佐世保便り

佐世保市民になって2011年7月で丸3年。
石木ダムや原発や平和について、その他もろもろ日々の雑感をお届けしています。

鶴ヶ島市平和都市宣言

2012-05-24 | 平和

素晴らしい「平和都市宣言」ができました。

子どもたちによる「わたしたちの平和宣言」として。

 

平成24年3月30日、市制施行20周年にあたり、「鶴ヶ島市子ども議会」を開催。

そこで、鶴ヶ島市の未来を担う児童代表により「わたしたちの平和宣言」が採択され、

次のような誓いがなされました。

 

一  わたしたちは、一人ひとりの命と人権を尊重し、

   いじめや差別を絶対に許しません

 

一  わたしたちは、地域の絆を深め、人を思いやり、

   助け合いながら地域活動に積極的に参加します

 

一  わたしたちは、地域の人たちと協力して、犯罪や事故のない、

子どもからお年寄りまで安心して暮らせるまちにします

 

一  わたしたちは、自然を大切にし、緑を増やし、

   人と自然が共生できるまちにします

 

一  わたしたちは、目に見えない「放射能」という怖さをもっている

   「原子力」のあり方についてみんなで考えていきます

 

一  わたしたちは、戦争と核兵器のない、誰もが幸せに暮らせる

   平和な社会をつくります

 

 

この誓いを、鶴ヶ島市の大人たちは真摯に受け止めました。

昨年3月の大震災と福島第一原子力発電所の事故から大人たちも学んだのです。

 

 人は自然を支配できません。人はもともと自然と共に暮らしてきたのです。

 自然界に存在しない放射性物質の拡散が、私たちの命と暮らしを

 ここまで脅かすということを、改めて思い知らされました。

 この「宣言」には、これからの未来を担っていく子どもたちからの願いや

 想いといった熱いメッセージが込められています。

 
 
 
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金正日の遺言

2012-04-19 | 平和

南北の戦争、絶対に駄目 「遺言」で金総書記

 【ソウル共同】昨年12月に急死した北朝鮮の金正日総書記が同年10月、実妹の金慶喜朝鮮労働党書記に伝えたとされる「遺言」で、「(韓国との)戦争は絶対にしては駄目だ」とする一方、李明博政権との関係改善は不可能とみて、次期政権と関係を構築するよう指示していたことが18日分かった。
 遺言を分析した韓国政府のシンクタンク、世宗研究所の鄭成長首席研究委員が未公開部分を明らかにした。
 金総書記は「われわれは南(韓国)と手をつないで発展しなければならない。それだけが生きる道だ」「何としても平和的に統一しなければならない」と指摘。

 

友人が教えてくれたこの記事(河北新報)を読んで、素直に嬉しかった。

初めは驚いたけれど、

冷静に考えれば、本気で同胞と戦争したいなどと思うわけがないし、

まして軍事力や経済力の比較にならない格差は正日さんも十二分に認識していたはずだし、

指導者としてごく当然の意志だと思う。

それに気付かず驚いてしまったのはなぜか?

たぶん、いつも好戦的な激しい口調の北朝鮮のニュース映像ばかりがTVで流れるからかな…?

 

驚いたと言えば、少し前にも、

正日さんの葬儀のとき、棺の傍に立つ正恩さんが目を真っ赤にして泣いていた映像にも驚いた。

民衆がまるでお芝居のワンシーンのように大袈裟に泣き崩れる様子は見厭きてしまっていたが、

公式の場で涙を流す若き指導者の姿は、ちょっと意外で新鮮で、

それはとても人間らしく、正恩さんも父を亡くした普通の子どもなんだなあと感じた。

彼は子として、父を心から敬愛していたのではないだろうか。

だとしたら、その父の遺言を、必ずしっかり守ってくれるはず…。

希望と願いを込めてそう信じたい。

 

このニュースは、今のところ、

共同通信、時事通信、産経ニュースなどでも配信されているようです。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012041800861

 

人工衛星?ミサイル?発射問題では大騒ぎの大手マスコミは、

なぜかこういう話題には反応しませんね〜

why?

