佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

NHKは電力会社がお好き?

2011-07-31 | さよなら原発

週刊金曜日によると、NHKが保有する債券の上位5社がすべて電力会社。

合計で374億円。そのうち東電は145億円ですって!

1位 東京電力

2位 中部電力

3位 関西電力

4位 中国電力

5位 東北電力

 

これじゃあね~

NHKの報道力に期待できないわけですね・・・

 

今日は忙しい一日でした。

 

午前11時~12時、アーケード街で、「石木ダムは要りません」のチラシ配り。

 

12:30~13:15まで、中部地区公民館で、「希望紡いで」の歌の練習。

来月佐世保で開催される、ひきこもりの全国大会で、この歌を皆さんと歌います。

今日は100名近い実行委員の皆さんと、私たち「うたごえふれんど」と、

一緒に少しだけ練習しました。

 

 

13:30~佐世保市水道局主催の「水の日」のイベントを「見学」 

詳細はこちらをご覧になって下さい。

http://blog.goo.ne.jp/hotaru392011/d/20110731

 

明日からは、私たちの『水の日』イベントです。

早めに寝よ~っと。

 

 

 

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今やるべきことは

2011-07-30 | さよなら原発

児玉教授の国会での発言が、日本中を駆け巡っている感がする。

 

事故発生当時の頭真っ白、オロオロドキドキ期間が過ぎて、

メルトスル―だのセシウムだのの情報にも耳が慣れきって、

でも、政府の言うこと、電力会社の言うこと、学者や評論家の言うことは

皆ばらばらだし、よく理解できないし、

誰の言葉を信用すればいいのか…

そのうち聴く気も失せていって、

実際の状況はますますわからなくなって…

いったいこの先日本はどうなるんだろう?

私たちの生活はどうなっていくんだろう?

と、不安感は相変わらずどーんと居座っていた人が多かったんじゃないかな~

 

だから、児玉教授の明快な説明に、みんな喜んだ。

目の前の靄が晴れて、周りの景色が見えた。

そうしたら、進むべき道も見えてきた。

そんな感じで、心が軽くなったのだと思う。

私もそんな一人。

 

昨日まで私は児玉教授の存在も知らなかったけれど、

首都圏ではマスコミにも登場なさっていたのかな?

7月1日、朝日新聞茨城版に記事が載っていました。

http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001107010005

27日の国会発言とほぼ同じ内容ですが、より易しく書かれているので、

要点をご紹介します。

 

福島原発事故は広島原爆20個分の放射性物質を飛散させた。

もはや「どこが安全か」という議論をしている時ではない。

線量をきめ細かく測り、高い所から表土を取り除くなど効果的に除染することが急務だ。

高濃度の場所は、県全体でも自治体の中でも、個々の校内でも存在する。

例えば、福島県内の、平均で毎時0・5マイクロシーベルトの幼稚園で、

雨どいや滑り台の下などは5~10倍になった。園内にミニホットスポットが存在する。

幼いほど放射線の影響を強く受けるので、

除染の優先順位が高いのは保育園と幼稚園だ。続いて小中高。

子どもが接触する所の除染を急ぎ、各地域、各施設で安心できる空間をつくる。

妊婦や病気の人にも放射線がかからないよう努める。

室内を毎時0・1マイクロシーベルト以下にするのが目安だ。

測定は園内をなめるように詳しく見ること。

線量計を持って回れば高い場所は簡単にわかる。

各地域で園や学校の先生方が担うほかないとすれば、講習などで学んでいく必要がある。

3月15日に大量飛散した物質でも土壌を5センチ削れば大半が取り除ける。

低い線量による内部被曝(ひ・ばく)の危険性も直視しなければならない。

福島で母乳からセシウムが1リットルあたり2~13ベクレル出た。

チェルノブイリ原発事故で長期被曝が前がん状態を作り出したという研究報告と同レベル。

異常な事態だ。

食品の放射線量をチェックすることも極めて重要だ。

除染に関する現行の法体系は、今回の実情と合っていない。

子孫への責務を果たすためにも、関係者が総力をあげる必要がある。

 

政府は至急、大量の線量計を地元に配布して下さい。

食品放射線量チェック機も、地元を中心に全国に配備して下さい。

国会は、各分野の専門家やボランティアが結集して検査や除染に当たれるよう、

法整備を早急にお願いします。

 

