飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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死者の書の旅 その11(小説「死者の書」第20章”曼荼羅を描く”)

2007年03月25日 | 死者の書の旅
第20章、曼荼羅を描く
「藕絲(グウシ)の上帛の上に、郎女の目はぢつとすわつて居た。やがて筆は、愉しげにとり上げられた。線描(スミガ)きなしに、うちつけに絵具(エノグ)を塗り進めた。美しい彩画(タミエ)は、七色八色の虹のやうに、郎女の目の前に、輝き増して行く。・・・
姫は、緑青を盛つて、層々うち重る樓閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち續く姿が、目赫(メカヾヤ)くばかり、朱で彩(タ)みあげられた。むら/\と靉くものは、紺青(コンジヨウ)の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、畫(カ)きおろされた。雲の上には金泥(コンデイ)の光り輝く靄が、漂ひはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のまゝに動いて居る。やがて金色(コンジキ)の雲気(ウンキ)は、次第に凝り成して、照り充ちた色身(シキシン)――現(ウツ)し世の人とも見えぬ尊い姿が顯れた。・・・
姫の俤びとに貸す爲の衣に描いた絵樣(エヨウ)は、そのまゝ曼陀羅の相(スガタ)を具へて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身(シキシン)の幻を描いたに過ぎなかつた。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻(マモ)る絵面には、見る/\数千地涌(スセンヂユ)の菩薩の姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢(ハクジツム)のたぐひかも知れぬ。(完)」

 郎女は曼荼羅を描き終えて、静かに去っていく。
郎女=中将姫は阿弥陀と一体化していき、西方浄土の空に消えていく。
 作者は大津皇子の無念の死と中将姫説話を霊魂の幻想で結びつけ、
ドラマチックに小説化したのである。

(写真は当麻曼荼羅)


死者の書の旅 その10(小説「死者の書」第18-19章”はた織り作業”)

2007年02月15日 | 死者の書の旅
第18章、はた織り作業
姫が機織がうまくいかなく悩んでいると、そこに化仏(菩薩の化身)が現れ、機織を手助けする。
「女は、尼であつた。・・・はた はた ちよう ちよう。元の通りの音が、整つて出て来た。
郎女は、ふつと覚めた。あぐね果てゝ、機の上にとろ/\とした間の夢だつたのである。だが、梭をとり直して見ると、
はた はた ゆら ゆら。ゆら はたゝ。
美しい織物が、筬の目から迸る。
はた はた ゆら ゆら。
思ひつめてまどろんでゐる中に、郎女の知恵が、一つの閾を越えたのである。」

第19章、壁代のようにつなぎ合わせる
俤人の肌を覆う上衣になり、当麻曼荼羅を連想する壁代ともなるように、
「望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反(ヒトムラ)の上帛(ハタ)を、夜の更けるのも忘れて、見讃(ミハヤ)して居た。
この月の光りを受けた美しさ。
裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの上帛(ハタ)が出来あがつた。」

(写真は、「中将姫一代記」(ちゅうじょうひめいちだいき)。5巻5冊。絵入の読本。寛政13(1801)年。第4巻の中将姫はた織りの場面)

死者の書の旅 その9(小説「死者の書」第17章”山越しの幻像”)

2007年01月17日 | 死者の書の旅
第17章、二上山の山越しの阿弥陀幻像。
郎女が二上山の男嶽と女嶽の間に尊者を観想する場面。
尊者は大津皇子のようにまた阿弥陀のようにみえた。
作者は”山越阿弥陀図”を見て、小説のこの場面を着想したと思われる。
”山越阿弥陀図”は中世あたりから、臨終のときに枕元で図屏風を見て観想しながら浄土に旅立てる道具として貴族社会で使われた慣例があった。

「男嶽と女嶽との間になだれをなした大きな曲線(タワ)が、又次第に両方へ聳(ソソ)って行つてゐる、此二つの峰の間の広い空際(ソラギワ)。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。山の間に充満して居た夕闇は、光りに照されて、紫だつて動きはじめた。
さうして暫らくは、外に動くものゝない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。
肌 肩 脇 胸 豐かな姿が、山の尾上の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顏ばかりは、ほの暗かつた。
今すこし著(シル)く み姿顯したまへ――。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつてたなびき、次第々々に下がる樣に見えた。・・・」