平和を願う人々にとっては明るいニュースだと思うのですが・・・

 

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平和市長会議 2020ビジョン

2012-03-25 | 平和

23日の佐世保市議会本会議で、

請願第23号「平和市長会議への加盟を求める請願」は、賛成少数で正式に不採択となった。

賛成したのは、共産党と社民党の議員5名だけ。

その内の一人山下議員は賛成討論の中で、平和市長会議について多くの情報を提供。

たいへん参考になったので、忘れないよう、要点をここにメモしておく。

 

1.世界平和市長会議は2003年に「2020ビジョン」を打ち出した。

  それは、2020年までに核兵器ゼロを達成しようというもの。

 

2.どのようにしてなくしていくか、それは世界中の人々の世論を喚起。

  世界中の各市がNPTなど国連とも連携し、どんなに核兵器が恐ろしいものであるのか、

  人類と核兵器は共存できないという認識を、市民に伝え広めていく。

 

3.核兵器保有国の世界平和市長会議加盟都市は、

  自国政府に向かって自国核兵器の解体を迫る行動をおこそう。

 

4.核兵器を保有してない国の世界平和市長会議加盟都市は、

  自国政府が核兵器の開発に乗り出そうとしたら、それを阻止する行動をおこそう。

 

5.この2020ビジョンは、多くの国々と都市、国連からも強い支持を集めている。

  全米市長会議、日本の全国市長会議、ヨーロッパの地方都市連合もこぞって賛同し、

  パンギムン国連事務総長は「私には、水平線のうえに核兵器のない世界が見える」と発言。

  

6.その結果、近年加盟数が激増。(以下の数は「平和市長会議」のHPより抜粋)

  2004年には600の都市しか加盟していなかったが、

  2005年に1000を突破。

  2008年には2000を突破。

  2009年には3000を突破。

  2010年には4000を突破。

  2011年、ついに5000を突破!

 

7.日本全国787の都市の中で、加盟都市数は662。実に84%に相当する。 

  被爆県の広島県は、100%の自治体が加盟。

  同じく被爆県の長崎県は100%ではない。

  それは、佐世保市が加盟していないから。

 

でも、みんなが加盟しているから加盟すべきというのではない。

私は加盟した方が良いと思うから、加盟してほしいと思っている。

私たちは平和な地球、平和な毎日を望んでいる。 

再び、広島・長崎のような犠牲者になりたくないし、他国の人にもなってほしくない。

だから核兵器は要らないし、無くしたい。

そのために世界中の市民が手を繋げたら、その日はより早く来ると思う。

だから加盟してほしい。

ただ、それだけ。

 

核兵器も原発も、一日も早くなくしたい。。  

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佐世保市議会は何のためにあるの?

2012-03-23 | 平和

 

世界中の平和を求める市長さんたちの会議=平和市長会議に未加盟の佐世保市。

県内で加盟してないのは佐世保市だけ。

是非、佐世保市も加盟してほしいと市議会に請願が出され、

19日、文教厚生委員会で審議し、それを不採択としたという。

 

記者は反対した委員らにその理由を尋ねた。答は、

「市長が決断すべき問題」

「加盟を求める市民の声がもっと増えれば状況は変わるのでは」だった。

 

はぁ?市長が判断すべき???

心の中で大声を出していた。

この委員は、「平和市長会議」だから市長が判断すべきと本気で思っているんだろうか?

では、市長が変わる度に参加したりしなかったりするとでもいうのか?

市長は市民を代表して参加するのであって、その会議に市長を送り出すかどうかは、

私たち市民の意志であるはず。

そして、その市民の意志を代弁するのが市議さん、あなた方の役目ではないのか?

あなた方は、市長の意志をまず重視しようと言うのか?

市長の意に沿って会議するだけの議会なら要らない。

まさに税金の無駄遣い。

 

加盟を求める市民の声がもっと増えれば…?

こう語った委員さん、あなたは市民の声を訊いたのか?

