昨日に続き、今日(10日)も変わりやすいお天気の一日でした。
飛騨高山も降ったり晴れたり曇ったり・・
予想以上に寒かったので、古い町並み散策はそこそこにして、
「からくりミュージアム」に駆け込みました。
からくり人形の定番、茶坊主がお茶を運んできて戻るところ。
お茶は、修学旅行生の男の子が美味しそうに飲みほしました。
牛若丸と弁慶の闘いの場面。
どれもよくできていて、うまく動かせるもんだと感心してしまいます。
現代のようなハイテク技術ではなく、昔ながらの糸や棒やゼンマイを使っての仕掛けです。
一番驚いたのがこちら。
この人形がなんと!真っ白な紙に、文字を書いていくのです。
疑り深い私は、客席を離れて、横から見ていましたが、本当にお人形が字を書いていたのです。
その作品がこちら!
これをもらった学生さんは、まだ墨が濡れた状態だったので驚いてました。
次に向かったのは、飛騨の里。
そこは、まるで古民家の博物館!
世界遺産の「白川郷」のような合掌造りの民家が、何軒もそのままそっくり保存されていて、
白川郷よりいい点は、どなたも住んでいないから、外も中も自由に見学できます。
重要文化財に指定されている旧若山家の暗い階段を上っていくと、
2階部分の屋根の造りがよくわかりました。かなり急こう配です。
暖かくて、風通しがよくて、雪が自然に滑り落ちてゆく、風土に合った建築技術です。
人は1階で暮らし、この2階部分は養蚕の飼育場だったとか。
こちらは旧「八月一日」家。
なんと読むかわかります?
「ほづみ」家です。
旧暦の8月1日は、現在の9月10日頃にあたり、
その頃この地方では、粟や稗などの雑穀が実り、穂を摘んで収穫したことから、
8月1日=穂を摘む日=ほづみ
と読むようになったそうです。
こちらは、今の水道と流し台のようなものでしょう。
土の付いた野菜など洗うのに便利そうです。
さて、これは何かわかりますか?
これも、国指定重要民俗文化財と書かれていますが・・・
わからないだろうな~
想像もつかないと思いますよ。
答は、肥壺。
こえつぼ=下肥の蓄積用具
この容器を水田の縁に半分ほど埋めて、そこに自宅から「肥」を運んできて溜めていたのですね。
このような石造りのものは珍しいのだそうです。
工芸館では、一位一刀彫りの実演を見に行きました。
一位(イチイ)の木は年数を経るほどに艶がでてきて、とても美しい。
昔の高官の正一位の人が持つ笏を造るのに使われていた木だから、「一位」と名付けられたとか。
そんな説明を聴きながら、幸せ(福)を呼ぶフクロウの作品を買ってしまいました。
そろそろ次の目的地へ向かう時間となり、出口に向かっていた時、
ガイドさんとおぼしきおじいさんから声をかけられました。
おじいさんは心底この飛騨を愛しているようで、飛騨の匠の技術の素晴らしさを熱く語り始めました。
持統天皇の時代から、飛騨の匠は名を轟かせていた、あの平城京も飛騨の職人が造ったのだ、
また、合掌造りの茅葺の家は台風にも地震にもビクともしない、
それは、風が通り抜ける構造なので風で倒れることもないし、
屋台骨は穴にさしこんでいるだけなので、家自身も地面と同じように揺れて抵抗しないから、
などと教えてくれました。
が、その飛騨への誇りが、飛騨の貧しさを印象付けた「ああ、野麦峠」への怒りとなり、
あの作品は嘘ばかり書いてある。
主人公の女性の家はそんなに貧しくなかったし、
雪が降る時期まで働いていたはずはない。
などと、ますます熱くなって・・・。
しかし、もう時間もなくなったので、お礼を言って別れ、目的地へ急ぐことに・・・
目的地とは、実は、その野麦峠でした。
野麦峠は、岐阜県と長野県の県境にあり、
3000mを超す乗鞍岳と御岳の間にある、1672mの峠です。
明治から大正にかけての生糸工業全盛時代、
飛騨の若い娘たちは女工として、岡谷の生糸工場へ働きに出かけていましたが、
そのとき必ずこの野麦峠を超えなければなりませんでした。
その女工たちを描いた作品「あゝ野麦峠」(1968年山本茂実著)の大ヒットで、
野麦峠の名は全国的に知られるようになり、
1979年の映画化で、さらに有名になったようです。
この石碑の近くには、こんな像も立っています。
病に倒れた主人公「みね」は、兄に背負われて工場から家に戻ろうとしますが、
野麦峠まできて、「ああ、飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んで、
そこで力尽きて亡くなってしまいます。
そのシーンの像です。
映画『あゝ野麦峠』では、そのような悲しい話ばかりがクローズアップされ、
いつしか、原作の山本茂実氏は「嘘つき」とか「諏訪の敵」と見られるようになってしまったそうです。
(実際の作品は、もっと客観的に工場経営者の苦労話なども含め、多面的に描かれていたようです)
また、誇り高い飛騨の人からは、飛騨が極貧の地域のように描かれていることへの反発が生まれたとか。
「飛騨の里」のおじいちゃんガイドさんが怒ってた意味がやっとわかりました。
でも、富国強兵策の陰で日本の産業を支えた娘たちの過酷な労働と、
その娘たちが工場とふる里を行き来した難所『野麦峠』の存在を広く知らしめた功績は大きいし、
私も覚えておきたいと思いました。
こちらは、元女工さんの証言です。
野麦峠にある資料館に展示されていました。
学校を卒業してすぐ12歳で女工になり、14年間働いた清観(きよみ)さんの話では、
木綿の着物と赤い腰巻と草履姿で、残雪多い山道を超えて行ったと言います。
急な谷では落ちて亡くなる人もいたそうです。
女工哀歌の一節、
「野麦峠は ただでは越さぬ 一つ身のため 親のため」は、
哀しいだけではない、強く健気な娘たちの心を歌っているようです。
ところで、「野麦」ってわかりますか?
野の麦ではありませんよ。
実は「クマザサ」のこと。
クマザサが一斉に花を咲かせ実をつけたとき、その様子が麦の様に見えるので、
その実のことを飛騨では野麦と言ったそうです。
これも初めて知りました。
今回の旅では、いろんな「へぇ~」がありました。
信州がとても好きになりました。
信州の魅力は、雄大で美しい自然だけでなく、深い感動がありますね。
山道を分け入るように一歩ずつ。
最後に野麦峠の空気を思いっきり吸い込んで、一路佐世保へ・・・。