そして、私たちは、

そんな要求を地元の国会議員事務所や内閣府に電話やメールで伝えたり、

新聞の声の欄に投稿したり、

メールやブログやツイッターで発信したり・・

何でもいい、できる形の行動をおこしたいですね。

 

家族や友だちと、この話題について話してみるのも、その一つ。

何もしなければ、何も変わらず、

傷はどんどん拡大する。

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国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦東大教授

2011-07-29 | さよなら原発

2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦

 

ぜひクリックしてください。

放射能に汚染された現在の状況を

熱く、わかりやすく、怒りを込めて解説し、

今すぐ国がなすべきことを、具体的に、明確に提案なさっています。

 

27日に開かれた衆議院厚生労働委員会での参考人説明の様子です。

こんな教授が国立大学にいらしたんですね…

 

でも、この映像はテレビでは流れなかった。

この貴重な話を私たちは聞けなかった。

なぜ?

 

しかし、マスコミが流さなくても、ネット網のおかげで、私たちは知ることができる。

いつも大切な情報をいち早く送ってくれる友人に感謝。

そのメールをもらった数時間後に、

別の友人が、児玉教授の息子さんの呟きを教えてくれた。



◇Twitter / @a_kodama:
http://twitter.com/#!/a_kodama/status/96627244876840961
親父のスピーチを見ていただいた方に、一つだけお願いさせてください。父は影響力のある科学者ですが、同時に病気の妻を抱えた58歳のただの男です。一人ですべてを解決できるわけではありません。本当に状況が良くなるために、一人一人ができることがあると思います。

そして、彼女は自分のブログで呟いていた。

一年前に奥様に肝臓移植をなさったのだそうです。
息子さんの温かい言葉。
素敵なご家族ですね。

 

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御橋観音の洞窟

2011-07-28 | 佐世保・長崎

やっと辿り着きました!

この景色です。

これを見たくて、この空間に立ってみたくて、

先日、暑い暑い昼下がり、新聞片手に吉井町まで出かけました。

 

その新聞は、5月28日の日付。

長崎新聞11面の上半分に、そっくりの写真が載っていました。

 

     さぁ “無垢の自然” へ。

     まだ知らない歴史がある。

     まだ感じたことのない心がある。

     ここは佐世保 ―。

     無垢の自然がある場所。

 

素敵な写真と誘い文句に魅せられて、大事にとっておいたのです。

新聞によると、この素晴らしい景色は、「御橋観音」のお寺の奥に見られるという。

夫は渋々アッシー君になってくれてナビにセット。車はスムーズに目的地に到着。

少し手前にある広い駐車場に車を止めて、観音堂へ。

ところが、どこにもそれらしい景色が見当たりません。

車でお寺の横の坂道を登っていったり、

出会った2組の家族連れに、新聞を見せて「この辺にこんな景色ありませんか?」と尋ねても、

「さぁ~、わかりませんね~」と首を横に振るばかり。

結局観音堂の中に入って住職さん?にお聞きして、やっと判明。

教えられた通りに進んでいくと、奥まったところに古い本堂があり、その裏手に石段が見えてきて、

その石段を半分くらい登ると、この景色が突然現れた!

 

登りきったところは、洞窟というより、まるで自然が造った野外音楽堂のよう。

周囲の半円を大きな岩で囲まれ、見上げると、やはり大きな石の天井。

その天井は浸食により橋のように細くなって、青い空がぽっかり覗いている。

開けたステージのような部分に立って声を出すと、

思った通り、よく響く。

最高の音響だ!

 

そして、周りを見渡すと・・・

緑の中に点在する観音様や石仏。

20~30cm高さの小さな石仏が、崖のあちこちに見え隠れしている。

いいなぁ。

立派なお寺に安置された金箔の仏像や、奈良や鎌倉の巨大な仏像にはあまり興味を感じなかったけれど、

こんな仏像ってなんだかいいなぁ・・。

 

さて、この周辺はシダの群落地としてたいへん貴重で、

なんと、国の天然記念物に指定されているらしい。

本当に緑の美しいところでした。

 

お寺の少し下には小さな池もあって・・

木漏れ日が反射して・・うっとりです。

 

佐世保の皆さん、ご存知でしたか?

穴場ですぞ。

街の暑さも喧騒も嘘のようなこの場所へ、

夏バテしそうになったら訪れてみては?

