、昼でも愛しいよ。という意味。

防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌。夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を高ぶらせている。大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと回想し妻のいとしい姿を重ねている。

万葉集には「かなし」という言葉が114語あり、悲哀、愛(かな)し=いとしい、懐古 、孤独、孤愁 と言った意味に使われているが、
この歌のように「愛(かな)し=いとしい」として用いられているのが一般的のようだ。

 写真は石岡市下青柳にある茨城県フラワーパークの山百合と後方に聳える筑波山のツーショット。

 歌碑は、筑波山麓の「つくばテクノパーク大穂」に建っている万葉集20基のうちのひとつである。

万葉アルバム~花、いちし(ヒガンバナ)

2009年12月14日 | 万葉アルバム(自然編)

道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく
人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)は  
   =巻11-2480 柿本人麻呂歌集=


 道ばたにある彼岸花のように、とても目立つ花。そのようにみんなに知られてしまった、私の恋妻は。という意味。

 「いちし(壱師)の花」には諸説あるが、彼岸花とするのが有力。
ヒガンバナ、ヒガンバナ科ヒガンバナ属。
群生する多年草。昔、中国から渡来したものが広がったという。
りん茎から30~50㌢の花茎をだし、赤色の花を輪状につける。花のあと、線形の葉を広げる。和名は彼岸のころ花が咲くのでつけられた。

ヒガンバナは非常に目立つ花である。「いちしろく」は顕著に。

 私がヒガンバナで一番印象に残る場所は、奈良県明日香村の真神原や稲淵の水田地帯、真っ赤に染まるヒガンバナと田園風景との調和がすばらしい。

中将姫説話コレクション9:評論 その他

2009年12月10日 | 中将姫伝説を訪ねて

田中貴子著「聖なる女 斎宮・女神・中将姫」(人文書院、1996年)

 「奈良宇陀郡にある青連寺、ここは中将姫ゆかりの寺で、この中将湯の発売元である津村順天堂創業者が大檀那となっている。
ここ青連寺は姫が捨てられた場所で、最初に身を寄せた藤村家に、かくまってくれたお礼として秘伝の薬の処方を伝えたという。この藤村家が津村重舎の母の実家である。その家伝の秘薬をもとに中将湯を開発したのである。・・・

藤村家が婦人病の名前として中将姫を選んだのは、中将姫の物語じたいに「女の病」を連想させるような要素が潜んでいたからではないかと思う。・・・

また岐阜県の「中将姫誓願桜」について、
恵美押勝の乱の際に当麻から観音の霊験を慕って避難してきた中将姫が病にかかり、観音の力によって平癒したため、「男女の下の病、難産の患」を救おうと植えた桜と伝えられている。・・・」

 中将姫は血の病を克服した「聖なる女」であるとしている。


梅澤恵美子著「竹取物語と中将姫伝説」(三一書房、1998年)

 「権力掌握を狙う藤原氏は、持統天皇とくみし、アマテラス神話の天孫降臨を創作することで、あまたいた天武の後継者である皇子達から、皇位継承権を剥奪し、しかもその命までも奪っていった。・・本来の大和朝廷の神・ニギハヤヒは姿を消された。・・神をも恐れぬこの藤原不比等と持統の所業は、新しい神を黙認してしまった者達に、この後消えることのない恐怖を与えていくのである。」
 「かぐや姫の生涯は、現世においてただひたすら、人を遠ざけるためだけの生涯であった。中将姫もまた、かぐや姫同様、人の世から離れることでしか、現世での生きる道は見出せなかった。
 「竹取物語」の作者は、この藤原氏の娘の生涯を見て、この物語を書いたのであろう。中将姫の因果応報に苦しむ姿を逆転して、罰を与える側としてかぐや姫を創り出したのである。・・」

 藤原氏への悔恨が新しい神を創作したことによるものだとしている点、藤原氏悔恨の娘として中将姫と竹取物語を逆説的に捉えた点、が注目される。


阿部泰郎著「湯屋の皇后 中世の性と聖なるもの」(名古屋大学出版会、1998年)