(写真は禅林寺 山越阿弥陀図)

死者の書の旅 その8(小説「死者の書」第14-16章”蓮糸”)

2006年12月12日 | 死者の書の旅
第14章、家持と仲麻呂の対話
第15章、郎女が当麻の庵堂へ来てから約二ヶ月間の経過が描かれている。
第16章、庵堂で蓮糸作りが始まる
「皆手に手に、張り切つて発育した、蓮の茎を抱へて、廬の前に竝んだのには、常々くすりとも笑はぬ乳母(オモ)たちさへ、腹の皮をよつて切(セツ)ながつた。
郎女(イラツメ)樣。御覧(ラウ)じませ。
竪帳(タツバリ)を手でのけて、姫に見せるだけが、やつとのことであつた。
ほう――。
何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ上(ジヤウラフ)には、唯常と変つた皆の姿が、羨しく思はれた。
この身も、その田居とやらにおり立ちたい――。
めつさうなこと、仰せられます。
めつさうな。きまつて、誇張した顏と口との表現で答へることも、此ごろ、この小社会で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな、身狹乳母(ムサノチオモ)に対する反感も、此ものまねで幾分、いり合せがつく樣な気がするのであらう。」
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写真1:当麻寺山門
写真2:当麻寺東塔と中将姫剃髪堂
写真3:当麻寺の中将姫像
写真4:石光寺の染の井

死者の書の旅 その7(小説「死者の書」第11-13章”白玉幻想”)

2006年11月20日 | 死者の書の旅
第11章は、蓮糸織が初めて出てくる。奈良の郎女の屋敷で、苑の池の蓮の茎を折って繊維を引き出し、幾筋も合わせて糸にする、女たちの作業を郎女がじっと見ている日もあった。
第12章、郎女の決意。
「姫の咎は、姫が贖(アガナ)ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償(ツグナ)ひ、心の償ひした、と姫が得心するまでは、還るものとは思(オモ)やるな。」

第13章は、この小説の白眉である白玉幻想の場面が出てくる。庵での郎女の静かな夜に、
「つた つた つた。又、ひたと止(ヤ)む。この狹い庵の中を、何時まで歩く、足音だらう。つた。郎女は刹那、思ひ出して帳台の中で、身を固くした。次にわぢ/\と戦(ヲノヽ)きが出て来た。」
「白い骨、例へば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残つて居た。帷帳(トバリ)は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでゐるやうな気がする。・・・長い渚を歩いて行く。・・白玉を拾ふ。水のやうに手股(タナマタ)から流れ去る白玉。・・・姫は――やつと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく、裳(モ)もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現(ウツ)し身。
ずん/\とさがつて行く。水底(ミナゾコ)に水漬(ミヅ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹(ヒトモト)の白い珊瑚の樹(キ)である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。
まるで、潜(カヅ)きする海女(アマ)が二十尋(ハタヒロ)・三十尋(ミソヒロ)の水(ミナ)底から浮び上つて嘯(ウソフ)く樣に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。」


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写真は、アニメーション映画「死者の書」の画像


死者の書の旅 その6(小説「死者の書」第8-10章”大伴家持”)

2006年10月22日 | 死者の書の旅
第8章からしばらく南家郎女が主人公の座から去って、時代の寵児である大伴家持が登場する。
「ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持(オホトモノヤカモチ)は、父旅人(タビト)の其年頃よりは、もつと優れた男ぶりであつた。併し、世の中はもう、すつかり変わつて居た。見るもの障(サハ)るもの、彼の心を苛(イラ)つかせる種にならぬものはなかつた。・・・」