きっと、体も心も元気になると思います。 

 

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広がり続ける放射能汚染

2011-07-27 | さよなら原発

ホウレンソウなど葉物野菜から始まって、緑茶、牛乳、水道水まで、

いろんな食品、飲み物が、放射能に汚染され廃棄された。

いま連日新聞紙上で目にする「汚染稲わら」

それを食べて汚染された「汚染牛」

その食肉は全国いたるところのスーパーで売られていた。

もう私たちは、放射能汚染からは逃げられないのかもしれない…

 

友人から送られてきたアドレスをクリックすると、出てきたのはスーパーで買ったジャガイモ。

http://lockerz.com/s/121826770

 

その袋に張られた「長崎県産」のシールを剥がすと

http://lockerz.com/s/121827045

 

現れたのは、「千葉県産」の文字の跡。

http://lockerz.com/s/121826140

 

以前からやられていた産地偽装ですが、

怒りよりも、何だか憐れを感じてしまいました。

 

一方で、こんな報道を知り、激怒!!

自民個人献金、72%が電力業界 09年、役員の90%超

自民党の政治資金団体「国民政治協会」本部の2009年分政治資金収支報告書で、個人献金額の72・5%が東京電力など電力9社の当時の役員・OBらによることが22日、共同通信の調べで分かった。当時の役員の92・2%が献金していた実態も判明した。電力業界は1974年に政財界癒着の批判を受け、企業献金の廃止を表明。役員個人の献金は政治資金規正法上、問題ないが、個人献金として会社ぐるみの「組織献金」との指摘が出ている。福島第1原発事故を受け、原子力政策を推進してきた独占の公益企業と政治の関係が厳しく問われそうだ。2011/07/23 02:02   【共同通信】

 

 

長年、政権の座に居座ってきた自民党さん、

あなた方が原発推進してきた理由がよーくわかりました。

長年、莫大な献金を続けてきた電力会社役員の皆さん、

あなた方がいかに大金持ちかよーくわかりました。

そのお金を稼ぎだしてくれた原発が大事故を起こした今、

東電役員さんたちの資産の大部分は、

犠牲となった地域住民のために、当然差し出してくださいますよね?

 

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2011夏の旅 鳥取砂丘

2011-07-18 | 

 17日午後、埼玉を出て、帰路に。

もちろん、まっすぐには帰りません。

ここは、どーこだ?

 そう、鳥取砂丘です!

佐用インターの手前のパーキングで仮眠して、

夜明けとともに鳥取砂丘へ向かいました。

 

予想を超える広さにうっとり…

まさに砂の丘ですね。

その砂丘の上に、そり残したヒゲのようにポツポツ見えるのは人です。

あの丘をめざして私も歩き出しました。

歩き出してすぐに足元は砂だらけ。

で、サンダルを脱ぎ、裸足になりました。

わー!気持ちいい!

曇りの朝8時、砂はまだひんやり感が残っていて、細かい粒子が最高の足触り!

 

いま私は地球の上に立っている。

大地を踏みしめ歩いている。

足の裏からそんな感触が伝わってきて、何だか楽しい。

 

遠くに見える4つの点々にズームインすると…

砂の上に寝そべってた子どもたちでした。

気持ちよさそ~

仲間に入れてーと言いたいけれど、あそこまで行く元気はない…

 

丘の上から、しばし日本海を堪能。

次に向かったのは・・・

ここ、因幡の白ウサギで有名な「白兎神社」です。

鳥取砂丘から西へ少し走ったところにあります。

 

参道の両脇に並んでいる、石の兎の像は、顔やポーズがそれぞれ違っていて面白い。 

社殿の手前右側には、因幡の白兎が体を清めたと言われる「御身洗池」があったけれど…

今では、茶色に濁った、沼のような池でした。ここで身を洗ったら、傷はさらに悪化しそう。。

参道は砂地で、なぜかミミズの死骸がいっぱい。

近づいてみると動いているのもいて、

それからは、踏んづけないよう足元ばかり見て歩きました。

 

さて、 白兎神社を出て、車は西へ。

国道9号線を、島根県に向かいました。

道路わきにはたくさんの風車が見えます。

鳥取県は、風力発電が盛んなようです。

あちこちで見かけました。

日本海から吹き付ける風が相当強いのでしょう。

そんな地域の特性を生かしたエネルギー開発が、どんどん進めばいいな~

電気も地産地消の時代です。

 

米子市を抜け、境港市に着いた頃、ちょうどお昼となりました。

美味しい魚料理を求めて境港市場へ。

大漁市場「なかうら」の玄関には、屋根より高い「鬼太郎」が立っていて、

反対側には「ねずみ男」、地面には「ぬりかべ」が・・・ 

鬼太郎の生みの親の水木しげるさんは、境港の出身だったのですね。

 

新鮮なカニやエビがたっぷりの美味しいお昼ごはんが食べられて、満足満足。

再び車に乗り少し走ると橋があり、その橋を渡ると、そこはもう島根県の島根半島!

