徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

知識というパンと貧乏な白人少年たちの未来/「ある黒人奴隷の半生」

2013-11-13 04:15:39 | 世界ノンフィクション全集/Books

フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)「ある黒人奴隷の半生」
刈田元司・訳/『世界ノンフィクション全集』第39巻/筑摩書房1963
※「フレデリック・ダグラス自叙伝 アメリカの奴隷」

<男女の奴隷たちは、毎月の食料の割当てとして、8ポンドの豚肉、またはそれに相当する魚、それと1ブッシェル(36リットル)のひまわり麦をうけとった。一年一回の衣料は、粗いリネンのシャツ2枚、シャツと同じようなリネンのズボン1足、上衣1着、粗布の冬ズボン1足、靴下と靴それぞれ1足ずつで、全体あわせても7ドル以上の値段のものではなかった。(中略)畑で仕事をすることのできない子供たちは、靴も靴下も上着ももらえなかった。一年に粗いリネンのシャツがただ2枚だけだった。この2枚がだめになると、子供たちはつぎの給与の日まではだかですごした。7歳から10歳までの子供たちは、男女とも、一年じゅうほとんどはだかで過したといってもよいだろう。奴隷たちにはベッドはあたえられなかった。粗い毛布をベッドと考えれば別だが、この毛布さえおとなの男女以外にはなかった。しかし、これもさほど大きな特権であるとは思われない。彼らのなやみはベッドの不足よりも睡眠時間の不足である。>

<ボルチモアに暮らすようになってからまもなく、わたしは、奴隷の扱いかたが田舎で目撃したのとはまったくちがっていることに気づいた。都会の奴隷は、農園の奴隷にくらべれば、ほとんど自由人といってもよい。食事も衣服も上だし、農園の奴隷のまったく知らない特権もたのしんでいる。農園ではあたりまえみたいなおそろしい残虐な行為を抑制し阻止するのに役立つ礼儀ただしさと恥を知る意識がある。くるしみさけぶ奴隷の悲鳴で、奴隷をもたぬ近所の人たちの慈悲心にショックを与えるのは、手のつけられぬ奴隷所有者である。残虐な主人であるという評判につきまとう非難を自分からまねきたい人はほとんどいない。ことに、奴隷にたべものをろくに与えていないなどという評判はたてられたくないだろう。(中略)しかし、いたましい例外がいくつかある。わたしたちの真向かいのフィルポット通りに、トマス・ハミルトン氏が住んでいた。彼は二人の奴隷をもっていた。ヘンリエッタとメアリという名で、ヘンリエッタは22歳、メアリは14歳くらいであった。これまで見ためった打ちにされてやせ衰えた奴隷のなかでも、この二人ほどひどいのはなかった。(中略)メアリの頭も首も肩も、文字どおりずたずたに切り傷をうけていた。わたしはときどき彼女の頭にさわってみたことがあったが、残忍な女主人の鞭のためにできたただれ傷、ほとんど一面にあった。(中略)娘たちが彼女の前を通るたびに、「もっと早く動くんだよ、この黒んぼ女め!」とさけんでは、牛皮の鞭を頭といわず肩といわずにふりおろしては、ときに血を流させるのだった。そのとき彼女は「さあ黒んぼ女め、これでもお食らい!」といい、さらに続けて「もっと早く動かないと、わたしが動かしてやるよ!」というのだった。こんなふうにうける残忍な鞭うちにくわえて、この奴隷たちはほとんどいつも半分飢餓の状態におかれた。腹いっぱい食べるといことがどういうことか、彼(女)らはほとんど知らなかった。わたしはメアリが通りに投げ捨てられた残飯を豚どもとあらそって食べているのを見たことがある。あんまり蹴とばされたり切りさいなまれたりしたので、メアリは本名よりも「はじかれ娘」とよばれるほうが多かった。>

<わたしが採用した計画でいちばん成功したのは、通りで会った白人の小さい少年たちと友だちになることだった。出会った少年たちはみな先生にしてしまった。時間や場所はそれぞれちがっても、彼らの親切な助けで、わたしはついに読みかたをおぼえるのに成功した。使いなどにだされると、わたしはいつも本をもって出かけ、用をすばやくすませると、帰る前に時間を見つけて勉強した。わたしはまたよくパンをもっていった。パンはいつも家に十分あったし、わたしがいくら持ちだしても文句はいわれなかった。このパンについてだけはわたしは近所のまずしい白人の子供たちよりもずっと物持ちだったのである。このパンをわたしは腹をすかしている小さい子供たちによくわけてやり、そのお返しとして、もっと貴重な知識のパンをわけてもらった。(中略)わたしは少年たちとよく奴隷制度のことを話した。わたしも彼らと同じように大人になったら自由になりたいものだと、自分の気持ちをときどき口にした。(中略)こういうわたしのことばはいつも彼らをこまらせた。彼らはよくわたしにつよい同情をよせ、わたしを自由にしてくれる何かがおこるであろうという希望で慰めてくれた。わたしは今や12歳くらいで、一生奴隷なのだという考えがおもく心にのしかかりはじめた。>

