徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

我が最良の80年代の記憶/TOKYO SOY SAUCE 2019

2019-03-17 14:59:17 | Music


今や80年代は悪い時代だったと言われる。例えば「MANZAIブームのあとには日本人の(笑いの)感覚が変わる、荒野になる」と時勢を斬った萩本欽一や沢田隆治(この人も毀誉褒貶相半ばする人だし、彼ら自身が時代の変わり目に直面していたわけだが)の言葉のように、あの当時であっても警告していた人はいたし、その時代に10代から20代を過ごした自分にとっても思い当たるふしはある。時代は変わってしまった。あの頃、鋭い社会批評だったものの多くは、その後に訪れる超反動時代の萌芽であり、21世紀を迎えた頃には呑気な時代遅れで、今や幼稚でしかない<本音>に反転してしまった。
しかし80年代が最悪の時代だったからといって、すべてが最悪なわけではもちろんない。そしてもちろんこれは笑いの話ではない。

昨夜は渋谷のクラブクアトロでTOKYO SOY SAUCE 2019へ行った。彼らと彼らがいたステージは最良の80年代のひとつだった。
1986年の初回から30年以上の時間が経ち、ミュージシャン、スタッフ、オーガナイザーなど少なくない関係者が逝ってしまった。しかしs-ken、Oto、松竹谷清、そしてこだま和文というイベントの中心人物は健在であり、3.11以後、生活拠点を熊本の山中で移していたOtoをs-kenが訪ねたときから復活が話し合われていたのだという。
しかしオレ自身には<TOKYO SOY SAUCE>の記憶はそれほどない。初回(渋谷ライブイン)に行っていないのは確かだが、その後5回まで行われたイベントに行ったのか、行っていないのか記憶にない。確かなのはインクスティック芝浦ファクトリーという場所には頻繁に行っていて、彼らはその場所によく出演していた、それだけだ。若造だったオレには<信用できる場所>が必要で、例えばザ・スズナリと同じぐらい、その当時インクスティック芝浦ファクトリーは信用できる場所だったのだろうと思う。ちなみにJAGATARAの最後のライブなってしまった新宿のパワーステーションには行かなかった。たぶんパワーステーションだから行かなかったのだと思う。また観られるだろうと。油断した。往年の<TOKYO SOY SAUCE>のようすはJAGATARAのドキュメンタリーである『ナンノこっちゃい』で観られる。倒れるほど観た。あの『ビッグドア』は聴いたことがなかったので悔やんだ。しかしあれこそがオレが観ていたJAGATARAだった。

JAGATARAは今もなお強度のあるアケミのメッセージとビートでオレたちを踊らせ続ける。この夜のようなパンキッシュな『みちくさ』のコール&レスポンスは、ノスタルジーだけではなく今の時代だからこそできた呼応だったのだと思う。『都市生活者の夜』でノブが「甦れ!」と叫んだのもきっとそういうことなのだ。ノスタルジーだけではないのだ。いやノスタルジーではないのだ。少なくともオレにとっては(ノスタルジーといえばJAGATARA2020でベースを弾いていた黒猫チェルシーの宮田岳の佇まいがナベちゃんにそっくりで驚いた)。
彼らはポップで国境線のない、踊るオルタナティブで、新しい日本人を作っていた。
堂々たるゴッドファーザー然としていたs-kenと松竹谷清、そしてこだま和文の完璧に「楽しい」ステージで踊っていて、そしてあえてこの夜に『Shangri-la』と『不滅の男』をプレイした高木完に改めてそのことを痛感した。オレたちは、否が応でもすでに<楽しむためには正面切って戦わざるを得ない国>に生きていて、そして彼らのライ「ヴ」を観て、スピリッツを受け継ぎ、踊りながら考えて、大人になったのだ。

s-kenの最後の挨拶のあと、南、Oto、EBBYの三人が名残惜しそうに去っていく姿は『ある平凡な男の一日』が聴こえてくるようで、まるで『ナンノこっちゃい』のワンシーンのように思えた(Otoはいつもあんな風にフロアを煽っていた印象がある)。みんなもうさすがにいい歳なのだが、またここから何かが始まるのだろうと思う。オレたちは生き残っている限り、そうでなくちゃいけない。
ステージで、そしてフロアで踊っていたみんなも。

東京が自分の町ならば。


20190316 TOKYO SOY SAUCE2019 大団円

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