 

パンパカパーン!おめでとう!

これで47都道府県の旅、達成でーす

 

と、一人心の中で満足したけれど、もう午後1時を過ぎている、

今日中に佐世保に帰るにはのんびりしてはいられない。

この近くで見るべきところは…

ありました。メテオプラザに鎮座まします「美保関隕石」

46億年前、太陽系の誕生とともに発生した母星から6100万年前に生まれ出て、

長い間宇宙を旅して、1992年12月、この美保関町のある民家に落ちてきた隕石です。

(でも、なんで6100万年前に生まれたってわかるんだろう???)

 

そんなに長い間宇宙を旅して日本に辿り着いたということだけでも奇跡的なのに、

もっとすごい奇跡がありました。

それは、この隕石が、「直方隕石」と双子だったってこと。

861年、福岡県の直方市に落下した隕石と、鉱物組成がそっくりで、

同じ母星から生まれた双子の隕石だとみられるとのこと。

6100万年も宇宙を漂って、わずか1100年の時間差で、同じ日本列島に落ちてくるなんて…

それこそものすごい奇跡と言うか、運命と言うか・・

ロマンだなぁ~

 

しかし、

それを語ってくれた大スクリーンの解説映像を見てたのは、私一人。

広い大きな部屋に、人影は誰もなく、

たくさん並んだ椅子に一人腰掛け、私だけのために流される映像を申し訳ない気分で見てました。

上映が終わって、案内通り奥に進むと、

ケースに閉じ込められ、スポットライトが当てられた、あの隕石にご対面。

その部屋を出ると、解説パネルがズラリと並んでいて、

じっくり読みたいところだが、車の中で待っている夫がしびれを切らす頃。

足早に車へ戻りました。

 

さあ、次の目的地は?終点の佐世保です。

米子自動車道から中国道へ。

西へ西へ。

夕日を追いかけひた走る。

 

そして、午後11時少し前、無事帰宅。

約3500kmの旅。

お疲れ様でした。

一週間、走り続けた車と夫に感謝です。

時々、いえ、度々、居眠りしてゴメンナサイ… 

 

 

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2011夏の旅 那須

2011-07-16 | 

 懐かしの新座市です。

この町で30年暮らしていました。

何にもないベッドタウン、「埼玉都民」と呼ばれた私たちでしたが、

住めば都、たくさんの楽しい思い出も詰まっています。

 

が、その新座に居たのも15日一日だけで、

翌日は、那須へ。

 

那須には従姉が住んでいます。

彼女の夫が今年の3月末に亡くなりました。

ちょうどその頃、私の母も緊急入院したところだったので、

葬儀に参列することもできず、心からの弔意を伝えるのみでした。

 

16日は三連休の初日で、東北道の渋滞はしっかり覚悟して出かけましたが、

予想したほどではなく、少し早めに高速を降りました。

ところが、降りてからがびっしり!

涼しい行楽地を目指す人々が、東北を避けて那須高原に殺到したのでしょうか?

 

こちらも林に囲まれた別荘地。

ナビの誘導はあてにならず、しかもおよそ7年ぶりで、記憶もあいまい。

ずいぶん迷いつつも、なんとか自力で到着。

 

従姉は、今は広すぎる家に、3匹の犬と共に暮らしていました。

いえ、もう一人いました。

亡くなった夫です。

百箇日も過ぎたのに、まだ納骨もせず、その家に彼は居ました。

 

建築家の彼と自分の二人だけで建てた大好きな家に、もう少し居させてあげたい、

せめて一年くらい経ってから納骨したいとの彼女の思いでした。

 

二人は、埼玉に居る頃から毎週末那須に出かけ、基礎工事から始めました。

そのうち西那須野に引っ越し、そこから通って大工見習いになったり、左官見習いになったりして、

何年もかけて造った家です。

東京六本木の建築会社に勤める彼は、平日は新幹線で出勤していました。

 