いつ確認したのか?

私は訊かれた覚えはない。

訊かれなかったけど、佐世保市に越してきた翌年(2009年)、

佐世保市も加盟してほしいとの思いを、新聞に投稿したことがある。

その年は、平和市長会議が長崎で開かれる絶好のチャンスだった。

でも、佐世保市長は出席しないと言った。

その記事を読み、どうしても一市民としての思いを伝えたかった。

 

そんな声をあなたは知らないだろう。それとも知らぬふり?

いずれにしても、全市民の声を確認したわけでもないのに、

加盟を求める市民が少ないなんて決めつけないでほしい。

 

私は、1989年、第2回平和市長会議を傍聴した時のことが忘れられない。

深く心に残る感動的な場面がいくつかあったが、その中の一つ。

 

西ドイツのハノーバー市からやってきた市長さんは、政治生命をかけて参加していた。

4年前の第1回会議に参加したことで、バイエルン州政府の裁判にかけられていた。

(東ドイツやソ連など、東側諸国の市長さんもたくさん参加するこの会議は、当時の西ドイツでは危険なものに映っていたのだろう)

再び参加すれば、また裁判にかけられ、今度こそは危険な政治家として、市長の座を追われることになるかもしれないと語っていた。

しかし、私を支持する市民や議員が私を行かせてくれた、私に是非参加してほしいと言った。

彼らは私を無事に飛行場まで送ってくれた。

彼らのおかげで、私は今ここにいる、

帰国したらすぐ身柄を確保されるかもしれないが後悔はしない、と言っていた。

 

その市長さんの安否が気になっていたが、知る術もなく、

いつしか忘れてしまっていたその年の暮れ、ベルリンの壁が壊された。

広島で固く握手していた東ドイツのベルリン市長さんと、

今ごろはきっと、抱き合って喜んでいるかもしれない。

テレビの映像を見ながら、勝手に想像していたっけ。

 

佐世保市議の皆さん、

賛成にしろ、反対にしろ、「平和市長会議」の中身と歴史をしっかり勉強して、

市民の声にしっかり耳を傾けて、

それらを議会で堂々と議論してもらえませんか?

でなければ、あなた方がそこにいる意味が私にはよくわかりません。

 

 

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渡辺謙さんのスピーチ

2012-01-28 | 平和

25日、世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」での渡辺謙さんのスピーチが話題になっている。

東京新聞web版に全文があった。

とても素晴らしかった。

私たちが思っていたこと、思っていたけどうまく表現できなかったこと、

私たちの代弁者であるはずの政治家が語ろうとしてくれなかったことを、

こんなに的確に誠実に世界に発信してくれた謙さん、ありがとう。  

まだ読んでなかった方、是非読んでみてください。

 

 初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。

 まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。

 私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。

 その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。

 しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。

 それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。

 私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。

 そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。

 「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。

 いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。

 国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。

 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。

 

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武力に勝る力

2011-12-22 | 平和

年に数回「ペシャワール会」の会報が届く。

2,3日前、その110号が届いた。

 

ペシャワール会現地代表で、PMS(平和医療団日本)総院長の中村哲医師による報告、その見出しはこうだった。

人と和し自然と和すことは 武力に勝る

       ―― 平和とは理念ではなく生死の問題

 

また、会報と共に新聞記事のコピーが同封されていた。

これはめったにないことだが、たぶんその内容が、本文の中に書かれていることを具体的に示していたからだろう。

それは、11月26日の西日本新聞の記事で、その見出しは、「長老の悲痛な謝罪」だった。

 

今年10月2日、カシコート村の長老たちがPMSに過去の非礼を詫びに来たと言う。

中村医師率いるPMSは、医療団というよりも土木集団と勘違いされるほど、ここ数年アフガンでの灌漑工事に命をかけてきた。

パキスタンやアフガニスタンの辺境の地で医療活動を行っていた中村医師は、人々を救うのは薬よりも水だと気付き、井戸掘りを始めた。

その効果が点で確認された時、これを線に、面にするためには用水路の建設が必要だと確信し着工する。

用水路の線が延びるごとに、砂漠だった大地に緑が広がっていった。

しかし、マルワリード用水路の対岸にあるカシコート地域では、耕地の荒廃で生活できなくなった人々の多くが警備員や傭兵などの職に就き、武装要員の一大供給地となっていた。