 「序章 越境する女人-『死者の書』と中将姫物語をめぐりて・・・
かの女のまことの名前は、ついに知られることは無かった。ただ、南家郎女とばかり、その作品世界のなかで仮の称を与えられている女は、或る境界を越える、決定的な一歩を踏み出す。
かの女は、寺の大門の敷居を越え、その境内に這入った。・・・
 折口信夫の小説「死者の書」は、この一瞬をめぐって、前後数節にわたり複雑に展開されている。・・・
 「死者の書」において、作品を生成していく動機というべき”越境”、ひいては”結界破り”のしわざとは、何であったか。・・・・
”女人禁制”とは、それを誘いだし、行動をいながす壮大なしかけかと思われるばかりである。・・・」

 女人禁制の結界を破る行為、聖と俗の間に立って何ものかに突き動かされる、それは<聖なるもの>の力である、と論じている。 <聖なるもの>は性による疎隔や媒介の亀裂に垣間見られるいう。

万葉アルバム(関東):筑波嶺、雪かも降らる 

2009年12月07日 | 万葉アルバム(関東)

筑波嶺(つくはね)に雪かも降らる否(いな)をかも
かなしき児(こ)ろが布(にの)乾さるかも
   =巻14-3351 東歌=


白く見えるのは筑波山の峰に雪が降っているのかな、いや違うのかな。私の愛しいあの娘が布を乾しているのかな。という意味。

当時の常陸の国は、布生産が東国一だったようだ。
布が山に干されている風景は雪が降ったように見えたのである。雪の降る季節ではないのに、雪に布を掛けて、歌うことで、若者の幸福感が伝わる。
「かなしい」は愛しいということ。
 万葉学者中西進さんは、本来、悲しいという感情は何かに対して愛があるから起こる。例えば、「どうでもいい」と思っている人に対しては悲しいという感情は生まれないはず。愛しているから「愛しい」、といっている。

 この歌碑は、筑波山麓の「つくばテクノパーク大穂」に建っている万葉集20基のうちのひとつである。

万葉歌碑マップ探訪:茨城県つくばテクノパーク大穂 歌碑群

2009年12月05日 | 万葉歌碑マップ 探訪

  (つくばテクノパーク大穂 歌碑配置図:図をクリックすると拡大します)

 「つくばテクノパーク大穂」(つくば市大久保)には、万葉集20基、、風土記の歌2基、古今和歌集3基、他に2基の、計27基の歌碑があるといわれている。
 今回、万葉集2基を除いて、計25基を確認し、おおよその配置図も作成した。
 「つくばテクノパーク大穂」が、大穂という名前から、以前つくば市大穂に行って見たが探しても見つけられず、今回隣のつくば市大久保にこのテクノパークを探し当てた。広い工業団地の中に歌碑が点在しており、歌碑マップなどの案内図もなく、歌碑を探し出すのは大変だった。しかし、その分見つけ出す楽しさを見出し童心に返ったような高揚感を味わうことができた。万葉の筑波にちなんだ歌碑ばかりだが、誰が何のためにこれだけの歌碑を建てたのかは、わからずじまいであった。
 「つくばテクノパーク大穂」探訪のアウトラインは私の別ブログで。


「つくばテクノパーク大穂」入り口


パーク内の景観


<1>                     <2>                   <3>
<1>筑波嶺の嶺より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる 後撰集(陽成院)
<2>筑波嶺を外のみ見つつありかねて 雪消の道をなづみ来るかも 巻3-383 →万葉アルバムへ
<3>筑波嶺の新桑繭の衣はあれど 君が御衣しあやに着欲しも 巻14-3350 →万葉アルバムへ


<4>                     <5>                   <6>
<4>小筑波の嶺ろに月立し間夜は さはだなりぬをまた寝てむかも 巻14-3395 →万葉アルバムへ
<5>筑波嶺の裾みの田居に秋田刈る 妹がり遣らむ黄葉手折らな 巻9-1758
<6>さ衣の小筑波嶺ろの山の崎 忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ 巻14-3394


