飛鳥への旅

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中将姫伝説を訪ねて6:青蓮寺(奈良県宇陀市)

2009年03月28日 | 中将姫伝説を訪ねて
ここ日張山「青蓮寺」は、中将姫が継母により捨てられた地である。


 近鉄大阪線榛原駅からバス終点下車。宇賀川の源流に架かる小さな無常橋を渡って、日張山(標高595m)中腹の長い参道を上がったところに、浄土宗の尼寺、日張山「青蓮寺(せいれんじ)」がある。760年(天平宝宇4年)右大臣藤原豊成の娘、16才の中将姫が継母・照夜ノ前の讒言によって日張山に捨てられ、哀れに思った家臣の松井嘉藤太春時とその妻・静野に保護されて、ここで草庵を結び、6年6ケ月念仏三昧の生活を送り、後に父と偶然に再会を果たした。19才のとき、再びこの地を訪れ、小さなお堂を建立、そこに自身の影像と松井夫妻の彫像を彫って安置した。これが青蓮寺の起こりである。寺宝に中将姫の画像や彫像、曼陀羅図などがある。


本尊は中将姫十九歳像である。境内には松井夫妻の墓も建っている。


山門の手前に、中将姫の歌碑 “なかなかに山の奥こそすみよけれ 草木は人のさがを言わねば”がある。

世阿弥の謡曲「雲雀山(ひばりやま)」は、この青蓮寺を舞台に中将姫伝説を脚色したものである。豊成と中将姫の思わぬ再会がかなったことから、会いたい人と再会できる寺としても人気があるという。

中将姫の雲雀山の伝承の詳細はこうである。
11歳の時、父の豊成は、諸国巡視の旅に出た(一説には、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されたと言われている)。これを好機として、継母は中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太に、菟田野(うたの)の日張(ひばり)山で姫を殺すように命じた。しかし、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない姫の心優しさを知っていた嘉藤太は、中将姫を殺すことができなかった。彼は、照夜の前を欺いて、姫を菟田野の雲雀山(青蓮寺)へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた(一説には、14歳の時に継母によって雲雀山に捨てられたともいう。また、日張山の伝承は他に有田市糸我町と橋本市恋野の2地方にも残っている)。


中将姫が考案したという”中将湯”が現在でも販売されている。
「バスクリン」で知られるツムラ(以前は津村順天堂)の創始者である津村重舎はは大和国宇陀郡出身で、母方の実家・藤村家(奈良)はその昔、逃亡中の中将姫をかくまった御礼に製法を教えられた薬(中将湯)が、代々伝えられていたという。 中将姫は當麻寺で修行していた頃、薬草の知識を学び庶民に施していたが、その処方を藤村家にも伝え、それが家伝の薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」となった。明治30年発売の日本初の入浴剤「バスクリン」の最初の名前である。