彼らは首都カブールに赴任すれば、欧米兵を守るため前線に立たされ、罪のない同胞に発砲を命ぜられた。屈辱感に耐えられず、反政府側に寝返ったり、衝動的に外国兵を狙撃したりする例も・・・

平和医療団PMSに対しても、重機や運転手を拿捕するなどの事件を起こしていた。

そのカシコートの長老たちが頭を下げたのである。

「私たちは闘いに明け暮れる野蛮人になってしまいました」

「武器は解決になりません」

「以前のことは忘れて下さい」と言い、カシコートの大地の回復に手を貸して欲しいとPMSに懇願したのだ。

このような地域での「農村復興」こそ、我々の本来の目的だったと中村氏は言う。

 

昨年の初夏、ペシャワール会事務局で見せて頂いたたくさんの畑の写真。

砂漠が劇的に緑に変化し、そこで収穫の笑みを浮かべている人々の写真を思い出した。

カシコートの大地もいつかそのような緑に覆われたら、若者たちは人殺しの職に就く必要はなくなる。

その日を願って長老たちが頭を下げ、中村さんもそれを受け入れたのだ。

11月1日、さっそく始まったカシコート側の護岸回復工事の写真もそこに掲載されていた。

 

人と和し、自然と和すところにだけ自然の恵みはもたらされるに違いない。

そこにだけ本当の平和が訪れるのだろう。

 

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戦争の傷跡

2011-12-07 | 平和
12月4日のNHKスペシャル「証言記録 日本人の戦争 第2回 太平洋 絶望の戦場」

の録画を観ました。 

http://www.nhk.or.jp/special/onair/111204.html

 

最も長い期間戦場となったニューギニア。

20万の日本兵のうち、生き残ったのはわずか2万。

彼らの多くが、熱帯性感染症と飢餓で戦わずして死んでいった。。

 

  切り株に腰をおろしている兵士の目にも口にもウジ虫がたかっていた。

  死んでいるかと思ったが近づくとまだ生きていたんだよ。

 

  部隊に回ってきた回覧にはこう書かれていた。

  「人肉を食したものは厳罰に処す。ただし、敵軍のものは例外とす。」

 

  殺してくれって言うんですよ。

  手榴弾で死ぬより撃ってほしいって。

  俺はいやだから下士官にやらせようと思ったんだけど、

  下士官も班長もやれないって言うから、俺が引き金引いて…

 

本や映画で何度も見聞きしたことですが、

ご本人たちが語る言葉は、重くて、重くて、胸が締め付けられます。

 

そして、その貴重な生き残りの方たちは、一様に今なお苦しみを抱えていました。

生きて帰ってきたことへの後ろめたさ。

亡くなった戦友たちへの申し訳なさ。

だから、語りたくない。

思い出したくない。

思い出す度に自分を責めずにはいられない、そんな辛さが滲んでいました。

 

  俺は、他人の悪口は今まで言わなかった。

  自分が生きて帰って来たからな。

  あんたに初めて言うよ。

  ・・・・地獄だったなぁ・・・俺は幸い地獄の入口で引き返してきたけどな。

  いや、よかったのかどうか…戦後いろんなことあったから。

  自分の罰だと思ったよ。生きて帰った罰だと。

  ・・・恨むよ。

  あの時の、大本営の上層部を、恨むよ。

  しかし、こんな偉そうなこと言えないんだけどね。

  あんたたちがせっかく来てくれてるけどね、

  こうやって偉そうに話すのが辛いんだよ。

  申し訳ないんだよ、死んだ人にね。

  