<7>                     <8>                   <9>
<7>小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の 目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに 巻14-3396
<8>妹が門いや遠そきぬ筑波山 隠れぬほとに袖は振りてな 巻14-3389 →万葉アルバムへ
<9>筑波嶺の此面彼面に陰はあれど 君が御陰にます陰はなし 古今集


<10>                     <11>                   <12>
<10>筑波嶺のをてもこのもに守部据ゑ 母い守れども魂ぞ合ひにける 巻14-3393 →万葉アルバムへ
<11>筑波嶺の岩もとどろに落つる水 よにもたゆらに我が思はまくに 巻14-3392 →万葉アルバムへ
<12>筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山 悪しかるとがもさね見えなくに 巻14-3391


<13>                     <14>                   <15>
<13>筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか 泣きわたりなむ逢ふとはなしに 巻14-3390
<14>筑波嶺に雪かも降らる否をかも かなしき児ろが布乾さるかも 巻14-3351 →万葉アルバムへ
<15>筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに 息づく君を率寝て遣らさね 巻14-3388


<16>                     <17>                   <18>
<16>筑波嶺いほりて妻なしに 我が寝む夜ろは早やも明けぬかも 常陸風土記
<17>筑波嶺に逢はむといひし子は 誰が言聞けば神嶺遊ばけむ 常陸風土記
<18>今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に 昔の人の来けむその日も 巻9-1754


<19>                     <20>                   <21>
<19>筑波嶺に我が行けりせばほととぎす 山彦響め鳴かましやそれ 巻8-1497
<20>天の原雲なき宵にぬばたまの 夜渡る月の入らまく惜しも 巻9-1712 →万葉アルバムへ
<21>小筑波を越ゆ過ぐり来ぬ 帰り来てや誰が恋ひ過るや 小筑波を越ゆ過ぐり来ぬ 古歌謡


<22>                     <23>                   <24>
<22>筑波嶺のさ百合の花の夜床にも 愛しけ妹ぞ昼も愛しけ 巻20-4369 →万葉アルバムへ
<23>我が面の忘れもしだは筑波嶺を 振り放け見つつ妹は偲はね 巻20-4367 →万葉アルバムへ
<24>筑波嶺の峰のもみじ葉落ち積り 知るも知らぬもなべてかなしも 古今集


<25>つくばねの 木のもとごとに 立ちぞ寄る 春のみ山の かげを恋つつ 古今集

 以上が25基が今回確認した歌碑。

-------------------------------------
以下の2基は未確認の歌碑である。


<*1>           <*2>
<*1>男神に雲立ち上りしぐれ降り 濡れ通るとも我れ帰らめや 巻9-1760
<*2>橘の下吹く風のかぐはしき 筑波の山を恋ひずあらめかも 巻20-4371

万葉アルバム(奈良):山の辺、大和三山

2009年12月03日 | 万葉アルバム(奈良)

香具山は 畝火を愛(を)しと
耳梨と 相あらそひき
神代より 斯(か)くにあるらし
古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
   =巻1-13 天智天皇=


香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った、神代からそうであったらしい、昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう。という意味。

 耳成・畝傍・香具山の三つの山が恋争いをしたという古い伝承に、それなら人間である我々が恋を争うのは当たり前のことだと歌っている。           
中大兄皇子の恋の相手は才色兼備の歌人、額田王。そしてライバルは弟の天武天皇(大海人皇子)と、はなやかな三角関係を大和三山に託して歌ったものとされる。
この歌の「畝火ををし」を「畝火雄々し」と解釈し畝傍山の神は男神であるという説と、「畝火を愛し」と解釈して畝傍山は女神であるという説とがあるが、一般には香具山と耳成山が男神、畝傍山が女神と解釈されている。

 山の辺の道の桧原神社の近くに井寺池がある。土手の上からの眺めが良く、遠くに大和三山を望むことができる。歌碑はこの井寺池畔に立っている。