徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

「ジョン・オカダをさがしに」

2013-06-14 22:48:33 | Books
<さて、文化をもたず、文学もなく、なにひとつ作品もうまず、過去に太平洋をわたってきたもの以外に作家というのがひとりも現れなかったような一民族の中で生まれたとしたらどうか。新しいアメリカを経験し、その方法的知識をうみ、つくりだしてきた二百年間をもつ白人とくらべて、その期間に幾世代もつづいてきたけれど、その民族はなにひとつコトバもつくらず、冗談ひとつ記録されず、一冊の本も書かなかったとしたら。(中略)
 それこそ、おれが育った境遇だ。料理の本以外の文学的遺産といえば、キリスト教帰依者とか、白人と結婚しただけで白人どもから進歩したといわれるポカホンタス的黄白人のこどもたちの自叙伝しかない。おれは、ほかになにひとつ知るべきものがないんだから、黄色人文学については、ほかになにひとつ知らずに育った。百五十年におよぶわれわれの歴史のなかで、中国人の場合なら六世代、日系人は四世代、朝鮮人二世代といったなかで、だれひとり自己についてナニガドウとかダレガドウとか語られずにはいられない衝動すらもたずじまいだった。(中略)
 一九五七年に書かれたジョンの小説を発見したことは、文学史のなかで憂鬱で孤独な感じになっていた白人作家がマーク・トゥエインをさがしあてたのと酷似している。『ノー・ノー・ボーイ』はおれが黄色人種の歴史のなかでただひとりのキ色人間作家じゃあないのを証明してくれた。この本がすごくいいから、おれは自分のものがどんなにつまらなくてもかまわないんだという気持ちにしてくれた。解放してくれた。(中略)
 アジア系アメリカ人は自己憐憫と、「アジア系アメリカのアイデンティティ危機」という豪勢な理論のまわりをただウロウロしてきた。それは大量生産的布教活動でわれわれを改宗させようとして以来ずーっとつづいている。文明は宗教を基盤にしていて、一番いいのは、ひとつの神をあがめることだという考えが普及してからずーっとそうだ。キリスト教の宣教師はわれわれが同胞の女に接するのも否定し、キリスト教に改宗したものだけに婚姻を認めた。そうやってわれわれの人口までコントロールした。二十年代には、自分がだれなのかわからないようなアジア系アメリカ人世代がうまれた。いまだにそのままだ。ジョン・オカダは、この「アイデンティティ」の危機がトータルには現実であり、同時にどうしようもなくインチキだ、ということを、いまでも多くのキ色人間には強烈すぎて読むのがおそろしい、この本で示している。>

<今月、アジア系アメリカ人作家やおれみたいなコトバ屋が全国からシアトルに互いに出合うのを楽しみに集まった。シアトルは特別なところだからだ。われわれの歴史の多くがここにある。開拓者的アジア系アメリカ人ジャーナリストや作家をうんだ地だ。ジェイムズ・サカモト、モニカ・ソネ、ビル・ホソカワ、ジム・ヨシダ。だがしかしジョン・オカダこそ唯一の偉大な作家だ。おれはシアトルにもどってきた。「ジョン、あんたの本を読んだぜ。すごく気に入ってるぜ」と言うために。>
(ジョン・オカダ『ノー・ノー・ボーイ』中山容・訳 晶文社/「ジョン・オカダをさがしに」フランク・チン1976年6月)

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