沖縄戦では、住民もまるで兵士のように戦い死んでいった。

壕の中で、泣き続ける弟(乳飲み子)を胸に押し付けて窒息死させた母は、

戦後は塞ぎこみ、亡くなるとき、弟の名を呼んで死んでいったと語る女性。

家族に頼まれて、母と妹を銃で撃って死なせたと証言する男性。

救護班として従軍していた女子学生たちまで総攻撃に加わることになって、

幼い妹がいたので残るように言われたOさんは、友人たちが壕を出ていくのを見送った。

  みんな生き生きとして、笑って、まるで踊りでも見に行くようだったね。

  握手して、泣き顔一つしないで、

  「行ってこようね」「手柄立てようね」と言って、出ていったよ。

  そして、誰も帰って来なかった。

 

ニューブリテン島から撤退する時、傷ついた兵士を置き去りにするよう命じられたMさんは、

今もその仏様に手を合わせ、泣き崩れる。

  良心というのかね・・卑怯な自分が許せないんですよね。

  自分で自分が許せない。。

 

ルソン島で将校として指揮したSさんは、部下たちの名前を記したノートを見せる。

約200人の部下のうち、生き残ったのはわずか4人。

Sさんはその後、ほとんど家から出ることはなかったという。

息子が家を建てても、病院を開業した時も、温泉などの旅行にも、決して出かけなかった。

  あれだけみんなに死ぬことだけを勧めてきたのに、

  その本人が遊んでいるわけにはいきません。

  戦争だけはしてはいけない。

  私はそういうんですが…

  でも、時代が変われば、変わっていくんじゃろう・・・

と言って、悲しそうな顔をした。

 

その3ヶ月後、Sさんは他界したそうです。

 

辛い戦場を潜り抜け、九死に一生を得て帰還した兵士たちの多くが、

その幸運を喜び、亡くなった戦友の分まで人生を謳歌しようとするのではなく、

戦争の傷を負ったまま、癒えることなく生き、そして死んでいっている現実を、

私は知りませんでした。

いえ、そういう人の存在は知っていましたが、

それはごく一部であり、多くの人は、

戦後の日本の復興と平和な日々の再来を喜び、

生き残ったことを有難いと感謝し、

平凡な幸せをかみしめて暮らしてこられたのかと思っていたのです。

正直なところ、何もわかっていませんでした。

 

明日は12月8日、太平洋戦争開戦から丸70年です。 

 

 

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核禁会議って?

2011-08-09 | 平和

今年は自宅でこの日を迎えた。

長崎市長の平和宣言をテレビで観た。

 

(長崎平和宣言の全文)

 今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然(がくぜん)としました。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はありません。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわかりません。

 「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅(おび)えることになってしまったのでしょうか。

 自然への畏(おそ)れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。

 たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。

     ◇

 福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていました。

 世界に2万発以上ある核兵器はどうでしょうか。

 核兵器の抑止力により世界は安全だと信じていないでしょうか。核兵器が使われることはないと思い込んでいないでしょうか。1か所の原発の事故による放射線が社会にこれほど大きな混乱をひきおこしている今、核兵器で人びとを攻撃することが、いかに非人道的なことか、私たちははっきりと理解できるはずです。

 世界の皆さん、考えてみてください。私たちが暮らす都市の上空でヒロシマ・ナガサキの数百倍も強大になった核兵器が炸裂(さくれつ)する恐ろしさを。

 人もモノも溶かしてしまうほどの強烈な熱線。建物をも吹き飛ばし押しつぶす凄(すさ)まじい爆風。廃墟(はいきょ)には数え切れないほどの黒焦げの死体が散乱するでしょう。生死のさかいでさまよう人々。傷を負った人々。生存者がいたとしても、強い放射能のために助けに行くこともできません。放射性物質は風に乗り、遠くへ運ばれ、地球は広く汚染されます。そして数十年にもわたり後障害に苦しむ人々を生むことになります。