<奴隷所有者はみな悪い人であるとはいえ、尊敬に値する性格の要素のひとつもない人に出会うことはめったにない。わたしの主人(オールド船長)などはもっとも珍しい例のひとりだった。(中略)彼の性格のなかの主要な特徴は、卑劣さだった。ほかの特徴があったとしても、みなこの性質に準じていた。彼は卑しかった。しかも、たいていのほかの卑しい男たち同様、その卑劣さをかくす器量に欠けていた。(中略)1832年8月、わたしの主人はタルボット郡のベイサイドで開かれたメソジスト集会に出席し、そこで宗教を経験した。この改宗が機縁になって彼が奴隷を解放するのではないか、もしまた開放しないにしても、とにかく今までよりは親切な人間的な主人になるのではないかというかすかな希望を、わたしはいだいた。だがこの両方ともわたしは失望した。(中略)彼の性格になんらかの影響があったとすれば、彼があらゆる点において今まで以上に憎むべき残酷な人間になったということである。わたしは彼が前よりもいっそう残忍になったと思う。改宗以前は、自分自身の性格の汚らしさにたよって、彼のむざんな残虐行為の楯とし遮蔽物としていたのに、改宗後は自分の奴隷所有の残虐な行為にたいして、宗教的な裁可と支持を見いだした。>

<わたしがそこへはいるすこし前までは、船大工は白人も黒人もいっしょに働いていて、ぜんぜん不都合を感じなかったらしい。職人たちはみんな満足していたようだった。(中略)万事うまくいっているようだった。と、とつぜん、白人大工たちが仕事を中止し、自由人の黒人大工とは仕事をしたくないといいだした。理由は、申したてによれば、もし自由黒人大工が奨励されれば、彼らはやがてこの商売を自分たちの手におさめてしまい、白人は気の毒にも失業してしまうだろうというのだった。(中略)仲間の見習いたちはやがてわたしといっしょに仕事をするのは屈辱だと感じはじめた。そして、気どって「黒んぼ」がやがて国を占領するだろうから、皆殺しにしなくちゃいけないなどという話をしはじめるようになった。>

著者のフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)は1817年(頃)、メリーランド州タルボット郡に奴隷の子として生まれる。1838年に逃亡奴隷としてマサチューセッツ州に逃れる。1841年8月に奴隷廃止集会に参加し初めてのスピーチを行ったあと、マサチューセッツ奴隷制度反対協会の専任弁士となる。またフレデリックも読者となっていた反奴隷制度新聞「リベレーター 」を刊行するジャーナリストで奴隷制度反対運動家のウィリアム・ロイド・ガリソンらと共に各地で演説を行なう。1845年、27歳(頃)のときに『ある黒人奴隷の半生』(フレデリック・ダグラス自叙伝 アメリカの奴隷)を出版。その他に『私の束縛と私の自由(屈従と自由)(My Bondage and my Freedom)』(1855年)『フレデリック・ダグラスの生涯と時代(Life and Times of Frederick Douglass)』(1881年)がある。奴隷廃止運動のための講演や1847年に創刊されその後16年間発行された新聞の編集者として活動のほか、南部の逃亡奴隷を自由州へ救出する秘密ルートである「地下鉄道」運動にも参加し、自らニューヨーク州ロチェスターの「駅長」となる。

フレデリック・ダグラス自身が体験し、見聞きした奴隷生活の描写は淡々としている。少年時代から農場と都市を転々とした奴隷生活の描写とエピソードが並べられる構成、しかも昭和38年の翻訳調は実に平坦である。しかし文字を教えてくれた優しい女主人(文字を教えただけで旦那に叱責され、その後優しい女主人は残酷な所有者に豹変する)、プアホワイトの少年たちとの交流から知識を得て、一度目の逃亡失敗のあたりからは急速に面白い展開になる。「船大工」は一度目の逃亡失敗後のエピソードなのだが、ここで黒人たちを排斥しようとし、ついに「皆殺し」まで口にする白人船大工たちは、12歳の黒人奴隷に同情し、フレデリックからパンを貰い、共に食べながら、「知識というパン」を与えてくれた貧乏な白人少年の将来かもしれない。農場での奴隷生活でも、「より残酷」に描かれているのは「金持ちの白人に雇われた白人」である。
「オールド船長」を語るエピソードは全編奴隷制度への憎悪と奴隷所有者への罵倒の連続。ここでは60年代の黒人解放運動のリーダーたちのスピーチに通じるリズムを感じる(1963年!の日本語訳はさすがに古臭いのだがさすがのリズム感)。

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