徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

『マンガ哲学辞典』と原っぱ

2019-09-14 18:58:49 | Osamu Hashimoto

到着。橋本治は「30代後半までに自分の思想を作らないと、その後の仕事の時間がなくなる。作っちゃえばそれに寄りかかれるし」と言っていた人で、この本はその「30代後半になるまでに」広告批評に掲載された、一般に言われるところの哲学の辞典ではなく、ここにマンガとして描かれるのは文字通りの「橋本治の哲学」である(「意味と無意味の大戦争」のみ83年、その他はバブルの真っ只中の88年から連載された)。
その直後に昭和の終わりと自民党と55年体制の終焉を書いた大著『89』を出したあたりから、「もう時評はやらない!」と言い続けていたような気がするが、請われるままに、また治ちゃんの一身上の都合で時評は書き続けられた。「自分の思想があれば寄りかかれるし、楽ちんだもの」と言っていた彼はそのまま古典芸能や小説の世界には行けなかった。それは商人の息子として生まれた彼のサービス精神だったのかもしれない。治ちゃんを始めとして、今や少なくない関係者が物故者となってしまったから書くけれども、あるインタビューで会った糸井重里は「広告批評はずるい」と言っていた。毎月、巻頭に治ちゃんのステイトメントが掲載されるのだから、それは、確かに、「ずるい」。
80年代の勢いそのままに猛烈に刊行点数を増やしていた、それなりに元気だった90年代まではともかく、21世紀以降の時評は評価が難しく、痛々しく感じられることすらある。特に新書系は。

オレ自身は86年の橋本治の講演会での体験に今もって多大な影響を受け続けている人間なので、まず「そうか、40歳までにどんな形でもいいから本を出そう」と決めて、41歳で思想とはまるで関係ないけれども本を出した(一年遅れたのは諸般の事情なのでノーカウントである)。そして、その後の行動のベースには、上記の講演会をまとめた『ぼくたちの近代史』がある。橋本治はバブル期に地上げ屋が跋扈する東京に戦後復興期の「原っぱ」を見て、オレは3.11後の路上に「原っぱ」を見たのだ。
だから昨日TwitterのTLに流れてきた韓国人シンガーソングライターのイ・ランのインタビュー記事にあった「人間関係はピラミッドではなく原っぱで考えよう」のフレーズを読んだ時には驚いてしまった。若い韓国人の彼女は確実に橋本治を読んでいないと思うのだが、何で「原っぱ」という言葉が湧き出てくるのだろう(素晴らしい)。たぶんオレがこれから書くテキストもそういう内容になるだろう。

「橋本治の哲学」が凝縮された一冊を手にして胸が熱くなった。

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