「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

ひらひらと時間を跨ぐ秋の蝶 後藤外記

2018-10-27 06:17:08 | 日記
ひらひらと蝶が飛んでいるが少し弱々しく感じたのだろう。そういえば、萩やコスモスが咲きだして風に揺れていて、空が一段と澄み、もう秋なんだなあと感じる。そのいつの間にか秋を纏う蝶は、「時間を跨ぐ」という詩情に変換にされて、命が命として今そこにある。「秋の蝶」のその先を憂いてもいる。蝶が秋蝶になる刻を描き出すのに充分な秋思が、花野の美しさと共に見えてくるような作品だと思った。(博子)


夕なれば花野にこゑや大川小 八島敏

2018-10-26 03:57:54 | 日記
 「大川小」その文字があるだけで、東日本大震災の巨大津波を思わないではいられない。側を流れる北上川から溢れてきた津波の遡上で内部が流失した校舎を見るのは辛く、校庭の端にある山際の慰霊碑にお参りしたとき、私は「恐かったね」と、語りかけることしか出来なかった。掲句は、「夕なれば」と推定して、花野に「こゑ」があり、大きな切れがあり、場面は大川小学校へと移るが、心は繋がっているのだろう。「忘れないよ」と言う気持ちを込めて、天国の花野に元気に遊ぶ声を聞いているように思うのは私だけだろうか。季語の本意から外れると言われてしまうかもしれないが、そんなふうに読めた。いや読みたい。大川小学校だけではなく、震災で奪われた、たくさんの命に合掌。(博子)

秋の声亡夫の席を猫占める 梨子田トミ子

2018-10-24 05:09:33 | 日記
 秋になると物音も敏感に感じられ、雨風の音、物の音、すべてその響きはしみじみと胸に染み入る。ご主人がご健在の頃は一緒に旅をした秋だったのだろう。一抹の寂しさに猫の存在が優しい。いつも猫を膝のせて座っていたご主人の姿はなく、猫だけがその席に居る。それとも、御主人のいない寂しさに飼い始めた猫だろうか。マイペースな猫の自由さを思えば、夫に従順だった作者も時には手を焼くこともあったのかもしれないが、皆、思い出と言う時間に変わってしまった。「秋の声」という抽象的な季語がさまざまの想いに繋がって、作者の寂しさを言い得る。(博子)

托鉢の尼僧見上ぐる雁の空 鈴木要一

2018-10-22 04:51:29 | 日記
なぜ「尼僧」なのだろう。僧侶でも字数は同じだ。たまたま托鉢僧を見掛けて施しをするために近づくと鉢を持つ手に女性だと知ったからかと思ったが、「見上ぐる」と、作者は僧を少し遠目に見ている。単に、描写したとは思えないと思わせられるが「雁の空」だ。「雁の空」には「旅」を感じる。私の知識の及ばない何かがあると「俳句 尼僧」とパソコンの検索窓に打ち込むと「田上菊舎(たがみきくしゃ)」という俳人にヒットした。江戸時代中期から後期にかけて生きた人で、二十九歳の時に得度し、尼となり、家を持たず、富や名誉も求めず、全国各地を歩き続け、三十年の旅の間に残した俳句は三千以上に及ぶそうだ。松尾芭蕉の「奥の細道」を、その結びの地、美濃の大垣から逆に、北陸、東北、そして江戸へと旅立ったときの句が
「月を笠に着て遊ばゞや旅のそら 田上菊舎」
「雁の空」が作者に菊舎の旅を思わせたのかもしれない。雁との旅路の逆行も
又。(博子)

先生の本を開けば星流る 遠藤玲子

2018-10-19 19:51:35 | 日記
 「先生」は、亡くなられた「滝」創刊主宰、菅原鬨也先生かと思う。流れ星が消えるまでに、願い事を三回唱えられたら願いが叶うと言われるが、私はいつもただの一回すら唱えることが出来ない。流れ星があまりに早く消え去ってしまうからだ。そして、先生もあまりにも早く姿を消されてしまった。それでも先生を感じながら詠んでいるのは多分私だけではないでしょう。その教えは、先生の声で、頭の中に、心の中にいつもある。もう会う事は叶わないけれど、たくさんのステキな句を残してもくださいました。句集を開けば、先生の視線も、息遣いも、想いも、感情も感じることが出来る。そうやって詠めなくて苦しい時、私は句集を開く。先生にSОSを送るように・・・。掲句もそんな感じかと思う。(博子)