第9章で大伴家持が郎女失踪の噂を偶然耳にする。石城(シキ)という築地垣を回した屋敷なので、二十歳のなった美しい郎女と接することが出来ず神の物の存在だった。
第10章は「妻夜這い」の風習をあげている。古来、石城(シキ)のない屋敷では出入りが自由で夜這いにより妻を娶る風習があった。昔を偲ぶ家持がうつろいゆく変化を偲んでいたが、何者にも犯されない石城(シキ)の中の郎女が神の嫁として失踪・出家したのには、いたく驚いた。
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写真は、大伴家持ゆかりの北陸・高岡。当時国庁役人として赴任した地である。
写真1:大伴家持像(高岡駅前)
  この高岡の地で名作「かたかごの歌」が生まれた。
  ”もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲みまがふ
   寺井の上の かたかごの花”
写真2:二上山(ふたがみやま)高岡市内より
   大和の二上山に似たこの山を見て故郷を偲んだ。
写真3:越中国守館跡(伏木測候所)
写真4:かたかご育成地(勝興寺)
   「かたかご」は現在の「かたくり」である。

死者の書の旅 その5(小説「死者の書」第5-7章”郎女神隠し”)

2006年09月08日 | 死者の書の旅
第5章は、死者が記憶を思い起こす場面から始まる。

「おれは活きた。闇い空間は、明りのやうなものを漂わしてゐた。・・・
耳面刀自。おれには、子がない。子がなくなった。おれは、その栄えてゐる世の中には、跡を貽(ノコ)して来なかった。子を生んでくれ。おれの子を。・・」

南家郎女が留まる万法蔵院の小庵の戸を、明け方前に激しく揺する物音があった。

第6章は、郎女の失踪。家から二上山へと行く。奈良の家屋敷の描写。失踪前の郎女の称讃浄土経の写経、千部写経を始める。そして彼岸の日に二上山の峰の間に荘厳な人の俤を見る。

「郎女の家は、奈良東城、右京三条第七坊にある。祖父(オホヂ)武智麻呂(ムチマロ)のこゝで亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は、男壯(ヲトコザカリ)には、横佩(ヨコハキ)の大將(ダイシヨウ)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者(モノ)であつた。・・・」
「姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽(ハ)れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と莊嚴(シヤウゴン)な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後(アト)は、真暗な闇の空である。・・雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡(ナビ)かして居た。其時、男嶽・女嶽の峰の間に、あり/\と浮き出た 髮 頭 肩 胸――。姫は又、あの俤を見ることが、出来たのである。・・」

そして第7章は、郎女の神隠しである。

「南家の郎女の神隱(カミカク)しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽(ハ)れ、山々がなごりなく見えわたる時まで気がつかずに居た。
横佩墻内(ヨコハキカキツ)に住む限りの者は、男も、女も、上(ウハ)の空になつて、洛中洛外を馳せ求めた。・・姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯、家を出て、西へ/\と辿つて来た。・・姫は、大門の閾(シキミ)を越えながら、・・岡の東塔に来たのである。・・山ををがみに……。まことに唯一詞(ヒトコト)。當(タウ)の姫すら思ひ設けなんだ詞(コトバ)が匂ふが如く出た。・・奈良の家では誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよくする、春の野遊びに出られたのだ。――」
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写真は奈良の明日香(現在の奈良市奈良町)に残る中将姫ゆかりの場所
写真①:高林寺:中将姫が住んでいた屋敷あと
写真②:誕生寺:中将姫誕生の地
写真③:徳融寺:藤原豊成公(中将姫の父)の邸跡
写真④:徳融寺:豊成公と中将姫の御廟と伝える二基の宝きょう印塔


死者の書の旅 その4(小説「死者の書」第3-4章”老婆の語り”)

2006年08月25日 | 死者の書の旅
第3章は、二上山東麓の当麻寺の創建が語られる。

「万法蔵院の北の山陰に、昔から小さな庵室があった。昔からと言ふのは、
村人がすべて、さう信じて居たのである。荒廃すれば繕ひ\/して、人は住まぬ廬(イホリ)に、孔雀明王像が据ゑてあつた。当麻の村人の中には、稀に、此が山田寺である、と言ふものもあつた。」

伝承では、万法蔵院が焼失して百年後に当麻寺が再建されたという。山田寺は初期の山林仏教の道場であったようで、由緒ある寺を姫が女人結界を犯したことを強調しているようである。
荒れた小さな庵室で姫が結界を犯した償いのために暮らすことになる。そこに一人の老婆が登場する。老婆が藤原・中臣の遠祖が二上山の聖水を求めたという伝説を語る。姫はその尊さを知る。
第4章では、老婆が神懸りして謀反の罪によって討たれようとする大津皇子の執心を語る。

