「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

飛行機の翼の点滅亀の鳴く 及川源作

2018-05-22 05:41:07 | 日記
翼灯をともして飛行機が飛んで行く。たぶん、家路をゆっくり歩くいつもの時間。飛行機が飛び去れば無音のはずだが亀が鳴いている。飛行機のはっきりしない点滅に、何とはなしに日が長くなって来たと感じた事に端を発した句でしょうか。「亀の鳴けり」と断定せず「亀の鳴く」とその下五は春の気配を柔らかく置いて・・・。「そろそろ旅行にでも行くか」と、ひとりごつ。そんな作者だったかもしれません。(博子)


煩悩を啣へし魚板冬木の芽 栗田昌子

2018-05-19 06:08:12 | 日記
 最初にビジュアルのバランスの良さに魅かれた。
 魚板は、名前の通り魚の形をした板で、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、修行に精進することの象徴としてあり、打ち鳴らすことで、時を告げたり、人を集める合図として使われるもので、木魚の原型と言われている。「魚」と「木」で句が成り立っているのはそんな謂れを含むのかもしれないが、吊るされている魚板と冬木の芽を見上げる目線に取り、冬のピリッとした空気感に身の引き締まる思いでいる作者と、心を和ませている作者の両方を感じる。魚板が啣へているように見える玉は、貧トン=むさぼり・瞋ジン=むかつき・痴チ=ぐち、の固まりで人間の心の奥を表現したもので、その腹を打つのはこの三毒を吐き出し易いようにするためだという。裸木となった落葉樹の冬芽は待春の気持ちでもあり、今、作者が抱える心の有りようが何となく分かるような気がした句だった。(博子)

鳥帰る地に錆釘の落ちてをり 鈴木三山

2018-05-16 05:44:34 | 日記
 震災句だろうか。錆釘に解体された家の跡地を思ってみた。しゃがみ込んで、感慨に浸っていたところ、帰って行く鳥の声を耳にして見上げた。
「三月十日も十一日も鳥帰る 金子兜太」が頭に浮かんだ。三月十日は東京大空襲の日。十一日は東日本大震災の起きた日だ。「も」によって読み取れる災禍に巡る歳月が、錆釘にも思われるような気がした。今年もいち早く春を感じて渡り鳥たちが旅立って行く。そこには春という待ち焦がれた季節を思うと同時に、生きる為の必死も見えてくる。「地」は被災地か。低い姿勢を思わせる「落ちてをり」は、打ちひしがれていた心が立ち上がる。そんなことも含んでいるのだろうか。遠近法の句に自分を置いてみるとそんな連想になった。(博子)

七年を経て生乾き春の泥 小林邦子

2018-05-10 04:43:31 | 日記
 春の泥は厄介なものではあるが、いよいよ春なのだなあという気分を実感させ、少しばかり浮き浮きとした気分もして来るが「七年を経て」と、震災句。あの年から、春泥は三月十一日の津波被害とリンクしてしまう。「生乾き」は心象を思っての言葉かと思う。七年の歳月は目に見える街の復興ほどには進まない。そんな心を抱えて生きる方々に寄り添う句。
滝誌にはたくさんの震災句が掲載されている。
「震災の海へ三里の流し雛 鈴木三山」
「三陸の海三月の飛雪かな 堀籠政彦」
「卒業す仮設校舎の扉を閉めて 齋藤善則」
「震災の爪痕七歳の春よ 梨子田トミ子」
そして、赤間学さんが
「あの日より水仙は我が地震の花」をはじめとする<福島 2017>と題した三十句で、第二十九回日本伝統俳句協会賞 佳作第一席を受賞された。(博子)
~「滝」は3.11を忘れません~