 そんな苦しみを未来の人たちに経験させることは絶対にできません。核兵器はいらない。核兵器を人類が保有する理由はなにもありません。

     ◇

 一昨年4月、アメリカのオバマ大統領は、チェコのプラハにおいて「核兵器のない世界」を目指すという演説をおこない、最強の核保有国が示した明確な目標に世界の期待は高まりました。アメリカとロシアの核兵器削減の条約成立など一定の成果はありましたが、その後大きな進展は見られず、新たな模擬核実験を実施するなど逆行する動きさえ見られます。

 オバマ大統領、被爆地を、そして世界の人々を失望させることなく、「核兵器のない世界」の実現に向けたリーダーシップを発揮してください。

 アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国など核保有国をはじめとする国際社会は、今こそ核兵器の全廃を目指す「核兵器禁止条約(NWC)」の締結に向けた努力を始める時です。日本政府には被爆国の政府として、こうした動きを強く推進していくことを求めます。

 日本政府に憲法の不戦と平和の理念に基づく行動をとるよう繰り返し訴えます。「非核三原則」の法制化と、日本と韓国、北朝鮮を非核化する「北東アジア非核兵器地帯」の創設に取り組んでください。また、高齢化する被爆者の実態に即した援護の充実をはかってください。

 長崎市は今年、国連や日本政府、広島市と連携して、ジュネーブの国連欧州本部に被爆の惨状を伝える資料を展示します。私たちは原子爆弾の破壊の凄まじさ、むごさを世界のたくさんの人々に知ってほしいと願っています。

 「核兵器のない世界」を求める皆さん、あなたの街でも長崎市と協力して小さな原爆展を開催してください。世界の街角で被爆の写真パネルを展示してください。被爆地とともに手を取り合い、人間が人間らしく生きるために平和の輪をつなげていきましょう。

     ◇

 1945年8月9日午前11時2分、原子爆弾により長崎の街は壊滅しました。その廃墟から、私たちは平和都市として復興を遂げました。福島の皆さん、希望を失わないでください。東日本の被災地の皆さん、世界が皆さんを応援しています。一日も早い被災地の復興と原発事故の収束を心から願っています。

 原子爆弾により犠牲になられた方々と、東日本大震災により亡くなられた方々に哀悼の意を表し、今後とも広島市と協力し、世界に向けて核兵器廃絶を訴え続けていくことをここに宣言します。

 2011年平成23年)8月9日

 長崎市長 田上 富久

 

「原子力に代わる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です」

田上市長は、きっぱりそう言った。

「脱原発」という言葉は入っていないが、意味は同じだと私は思う。

単純な私にはそう見える。

 

その市長に苦言を呈した平和団体がある。

核禁会議という。

核禁会議とは、核兵器禁止平和建設国民会議の略で、

核兵器廃絶、被爆者支援、原子力の平和利用を柱に活動している団体で、

連合傘下の基幹労連などで構成されている。

 

今回の原発事故を受け、「徹底的な原因究明と事実確認、さらなる安全対策」を要求し、

「資源を諸外国に依存している日本の産業発展には原子力は重要」だという。

その核禁会議の副議長で日産労連会長の高倉氏は、7日の長崎集会で

「原発が稼働されないと製造業など海外への移転が加速し、日本の空洞化が進む」として、

来賓の田上市長の前で、脱原発の動きに苦言を呈したそうだ。

そして「原子力の平和利用」の「推進」を確認する集会アピールを採択した。

 

その翌日8日には、国内外から4500人の参加者を集めて開催された「2011平和ナガサキ大会」の、

共催団体として、「原水禁」や「連合」と名を連ねていた。

 

理解できない。

核兵器は廃絶されなければならない兵器だが、

核を利用した原発による被害は許されるのだろうか?

ふる里を失い避難生活を強いられる人々、県外に次々と転校していくこどもたち、

大切に育てた牛や豚や鶏をみな放置し死なせてしまった酪農家たち、

そんな被害者のことはどう考えているのだろうか?

その現状が平和な生活とでも位置づけているのだろうか?