「とう\/池上の堤に引き出して、お討たせになりました。其お方がお死の際に、深く\/思ひこまれた一人のお人がおざりまする。耳面刀自(ミミモノトジ)と申す。大織冠のお娘御でおざります。・・・其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となったのでおざりまする。
もゝつたふ 磐余(イハレ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隱りなむ
この思ひがけない心残りを、お詠みになった歌よ、と私ども当麻の語部(カタリベ)の物語りには、伝へて居ります。」
大津皇子の辞世の歌である”もゝつたふ磐余の池”の”鳴く鴨”が、磐余の池に鳴く鴨ではなくて、池の向こうで泣いている耳面刀自であると、この小説では解釈している。そして、

「女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この当麻までお出でになつたのでなうて、何でおざりませう。」

と、耳面刀自への大津皇子の執心が、時代を経て若く美しい南家郎女への執心へと向けられていく。南家郎女も導かれてやってきた尊いお姿が大津皇子へと変わっていくのを感じてくる。
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写真①:二上山と当麻寺  手前左手は鐘楼
写真②:当麻寺東西両塔 東塔は天平期、西塔は平安期とそろっている
写真③:当麻寺中之坊中将姫剃髪堂 中将姫が剃髪したと伝えられている
写真④:当麻寺練供養 毎年5月14日に行われる、正式には「来迎会」という。
     本堂(極楽堂)から中将姫が極楽往生をねがっている小堂にむかって、「講」の人たちの仮装した
     二十五菩薩が来迎橋の上をねりながら来迎するのである。小堂で中将姫の小像を蓮台の上に
のせて、極楽堂へかえるのであるが、堂の背後に二上山が夕日に輝やいているのである。

死者の書の旅 その3(小説「死者の書」第2章”魂ごい”)

2006年08月12日 | 死者の書の旅
「死者の書」第二章は、九人の修験者の魂ごいである。
冒頭二上山の中腹から河内の方を見下ろした夜の風景描写が美しい。

「月は、依然として照って居た。・・・・山を照らし、谷を輝かして、剰(アマ)る光は、又空に跳ね返って、残る隈々までも、鮮やかにうつし出した。・・・・広い端山の群がった先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた、輝く大佩帯(オホオビ)は、石川である。・・・・」

二上山の西側にある王墓の谷といわれる磯長(しなが)まで、飛鳥時代に柩をはこぶには、当麻路を通って河内側へ出なければならない。当麻路とは二上山の雄嶽・雌嶽の鞍部を越える道のことである。この当麻路を「こう こう こう」(来い、来い、来い)と魂ごいしながら下ってくる九人の修験者がいた。

「こう。こう。お出でなされ。藤原南家郎女の御魂。こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう。こう。」

神隠れした姫にとどかせるための声であるが、なんとこれに墓に横たわる死者が反応し、「をゝう」という異様な声を発する。修験者は驚いて散々と逃げ出していた。

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写真は二上神社口駅から傘堂→祐泉寺→二上山馬の背→山頂→鹿谷寺址→竹内峠→磯長へ、歩く会に参加した時のものである。
写真①:二上山東麓の傘堂付近からの二上山のながめ、祐泉寺へ向かう途中。
写真②:祐泉寺付近の山道。このあたりは、”関西の奥入瀬”とも呼ばれている。
写真③:二上山馬の背から雄嶽をみる。
写真④:二上山雄嶽から葛城・金剛山系を望む。手前は雌嶽。
写真⑤:二上山から河内方面を望む。
写真⑥:鹿谷寺(ろくやじ)址。古代の石切場。十三重石塔は奈良時代のものと推定され、我国最古のもの。大津皇子の墓石もここで切り出され運ばれたようだ。


死者の書の旅 その2(小説「死者の書」第1章”死者の蘇生”)

2006年07月24日 | 死者の書の旅
小説「死者の書」は、昭和14年に折口信夫が発表したのであるが、当初はまったく注目されず、昭和47年に全集が出るにおよんで広く世に出たということである。読んで見るととても難解な小説であり、なにか新しさが感じられるのが、一因であろう。
第一章は、大津皇子の墓穴の中の死からの蘇生から始まる。