無口で優しい人でした。

癌で入院していましたが、4月1日には退院の予定だったそうです。

退院したら、私の母のお見舞いに行きたいと言っていたとか・・

でも、あの3・11の大地震で病院も半壊、

避難所を転々とさせられたのがたたったのか、わずか半月ほどで帰らぬ人となってしまいました。

その彼が亡くなって10日ほどして、母も逝ってしまいました。

 

母は、意識が朦朧となってからは、姉や私のことを「ヒロちゃん」と呼んでいました。

従姉の名前です。

従姉の母親は料理屋をやっていて、子育てができないくらい忙しかったので、

自分の妹に、その世話を頼みました。

その妹が私の母です。

まだ子育ての経験もない少女時代で、きっとおろおろしながらも

一生懸命頑張ったのでしょう。

母の子育ての記憶は、自分の娘たちよりも、姪のヒロちゃんの方が強烈に残っていたのです。

 

「お願い、ヒロちゃん、家に連れて帰って!」

「ヒロちゃん、どうしてこんな仕打ちをするの?」などと言われると、

娘としては、ちょっとやるせないような・・

でも、自分自身が責められているのではないような錯覚も得られて、

間違いを正すことはしませんでした。

 

ヒロちゃんも、母のことをずっと「姉ちゃん、姉ちゃん」と言って慕ってくれてましたので、

母の最期に会えなかったことをとても残念がってくれました。

 

帰る前にもう一度、仏壇に手を合わせ、祈りました。

 

お兄さん、

ヒロコ姉さんを守ってね。

もう、家族と呼べる人は誰もいなくなったんだもの。どんなに寂しいでしょう。

武蔵と佐助と十兵衛がついているけど、あまり頼りになりそうもないし・・

 

お兄さんと同じで、

那須が大好きなヒロコ姉さんのために、

ずっと那須の風と光になって、ヒロコ姉さんを包んであげてね・・  

 

 

 

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2011夏の旅 安曇野・碌山美術館

2011-07-14 | 

三十年ほど前、夫の友人の結婚式に招待され、初めて訪れた安曇野。

実は今、その友人が癌と闘っていて、彼を見舞うことが、今回の旅の目的でもありました。

その道すがら…

 

あのとき、ナントカって美術館に行ったよね。

中は覚えてないんだけど、建物が素敵で、小さくて、レンガ造りで、蔦が絡まってて・・・

美術館と言うより、まるで教会のような・・・

 

と説明しても、夫はまるで記憶がなく、

誰か他の人と行ったんじゃないの~

と疑いの眼・・・

 

記憶力の悪さに関しては、かなり自信がある私。

勘違いだったかなぁ・・と思っているうちに病院に到着。

 

もしかしたら、もう友だちのこともわからなくなっているかもしれないと言われていたのに、

彼は夫をすぐに認識し、涙を流して喜んでくれました。

しかも顔色も良く、日焼けした精悍な顔つきは昔のままで、病人には見えないくらい。

 

奥さんの話では、数日前まで、子どもたちの顔さえわからなかった、

痛み止めの薬の副作用で意識が朦朧としていた、

それで、脊椎の周辺にカテーテルを通し薬を注入する治療法に変えたばかり。

やっと意識がはっきりしてきたという。

 

私たちは、とても幸運だったのだ。。

確かに、病室にはオムツの匂いが漂っていたし、

(それは、元気そうに見える彼がトイレにも行けない状態であるということで)

一言二言話しては、目を閉じてじっとしているし、

(会話さえ、かなりのエネルギーを消耗しているということで)

時々流れる涙を、奥さんがそっとティッシュで吸い取ってあげていた。

(奥さんは、お顔も話し方も、とても優しそうな方だった)

その奥さんに、怒った様な口調で、

「ほら、あそこの携帯を取って!」と彼が言った時はびっくりした。

指差す方向には何もなく、ただ白い天井が・・

彼には携帯とそれが置かれている棚が見えるのだろう。

 

その彼に、美術館のことを訊いてみた。

「ああ、そうでしたね。あの時そばを通ったので紹介しましたが、中には入らなかったですよ。

後で散歩がてらに来ればいいと言ったように思います」

 

長居は病人の体に障るので、後ろ髪を引かれる思いで、病院を後にしました。

そしてまっすぐに、碌山美術館に向かったのです。

そうそう、この建物でした!