 

彼らが、長崎で核兵器の無い平和な世界を!と訴えている頃、

国連の潘基文事務総長は福島の高校を訪れていた。

浪江町から福島氏に避難し福島南高校に通う女子学生が、潘氏に英語でスピーチした。

普通に生きるのが一番の幸せ。辛くて泣いた日々を糧に、逆境に負けない人間になりたい」と。

潘氏はとても感動し、彼らを励ました。

 

核禁会議の皆さんは、普通に生きられない生活を強いた原発を、

それでもやはり必要と言い続け、推進し続けるのだろうか?

事故がなくても、核のゴミの恐怖におびえながら暮らす生活が、

平和だと、言い続けるのだろうか?

 

私は、核兵器はもちろん廃絶したいが、

それと同じくらい原発も廃絶したい。

どちらも地球にとってのだから。

人間の子どもたちだけではない。

すべての生き物を傷つけ、その未来を脅かす存在だから。。

 

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平和の詩「幸せの一枚」

2011-06-23 | 平和

今日は「沖縄 慰霊の日」

戦没者追悼式のTV中継を見た。

中学2年の女子生徒が朗読した平和の詩が、心に残る。

詩そのものが素晴らしいだけでなく、

彼女の朗読や、その声、その目、その顔の表情すべてで、式典の参加者に訴えていた。

一番訴えたかったのは、目の前にいる総理大臣か?

 

残念ながら、その訴えを受け止める耳を、菅総理は持っていないだろう。

基地撤去どころか、県外移設さえも受け入れないというのだから。

「最小不幸社会をめざす」と言った言葉は、もうとおの昔に忘れてしまっているのか。

 

菅総理はどうであれ、TVの前の多くの人に、

「戦争さえなかったら みんな幸せだったのに…」というおばあちゃんの声が、

届いたと思うよ、朝香さん。

 

  「幸せの一枚」


私の祖母が持つ一枚の写真

何年も経つけれど

忘れられない笑顔

忘れられない言葉


小学生の頃 先生がだした宿題

家族から戦争の話を聞いてくること

急いででかけた 祖母の家


祖母は何も言わず

棚の奥から 一枚の写真を取り出した


古びた写真に写る子どもたち

満面の笑顔の男の子

勝気そうな女の子

おとなしそうにはにかむ笑顔

豪快に口をあけた笑顔

たくさんの笑顔

一人一人の目は

未来を見つめ キラキラ輝いている


「この人だぁれ?」

真ん中に写る女性を指さし 祖母に尋ねる

祖母は寂しそうに笑い 「わたし」 

一言だけ答えた


一人一人の顔を

愛おしそうに 懐かしそうに

指でなぞるように 眺めながら

時が止まる


「この子たちは?」

ふたたび祖母に尋ねる私

「おばあちゃんの生徒たち」 「大切な大切な生徒達」

「みんなどうなったの?」


祖母は答えなかった

ずっと黙ったままだった

幼い私にも

祖母の深い悲しみが

深い苦しみが 痛いほど伝わった


長い沈黙のあと 祖母は

「どうして戦争なんかするのかねー

戦争さえなかったら みんな幸せだったのに…」


私はもう一度写真を見た

みんな笑っている

幸せそうに笑っている

愛する家族がいたはずだ

たくさんの夢があったはずだ

大人になるその日を夢みていたはずだ

その笑顔を 幸せを 奪った戦争を

私は許さない

絶対に許せない


祖母は多くを語らない

私はあれ以来

あの写真を見てはいない

祖母の家に眠る一枚の写真

それにこめられた祖母の思い

もう何年も経つけれど 忘れない

私はずっと忘れない


私たちが忘れない限り 平和は続くだろう

だからこそ 忘れてはいけない

この地には 

たくさんの笑顔が たくさんの夢が 

眠っていることを

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佐世保空襲を語り継ぐ集い

2011-06-18 | 平和

66年前の6月28日、佐世保は大空襲に見舞われました。

1200人を超える市民が亡くなりました。

その事実を語り継ぐために、毎年この集会が行われているそうですが、私は初めて参加しました。

 

