飛鳥への旅

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中将姫伝説を訪ねて1:誕生寺(奈良市三棟町)

2009年02月07日 | 中将姫伝説を訪ねて
藤原豊成の邸跡とされ、ここで藤原豊成の息女中将姫が生まれたと伝えられている。


奈良県奈良市の市街地南に町屋が広がる一帯があり、通称「奈良町」。元々は奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれ、東大寺の門前町として広がり、江戸時代には元興寺を中心とした商業都市に発展した。「浄土宗異香山法如院誕生寺」は、中将姫が生まれた藤原豊成の邸跡とされる場所に建ち、「誕生寺」と呼ばれている。また中将姫とその両親藤原豊成卿、紫の前の三人の御殿が三つ並んでいたところから、「三棟殿」とも呼ばれており現在の町名になっている。元興寺がこの地一帯を境内としていた頃は、「誕生殿」とも呼ばれていた。門の中に入り玄関の呼び鈴を鳴らし参拝を乞うと、しばらくして留守居のおばさんが現れ、案内してくれた。


本殿には姫自作の本尊「中将姫法如尼坐像」が安置されていた。きりっとした凛々しいお顔である。
脇には、阿弥陀如来厨子があり、両扉に豊成公と中将姫とみられる人物が描かれていた。浄土曼荼羅を彫刻にしたような精細なもの。


脇の展示棚に小さな蓮糸釈迦三尊があり、法如作と記されていた。
中将姫がを織ったという伝説に沿った遺物であり、当麻寺に伝説の大きな蓮糸曼荼羅が保存されているが、これと同系統のものが、ここにも保存されていたのは、今回初めて知ることができた。
法如作と記されているが、おそらくは後世のものだが、蓮糸で織ったという伝説を代々大切に伝えてきた信仰の深さがうかがえる。


裏庭に中将姫誕生の際、産湯を使う水を汲まれたという井戸が残っている。
これを見ると、伝説の中将姫が、現実味を帯びてきたように感じる。


庭の「娑婆堂」(写真左)から「極楽堂」(写真にのってないが右手)へ中将姫を浄土へと導いた二十五菩薩像が立ち並んでいる。江戸期の作だそうだ。
当麻寺のお会式のお練りを連想する情景だが、お練りは大人が大きなお面をかぶって参列されるので等身大より大きい感じの菩薩たちだが、ここは小さな石仏だけに可愛らしい二十五菩薩の像である。
このような両堂と二十五菩薩像を配置しているのは、この寺だけだと思われる。


二十五菩薩像の中に、この愛らしい石像の姿を見つけた。

 中将姫伝説のおおよそを以下に略す。
743年(天平15年)8月18日に生まれた中将姫は、「誕生寺」の井戸で産湯を使ったといわれている。なお、中将姫は才能が世に知られ、9歳の時、女帝孝謙天皇から三位中将の位を賜ったが、16歳の時に継母によって宇陀市菟田野の雲雀山(青蓮寺)へ捨てられ、後に狩りに来た父豊成と再会して帰宅する。 中将姫は、766年(天平神護2年)24歳で世の無常を悟り、当麻寺で出家剃髪して、名を法如比丘尼と称し、蓮の糸で当麻曼陀羅を織り上げ、771年(宝亀2年)3月14日29歳で往生した。

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