  

入口を入ってすぐ正面の木陰に、ひっそりと置かれているのは、『労働者』

もちろん、碌山の作品です。

 

そう、碌山は彫刻家、本名は荻原守衛と言います。

ここ安曇野の出身で、初めは画家志望だったのですが、

パリ留学中に、ロダンの『考える人』に出会い、彫刻に目覚めます。

25歳のときでした。

それからわずか3年で『坑夫』を製作。

高村光太郎など多くの美術家が絶賛する彫刻家碌山が誕生し、

以後、次々と作品を発表。

しかし、それから2年後の明治43年、わずか30歳の若さで永眠しました。

館内に展示された作品を見れば見るほど、「惜しい!」との思いが込み上げてきます。

 

絵も彫刻も何もわからない私ですが、碌山の彫刻には惹かれました。

ぐいぐい引き寄せられます。

「銀盤」や「文覚」「爺」など、思わず見入ってしまいました。

文覚(もんがく)=1908年夏製作

 

特に驚いたのは、「北條虎吉像」=1909年製作

そばで見ると、まるで生きているようで、今にも瞬きして、何か語り出しそうです。

 

碌山美術館は、教会形の碌山館の他にも、杜江館、第一展示棟、第二展示棟など

素敵なレンガ造りの建物があり、中庭にはこのようなベンチと緑が点在。

どうぞ、ここで一休みして、また次の棟の作品をじっくり鑑賞していってください。

とでも言うかのように。

碌山を誇りとし、碌山をこよなく愛する地元の人々の思いが伝わってきます。

 

ここでも後ろ髪を引かれながら、次の目的地、山梨県北杜市へ。

三年前八ヶ岳山麓に移住した友人のMさんを訪ねました。

林に囲まれた別荘地は、目印になるものがなく、三度目なのにまた道に迷ってしまった・・

Mさんが途中まで迎えに来てくれて、やっとこさ到着。

 

互いの子どもたちの話(子どもたちが小学校時代のPTAで出会った仲なので)、

原発の話、平和の話、いま住んでいる町の話(山自慢、海自慢)などなど、

積もる話は尽きないけれど、あっという間にお別れの時間。

今日三度目の後ろ髪引かれながら、緑深い山麓を後にし、

今度こそ一路埼玉へ・・・

 

 

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2011夏の旅 奈良井宿と木曽村

2011-07-13 | 

リタイヤした者の特権は、好きな時に好きな旅ができること。

と思っている夫は、いつも突然、旅行に行こうと言い出す。

が、二人の予定を突き合わせると…12日に出かけるしかない!と決まったのが10日の昼。

 

10日は3時間の睡眠、11日はほぼ徹夜で急ぎの用事を何とか片付け、

12日朝から旅行の準備、12:30からの歯科治療を済ませ、

やっと午後2時に佐世保をしゅっぱーつ!

 

車に乗ると元気な夫は、ノンストップで九州を脱出し、中国自動車道をひた走る。

運転のできない私は、助手席でひたすら眠気を我慢。

 

まっすぐ埼玉に向かう予定だったが、急きょ、長野に寄ることに。

名神自動車道から中央自動車道に入った頃は、もう記憶も定かではなく、

目覚めると、そこは、恵那峡SA。

 

朝の空気は美味しくて、空の青さがまぶしくて・・

元気もりもり!

一路、奈良井宿へ!のはずが、

途中見かけた「天竜川下り」の看板につられて、つい寄り道。

 

ぎょぎょ!

この色は何?どうしたことでしょう?

青い絵の具に灰色の絵の具を混ぜたような…

川底は全く見えません。

天竜川っていつもこんな色?

天竜川にはダムが多いって聞くけど、もしや、その影響でしょうか?

 

すぐそばに川下りの船が3隻もやってありましたが、濁った川下りなんてやるのかな・・

と思っていたら、3人の船頭さんたちがやってきて、

ゴザを敷いたり、座布団を置いたり、テキパキと手際良く準備を始めました。

まだ8時少し前だけど、きっと団体さんの予約でも入っているのでしょう。

 

もと来た道を戻って駐車場へ。

さあ、奈良井宿へ~

 

道路に沿った並木の緑も美しいけれど、反対側のリンゴ畑もいい感じ

で、車を止めて、またまたちょっと寄り道。

近づいてみると、樹木の1本1本に名札が…

この木になる実は、大阪の松原中3年生の皆さんのお口に入る予定のようです。

今は緑の小さなリンゴたち。

大きく真っ赤に育って、育ち盛りの子どもたちにガブリとかじられてね~

と思いつつ、よくよく見ると、実も葉っぱも、白い斑点が・・

農薬?消毒液?の乾いた後でした。

やっぱり、ガブリとかじるのはよして、皮をむいてカットして食べたほうがいいみたいですねぇ

木陰の下草が、サンダル履きの私の足を濡らします。

その朝露に木漏れ日が当って、まるで宝石のよう…。

 

もう1ヶ所寄り道をして、11時少し前、やっと奈良井宿に到着!

