昨日のブログを見て、「佐世保空襲資料室」について少し教えてほしいというメールを頂いた。
喜んで、ご紹介します。
その名の通り、資料館ではなく、資料室。
廃校となった小学校が「させぼ市民活動交流広場」として再利用されることになり、
その一室を使って2年前の12月8日にオープン。
「佐世保空襲を語り継ぐ会」が管理運営しているという。
土・日だけの開室で、同会の会員の方々が交代でガイドボランティアをなさっている。


入口をはいると、案内板があり、指示に従って2階への階段を上る。
階段の踊り場あたりから、すでに様々な資料が展示されている。
これらは、小学校の平和学習で作成されたもののようだった。
(長崎県には「平和学習」というカリキュラムがあって、教員の役割分担の中に「平和学習担当」というのがあるんですよ!素晴らしいですね!)
教室に入ると、まず、「武運長久」と書かれた大きな日の丸が目に入った。
そして、軍服やモンペ、防災頭巾など当時の衣類。鍋、釜、へこんだ水筒、炒り米などの食料、火たたき、電球にかぶせる黒い布等々、当時の生活が想像できる品々が置かれている。


空襲に関するものとしては、犠牲者の数や氏名、焼失面積、投下された焼夷弾の数などの数値的なデータ、体験者の手記、当時の写真などなど。


写真は、ほとんど米軍兵士によって撮られたものらしい。
市街地がほぼ全滅の焼け野原、写真を撮ろうにも市民にはフィルムも機材も何もなかったという。
6月に空爆を受け、8月の敗戦、そして米軍が佐世保入りしたのは9月下旬。
つまり3ヶ月後に撮られた写真だが、そこに写った佐世保の姿は、まるで昨日爆撃されたかのように廃墟同然だった。



空襲以外の資料もいろいろあり、特攻兵士の父母に宛てた遺書もあった。
細筆で書かれたその字のなんと美しいこと!

また、珍しい卒業写真集があった。
「第5期予備補修生記念写真帳」と書かれたその一冊は、とてもりっぱな写真集だった。
班ごとに撮られた同窓生の写真、胸から上の一人ひとりの写真、その他多くのスナップ写真。
体操をしているところ、銃を構えているところ、手旗信号の練習をしているところ、食事の様子、寝ているところ(なんと、ベッドではなくハンモック!)等々、当時の海軍兵学校の様子が垣間見れ、興味深かった。

が、一番驚いたのは、最終頁に記された「検閲済み」の文字。長崎要塞司令部によるものだった。

米軍が撮った佐世保市民の多くの写真は、兵士に群がるこどもたち。チョコやビスケットを求めて。
あるいは、兵士と楽しそうに話している若い女性たち。
そんな中で、印象的だった1枚の写真。
赤ん坊を背負った女の子と兵士。
彼女は口をきゅっと結び、兵士の方は見ず、横を向いている。
状況は全く違うが、「焼き場の少年」の写真を思い出してしまった。
そして、その凛とした女の子と幼子を見つめる兵士の眼差しのなんと穏やかなこと!

写真の下には、「女の子と友達になったジェームズ隊員」という説明文がついていた。
兵士も一人一人は、本当は優しい普通の庶民なんだ。
そんな優しい人間でも、戦場では鬼にも獣にもなってしまうのだろう。いや、ならざるを得ない。
それが、戦争…。
そんなふうな思いを胸に教室を出ると、そばの廊下に、小学生の子供たちが平和学習で学びとった結論のようなものが掲げられていた。
戦争って⇔差別・暴力
平和って=人間愛・愛は知ることから始まる
すごいなあ・・・脱帽!
そして、「平和の木」があった。


喜んで、ご紹介します。
その名の通り、資料館ではなく、資料室。
廃校となった小学校が「させぼ市民活動交流広場」として再利用されることになり、
その一室を使って2年前の12月8日にオープン。
「佐世保空襲を語り継ぐ会」が管理運営しているという。
土・日だけの開室で、同会の会員の方々が交代でガイドボランティアをなさっている。


入口をはいると、案内板があり、指示に従って2階への階段を上る。
階段の踊り場あたりから、すでに様々な資料が展示されている。
これらは、小学校の平和学習で作成されたもののようだった。
(長崎県には「平和学習」というカリキュラムがあって、教員の役割分担の中に「平和学習担当」というのがあるんですよ!素晴らしいですね!)
教室に入ると、まず、「武運長久」と書かれた大きな日の丸が目に入った。
そして、軍服やモンペ、防災頭巾など当時の衣類。鍋、釜、へこんだ水筒、炒り米などの食料、火たたき、電球にかぶせる黒い布等々、当時の生活が想像できる品々が置かれている。


空襲に関するものとしては、犠牲者の数や氏名、焼失面積、投下された焼夷弾の数などの数値的なデータ、体験者の手記、当時の写真などなど。


写真は、ほとんど米軍兵士によって撮られたものらしい。
市街地がほぼ全滅の焼け野原、写真を撮ろうにも市民にはフィルムも機材も何もなかったという。
6月に空爆を受け、8月の敗戦、そして米軍が佐世保入りしたのは9月下旬。
つまり3ヶ月後に撮られた写真だが、そこに写った佐世保の姿は、まるで昨日爆撃されたかのように廃墟同然だった。



空襲以外の資料もいろいろあり、特攻兵士の父母に宛てた遺書もあった。
細筆で書かれたその字のなんと美しいこと!

また、珍しい卒業写真集があった。
「第5期予備補修生記念写真帳」と書かれたその一冊は、とてもりっぱな写真集だった。
班ごとに撮られた同窓生の写真、胸から上の一人ひとりの写真、その他多くのスナップ写真。
体操をしているところ、銃を構えているところ、手旗信号の練習をしているところ、食事の様子、寝ているところ(なんと、ベッドではなくハンモック!)等々、当時の海軍兵学校の様子が垣間見れ、興味深かった。

が、一番驚いたのは、最終頁に記された「検閲済み」の文字。長崎要塞司令部によるものだった。

米軍が撮った佐世保市民の多くの写真は、兵士に群がるこどもたち。チョコやビスケットを求めて。
あるいは、兵士と楽しそうに話している若い女性たち。
そんな中で、印象的だった1枚の写真。
赤ん坊を背負った女の子と兵士。
彼女は口をきゅっと結び、兵士の方は見ず、横を向いている。
状況は全く違うが、「焼き場の少年」の写真を思い出してしまった。
そして、その凛とした女の子と幼子を見つめる兵士の眼差しのなんと穏やかなこと!

写真の下には、「女の子と友達になったジェームズ隊員」という説明文がついていた。
兵士も一人一人は、本当は優しい普通の庶民なんだ。
そんな優しい人間でも、戦場では鬼にも獣にもなってしまうのだろう。いや、ならざるを得ない。
それが、戦争…。
そんなふうな思いを胸に教室を出ると、そばの廊下に、小学生の子供たちが平和学習で学びとった結論のようなものが掲げられていた。
戦争って⇔差別・暴力
平和って=人間愛・愛は知ることから始まる
すごいなあ・・・脱帽!
そして、「平和の木」があった。



お母様から空襲前の佐世保の街のこと、いろいろお聞きになっていらっしゃいますか?
機会がありましたら、是非「佐世保空襲資料室」をお尋ねになって下さい。
そして係の方と情報交換なさったら、お互いに何か得るものがありそうですね。