徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

2.26から3.11へ/『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』(2)

2013-11-08 02:59:23 | Books
戦後、青年将校たちの行動は、その若さと共に<純粋や情熱は視野の狭さや思慮の浅さと同義>とされ、多くの批評が加えられた。さらに教養主義の文化人らによって60年代の若者の季節においても、その<行動・理念への情熱>は否定的に語られ続けた。ある意味では当然の帰結だとはいえ、若さに基づいた<行動・理念への情熱>は疲弊し、屈折し、80年代を迎える。
『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』で福間氏は終章でこう書いている。

<「二・二六」の戦後史は、「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いていく歴史でもあった。(中略)それは、「情熱」「情愛」への陶酔にともない、いかなる思考が停止されるのかを問うものであった。しかし、八〇年代以降にもなると、こうした論点は消え去り、「情愛」のみが前景化するようになった。>(終章 戦後メディア文化の中の「ファシズム」)

その80年代からもすでに20年以上が経った。もはや2.26が語られることもまずない。
しかし<「情愛」のみが前景化>する状況はさらに進行しているといわざるを得ない。<情愛のみが前景化する>ということは、「物語」に陶酔し、思考停止することに他ならない。しかも状況は個人の「情愛」から国家という「情愛」――フィクションに首までどっぷり漬かっている状態というのが現代の日本である。
90年代に日本人が見た「何かの情熱」の典型例はきっと破滅したオウムだっただろう。
そして90年代以降「何かの情熱」すら見失ってしまった日本人が選び、「国家という情愛」を体現しているのがネトウヨ化した現在の自民党だろう。

一方でオレが希望を見出しているのは3.11以降の反原発運動や反レイシズム運動に現れた、もう決して若くはない人たちによる<行動・理念への情熱>の復権、である。
ここにはもはや若さで語られるような「陶酔」はない。若くないんだから当たり前である。
確かに<「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いてい>ったのかもしれないけれども、<行動・理念への情熱>に対する日本人のアレルギーはまだ根強い。正義を振りかざすことや主張を押し付けられることへの嫌悪は日常生活レベルで起こる。しかし、残念ながら正義は掲げられなければならないし、まず主張は互いに押し付け合うことから始まる。いくらアンタが嫌だって民主主義のコミュニケーションというのはそういうものなのだ。
本書の冒頭では現代の<変革願望>への疑問が投げかけられる。日本という社会が転換を迫られていることは確かで、日本人の選択は日替わりで迷走を続けている。
そして今「情愛」に浸るか、「情熱」で動くか、それが改めて問われている。

(追記)
ちなみにこれは決してクーデター待望論ではないので、アシカラズ。

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