朝から何も食べてなかったので、まずはお蕎麦屋さんへ直行。

蕎麦アレルギーの私は、もちろんうどんを頼みました。

ちょっと濃いめの味でしたが、うどんも美味しかったです。

 

お腹を満たしてから、ゆっくりウインドショッピング。

実は、そこが名高い宿場町だということ、ほんの数分前に知ったばかり。

夫が「ナライジュクへ行く」と言うので、

何かの習い事をする塾のことかと勘違いしてた私。

歴史にも地理にも疎い無知ぶりを、思いっきり笑われてしまいました。

それにしても、素敵な町並みです。

 

こちらのお蕎麦屋さんは定休日でしたが、次回来ることがあったなら、寄ってみたいな~

なんてレトロな郵便受け!

ここは公衆トイレです。 

この看板に見とれていたら、中から女主人登場。

玄関先の植木に水をやり始めました。

その植物を見ると・・

葉っぱの上に丸い玉が・・

これは何ですか?

これが花筏ですよ。面白いでしょう?

葉の上に花が咲いて、それが筏に乗った船頭さんのように見えるので、花筏って名付けられたんですね。

この実は熟すとまっ黒に色づくんですよ。

へぇー、知らなかった。この植物も、花筏という言葉も。

店内に入ると、漆器や焼物、ガラスや石の工芸品などのおしゃれな小物がいろいろ。

これからどちらへ?

今夜は松本に泊まり、明日は安曇野に行きます。

安曇野はいいところですよ。

私もよく行きました。

ずっと介護に追われていた時、安曇野に行ってぼーっとするのが心の洗濯でした。

この竹も、安曇野で取ってきたものなんですよ。

そう言って、頭の上に渡されている棒のようなものを指さして教えてくれた。

 

奈良井宿を出て、近くの道の駅でゲットしたパンフレットの中にあった小さな滝の写真。

とても涼しげで、私に、おいでおいでしていた。

「こんなの、行ってみたらチンケなもんだよ、だいたいは」という夫の予言は無視して、

行くことに決めた。

パンフの地図はいいかげんで、

車のナビには出てなくて、

迷いに迷って辿り着いたのがここ。

ここから先は車は通れない。

でも、0.9kmと書かれているので、歩いても大した距離ではない。

車を置いて中に入る。

木立の中に続く緩やかな上り坂。

あ、さっき道を教えてくれたおじさんが言ってた「ヒラダル」だ!

こんな字を書くのか…

登っていくと、砂利道がなんだか濡れている。

おかしいな?カンカン照りで雨など降った気配もないのに…

黒く湿った部分を辿っていくと、地面からじわ~っと水が沁み出ていました。

あ、ここも、ここも・・

道の端の崖からは滴り落ちていたり、小さな滝状になっていたり、

山全体がたっぷり水を含んでいて、それが飽和状態になってあふれ出ているんですね。

そう言えば、あのゲートのところにあった標識には「水源かん養保安林」と書かれていたっけ…

やはり森を守ることは水を育むことなんだなぁ~ 

 

やっと着きました!これが「床並の滝」です。

白い流れと木々の緑が、互いに引き立て合って、本当に美しい世界です。

この川の名前は知らないけれど、

こんな川が集まって、やがて大河の木曽川となるんですね。

そう、ここは木曽川源流の里、木曽村でした。

 

私の体内を緑の風が吹き渡り、

細胞の1つ1つがリフレッシュされていく、

これがマイナスイオンってやつなのか・・

森よ、川よ、ありがとう。

少し若返ったかしら? 

 

 

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夏休み

2011-07-12 | 雑感

とっても急ですが・・

いつもそうなんですが・・

急に旅行することとなり・・

 

そんなわけで、しばしお休みします。

たぶん1週間くらい・・

 

ああ、眠い・・

今日出かけるために、やるべきことを片付けていたら、

朝になってしまった・・

 

車の中で、爆睡します!

 

 

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