飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(明日香):大原の里

2009年01月24日 | 万葉アルバム(明日香)

我が里に 大雪降れり 大原の
古りにし里に 降らまくは後
   =巻2-103 天武天皇=

我が岡の 龗(おかみ)に言ひて 降らしめし
雪の砕けし そこに散りけむ 
   =巻2-104 藤原夫人=


大原の里にある大原神社は、藤原鎌足誕生の地といわれている。
鎌足の娘で天武天皇の夫人となった藤原夫人が住んでいたところでもある。
その天武天皇と藤原夫人とがやりとりをした歌が、この歌である。

浄御原宮(飛鳥小学校付近)と大原とは、わずか1Km未満である。
天皇は、大原にいた夫人に「古ぼけた大原の里に雪が降るのは後のことだろうよ」
とからかえば、夫人は、「うちの神様にいいつけて降らせた雪のかけらがそこに散っただけでしょう」とやり返した。

壬申の乱に勝利して、体制を築いた天武天皇に、こうしたおどけた一面があったと思うと、歴史の見方も変わるというものである。

万葉アルバム(明日香):香久山

2009年01月22日 | 万葉アルバム(明日香)

大和には群山あれど とりよろふ天(あま)の香具山
登り立ち国見をすれば
国原(くにはら)は煙立つ立つ
海原(うなばら)は鴎(かまめ)立つ立つ
うまし国そ蜻蛉(あきづ)島 大和の国は
    =巻1-2 舒明天皇=


大和にはたくさんの山があるが、神が選んで降臨する天の香具山は最高である。山の頂上に登って国見をすれば、国には煙が立ちのぼっている。海にはかもめが舞い飛んでいる。すばらしい国だ、蜻蛉島大和の国は、という意味。

国原・海原、立つ立つ、と繰り返しリズムで、広大な大和盆地の情景が浮かんでくる。
高い山から下界を見下ろすような歌だが、
天の香具山は、実際にはなだらかな低山である。
歌のおおげさな誇張した感じが、おおらかでおもしろい。


万葉アルバム(明日香):本薬師寺跡

2009年01月12日 | 万葉アルバム(明日香)

忘れ草我が紐(ひも)に付く香具山(かぐやま)の
古(ふ)りにし里を忘れむがため
    =巻3-334 大伴旅人=


忘れ草を私の紐(ひも)に付けます。香具山のあるあの懐かしい古里を忘れられるように、という意味。
九州に太宰府の長官として赴任していた大伴旅人が、香具山のある明日香が懐かしくてたまらないので、辛さを忘れられると言う忘れ草を紐に付けて耐え偲んだ。

カンゾウの花
忘れ草は今でいうカンゾウで、中国ではこれを付けていると憂いを忘れるという思想があって、この古事によるもの。

本薬師寺跡は、藤原宮跡の近くにあり、藤原時代は官の大寺のひとつであった。
ここから香具山を近くに望むことができる。

この歌碑は私の好きな作家黒岩重吾の書である。(1986/6)
小さい歌碑だが、可愛い花が添えられていて、なかなか愛着のある歌碑である。


本薬師寺跡の入り口道路脇に建てられている万葉歌碑(2011/11)
25年ぶりに訪ねた際の写真だが、駐車場の前に歌碑があり、本薬師寺跡は駐車場の裏手になる。
以前は風情があった場所に歌碑があったと思うが、現在はまるで風情が感じられない程になってしまい、残念だ。



万葉アルバム(明日香):甘樫の丘

2009年01月10日 | 万葉アルバム(明日香)
采女の袖吹きかへす明日香風
都を遠みいたづらに吹く
    =巻1-51 志貴皇子=


采女の美しい袖を返していた明日香風も、都が遠くなって吹き返すべき采女の袖もないままに空しく吹いている。持統8年(694)飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都された後、さびれた古都のさまを歌った皇子30歳頃の作。

甘樫の丘から耳成山を望むと、その手前に藤原宮跡が広がっている。


丘の上に立つと、万葉の頃と変わりないであろう、心地よい風が頬をなでる。(2006/9)


遠くに二上山が、近くに大和三山のひとつ畝傍山が激動の飛鳥・奈良時代がなかったのかのように、やさしくたたずんでいる。(2006/9)


甘樫の丘の中腹にこの歌碑が立っている。(2006/9)
万葉学者故犬養孝先生の筆になるもの。


万葉の大和路を歩く会で犬養孝先生とともに、
この地に来たのが今では懐かしい思い出である。(1986/6)