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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊野神社は清盛が福原遷都にあたり、紀伊国の熊野権現を
王城鎮護の神としてこの地に祀ったのが始まりと伝えられています。

社殿は東向き、紀伊の熊野三山の方を向いています。

拝殿
平安末期、歴代の上皇は何度も熊野御幸を行い、熊野信仰が一つのブームとなっていました。
後白河上皇はは34度、清盛、重盛(清盛の嫡男)らも度々参詣しました。
清盛が安芸守を務めていた若いころ、伊勢湾の安濃津(津市)から海路で参詣の途上、
船の中に大きな鱸が躍り込んで出世のご利益にあずかったという
エピソードが『巻1・鱸』に書かれています。

清盛の根強い熊野信仰は、福原でも忘れずに熊野権現を勧請したようです。
わずか半年で都は京へ移りましたが、
神社は今も夢野の権現さんとして親しまれています。






手水舎



伝承では清盛の弟平教盛の邸宅は、熊野神社の近くにあったといわれています。
後白河法皇が幽閉された萱の御所跡の碑が薬仙寺にありますが
実際の「萱の御所」の位置は、夢野の教盛邸とする説が有力とされています。

 
熊野神社(ごんげんさん)
ご由緒
平清盛が福原(現神戸市)遷都に際し後白河法皇が

ご崇敬の厚い紀州熊野権現を皇城鎮護の神として東向きに
奉鎮したと伝えられており爾来当夢野の住民が産土神(うぶすながみ)として
崇敬祭祀今日に至ったものであります。
・権現とは仏教渡来以来、崇高且ご神徳の高い神々様の称号です。


ご祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)

ご神徳 事業創設 殖産工業の祖神
    縁結び・福徳延命
ご祭礼   例祭 五月八日 宵宮祭 九日例大祭
         秋祭 十月八日 宵宮祭 九日秋季大祭
総祈祷祭   一月十六日
                  氏地地域内の安全家運隆昌祈願祭
       月例祭  毎月 一日、九日、十五日
『アクセス』
「熊野神社」神戸市兵庫区熊野町3-1-1
JR・阪神・阪急「三宮駅」より市バス⑦にて夢野町二丁目で下車 西へ徒歩5分
『参考資料』
「兵庫県大百科事典」(上)神戸新聞出版センター
 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
 
 
 
Unknown (kuniko/asai)
2015-07-02 14:12:58
 わずか半年で都に戻られたのでは、せっかく勧請された熊野権現様もお席に落ち着くいとまもないままだったのですね。
このあと続くのですよね、平家衰退の道。
私が関わっている日本音楽の祖は、平曲を語る琵琶法師にあるため、これまでも盲僧の歴史までは調べていましたが、その元になる平家物語にまではなかなか敷居が高くて!
おかげさまでこちらを拝読しては学ばせていただいけて感謝しています。ありがとうございます。





 
 
 
「幻の琴師」拝読いたしました。 (sakura)
2015-07-03 14:33:46
箏曲普及活動の傍ら執筆された歴史小説が泉鏡花記念
金沢市民文学賞受賞。
綿密な調査に裏打ちされた作品は、参考にさせていただくところが多くありました。
こちらこそありがとうございました。

倶利伽羅峠で大勝した木曽義仲に追われ平家一門都落ちの時、
福原の邸や御所に火をかけて西海へ落ち延びましたが、
清盛が勧請した社寺だけは何とか残ったようです。

やがて勢いを盛り返して一ノ谷に拠点を構え、
そこで起こったのが一ノ谷合戦です。
この合戦で敗北が決定的となり、平家の命運は尽きてしまったといってもいいようです。
 
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