「彼(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
 した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(マツゲ)と睫とが離れて来る。・・・」

”折口学”という民俗学を作り出した著者が、古代に用いられていたと想われる日常語で書いているので、たいへん味が出ているがこれが難解にしている最大の要因である。
蘇生した大津皇子の独白で、磐余(いわれ)の池で刑死したした瞬間に耳にした泣き声の主が耳面刀自であることを思い出す。
姉の大伯皇女の歌が聞こえてくる。
「うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟(いろせ)と思わむ」
自分の墓が二上山にあることを知った。墓の中で手足をばたつかせながら、蘇ってきていた。
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二上山の雄嶽の頂上に大津皇子の墓がある。
一方、二上山の中腹にある鳥谷口古墳が大津皇子の墓とも推定されている。
万葉集に、大津皇子の辞世の歌が載っている。
「もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
日本書記に、皇子の妃であった山辺皇女が髪をふり乱し素足のまま走っていって皇子の傍で殉死したと記している。小説ではあえて架空の耳面刀自としている。
磐余の池は今はないが、その名残りである東池が残り歌碑が立っている(桜井市池之内)。

死者の書の旅 その1(映画「死者の書」)

2006年07月19日 | 死者の書の旅
7月1日に下高井戸シネマで上映中の映画「死者の書」を鑑賞した。
折口信夫原作をアニメーション作家で人形美術家の川本喜八郎が
人形アニメーション映画として作り上げた作品である。
みごとな衣装と豊かな顔の表情をもった人形を細かいアニメーションで
、古代絵巻のような奈良時代の景観描写の中で生き生きと映像化した。

(あらすじ)
8世紀半ば、平城京藤原南家の姫、郎女は春の彼岸中日、一心に写経していた。
部屋から遠くに見える二上山の二つの峰の間に日が沈む瞬間に、
郎女は尊い俤(おもかげ)びとの姿を見て、千部写経を発願する。
1年後の彼岸中日に千部写経を写し終えると、雨の中を邸を出て二上山の麓の當麻寺にたどりつく。
寺の庵で物忌みすることになった郎女に、當麻の語部の老女から50年ほど前、
飛鳥の世に謀反の罪で処刑された大津皇子の話を聞かされる。
大津皇子の亡骸は二上山に葬られたが、郎女はその魂に呼ばれてこの當麻まで来たのだ、と老女は話す。
皇子は死の直前に一目見た女性、耳面刀自(みみものとじ)への執念から亡霊となってこの世に蘇った。皇子の霊に郎女が耳面刀自と映ったのである。
郎女のもとに、世更けて皇子の亡霊が現れるが、郎女には俤(おもかげ)びとと重なる。その寒々とした身体を覆う衣を作ろうと蓮の糸で布を織り始める。
ある日、當麻の語部の老女が現れ、壁代のようにつないで縫うように教える。
出来上がった織物に老女は俤(おもかげ)びとを描きなさい、と進める。
郎女は蓮糸の織物の上に筆で描き始める。俤(おもかげ)びとの姿、それは浄土曼荼羅の世界であった。周りにいた侍女たちも何時の間にか眠りに陥っている中、
完成した曼荼羅を振り返り、音もなく郎女はその場を立ち去った。・・・

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折口信夫の原作は不気味な怨霊を重々しく描いているが、
この映画では人形を使っているため人間くさいユーモラスさが漂うのを感じる。
怨霊が50年後の郎女に取り付いたというトンチンカンなユーモラスさが原作にあったのを再発見できたように思う。
死者の書に出てくる大津皇子の悲劇とは?大友家持と万葉集とは?
そして郎女の話は中将姫伝説をもとにしている。
中将姫・當麻寺・當麻曼荼羅へ、そして伝説・説話・絵巻・お伽草子へ。さらに近世・明治へと脈々と流れる中将姫を想う日本人の感性が宗教・文芸・娯楽分野でどのように発展してきたのか?。
以前より旅で撮り貯めていた関連する写真や資料があり、これらを整理しながら、
あらためて死者の書・万葉集・中将姫伝説を追ってみたくなった。全て自前の写真で。
まず原作「死者の書」をひも解くことから始めて、どこまでもつづく万葉と中将姫伝説の旅に出かけてみよう!。