夜空に焼夷弾が雨のように降り注ぎ、昼間のように明るかったとか、

疎開先の田舎から見ていたら、花火のようできれいと思ったとか、

翌朝になってみたら、街は焼け野原になっていたとか、

黒焦げの死体、特に子どもを抱いたまま焼け死んだお母さんの遺体が忘れられないとか、

東京大空襲で聞いた話と全く同じでした。

 

犠牲者の数は違っても(東京大空襲の死者は10万人以上)、その悲惨さに変わりはなく、

伝え継ぐことの大切さを感じました。

 

ある男性は、こう言いました。

私たちがこの話を語り継ぐときに忘れてはならないことがある。

それは、この事実を近現代史の中で捉える必要があるということ。

私たちは被害者であったが、同時に加害者であったことを忘れてはならない。

また、この戦争を、たんに政治家や軍部に責任を帰するべきではない。

マスコミも有識者も、ほとんどがそれらに迎合してきたのだから。

私の母は、空襲警報がなったとき、電灯を消すのが遅れただけで非国民と言われた。

そんな時代だった。

 

また、ある男性は言いました。

8月15日に戦争が終わり、9月1日から学校が始まった。

毎日墨消しをやっていた。教科書のあちこちを墨で消すのですが、社会科が一番多かった。

9月末ごろ、用事があって市役所に行ったら、星条旗が掲げられていた。

そこにはこれまで、市旗と日の丸と旭日旗があったのに、市旗と星条旗に代わっていた。

それを見た瞬間、力が抜けたように、座り込んでしまった。

 

ある女性は語りました。

女学校2年のとき、佐世保工廠に動員されて、2ヶ月間電気のことを勉強させられ、

その後はずっと、機雷とか信管を作ってた。

体当たりするための船の燃料タンクも造った。

終戦まで、勉強はせずにずっと工場で働いていた。

工廠では昼食が出た。

大豆の油粕や高粱、芋などとお米が少しのご飯だったけど、食べられるだけ嬉しかった。

 

この集会には、中学生、高校生、大学生なども来ていましたので、いろんな質問が出ました。

 

ある男子生徒がききました。

「3番目に話された方は、どうして兵隊に志願したのですか?」

 

男性は正直に答えました。

自分たちのところは、農閑期には炭鉱で働くか兵隊に行くかどっちかだった。

どっちもきついが、兵隊に行けば皆から一目置かれるので、兵隊に志願した。

 

さっきの女性が言いました。

学校に志願兵募集の知らせが来るのです。

でも、私たちの先生は、

「子どもは戦争に行かんでよかよ。戦争に行くのは大人の仕事。

 お兄さんが志願すると言ったら、そう言って止めなさい」と言いました。

と、すごく誇らしげに語ってくれました。

 

また、ある女生徒は尋ねました。

その当時、皆さんはどんなものを食べていたのですか?

 

別の女性が答えて言いました。

大豆のカスとか芋とか・・とにかくお菓子とか甘い物とかはありませんよ。

三度の食事が満足に食べられないんですから。

学校では、体育の時間が終わって教室に戻ってくると、必ず誰かのお弁当がなくなってました。

弁当泥棒がいたんです。

あるとき私は友だちから空のお弁当箱を渡されて、

「これに明日お弁当を入れてきて」と言われました。

私は家に帰って泣きながらお母さんに渡しました。

怒られると思ったけど、お母さんは黙って、翌朝、そのお弁当箱にたくさん詰めてくれました。

その子はそれを家に持ち帰って、家族皆で食べたそうです。

とても美味しかった!と喜んでいました。

 

大学生の青年が言いました。

僕は沖縄から来ている学生です。

戦争のことといったら、沖縄戦と広島、長崎しか知りませんでした。

佐世保にもこんな戦争時代があったなんて…初めて知って驚いています。

今日はここに参加できてよかったです。

 

私も、彼らと同じように、驚きや感動をもって聴かせて頂いた2時間でした。

本当にありがとうございました。

 

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