goo blog サービス終了のお知らせ 

佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

母のうた

2009-02-25 | 雑感

  静かな長い夜


母に優しい言葉をかけても
ありがとうとも言わない。
ましてやいい息子だと
誰かに自慢するわけでもなく

二時間もかかる母の食事に
苛立つ私を尻目に
母は静かに宙を見つめ
ゆっくりと食事をする。
「本当はこんなことしてる間に
仕事したいんだよ」
母のウンコの臭いに
うんざりしている私の顔を
母は静かに見つめている。
「こんな臭いをなんで
おれがかがなくちゃなんないんだ」

「お母さんはよくわかっているんだよ」
と他人は言ってくれるけれど
何もわかっちゃいないと思う。

夜、母から離れて独りぼっちになる。
私は母という凪いだ海に映る自分の姿を
じっと見つめる。
人の目がなかったら
私はこんなに親身になって
母の世話をするのだろうか?
せめて私が母の側にいることを
母に分かっていてもらいたいと
ひたすら願う静かな長い夜が私にはある。

 

 

長崎市在住の詩人、藤川幸之助さんの詩です。
「母のうた─支える側が支えられる時─」と題して、月に1回、長崎新聞に掲載されています。
認知症のお母さんとともに暮らし、誠心誠意介護するその日々をうたった詩の数々。

はじめのころは、読むたびにドキリとし、ざわざわとし、目を背けたくなりました。
藤川さんの母親への愛と献身が、私を問い詰めているように感じたからです。


私の母は幸い認知症の気配もなく、関東のケアハウスで元気に暮らしています。
父亡き後、ずっと一人暮らしを謳歌した母も、軽いくも膜下出血を体験後は一時娘家族と同居。
しかし数年前、自ら強く希望して、あるケアハウスに入所。
周りの静かな環境と、行き届いたスタッフのお世話、同世代の人々との交流を得て、
こんなに素晴らしい施設はないと、姉や私が訪ねるたびに口にしています。

実際、職員の皆さんは親切で温かい方々ばかり。
生け花、押し花、手芸、短歌、俳句、書道、カラオケ等々サークル活動は盛んだし、
三時のおやつの時間も職員と一緒になってお団子やクッキーなど手作りする日も多くて楽しそう。
また、映画鑑賞や日帰り旅行、買物デー、お誕生会などの月例行事、
桃の節句、お花見、七夕などの年間イベントなどなど、
入所者が暇を持て余すことのないよう実にたくさんの企画工夫がなされている。

私たち夫婦が九州に移住を決めたとき、夫が再三再四誘ってくれたのですが、
母は頑として同意しませんでした。
プロのケアに身を任せ(今のところ元気なので介護は受けていませんが、
栄養面に配慮された美味しい食事やお部屋の掃除などお世話になっています)、
住み慣れた場所で、同世代の人々と過ごす快適な日々を選んだのです。

それは賢い選択だろうと私は考えましたので、無理に翻意を促しはしませんでした。
私が母の立場だったら、きっと同じ結論を出すだろうと思いました。
しかし、それでもなお、心の隅に、忸怩たる思いがへばり付いているのをどうすることもできません。
お互いにとってそれが最良の選択とわかっていながら、どうしても禁じえない後ろめたさ…。


けれど、この頃は藤川さんの詩を読むたびに、そんなわだかまりが少しずつ解けていくような気がします。母子の繋がりとは、物理的距離や空間的存在を超えて根源的に結ばれている・・・
そんな気がしてきます。

いくつになっても、どこにいても、子は母の存在を忘れ得ない。自分自身の存在を意識する限り。
そして、その母が認知症になっていようと、植物人間になっていようと、自分のすべてはその母に
繋がっていて、互いに見つめあっているような気がします。
サケが生まれた川を下り、遠くの大海で命の大半を過ごしても必ず母なる川に戻ってくるように、
人間もまた心の川を遡上するのでしょう。

藤川さんは、認知症のお母さんの瞳を見ると、「海容」という言葉を思い出すそうです。
海のような広い心をもって、人を許すこと。
「母という海は、認知症という病気を受け入れ、できの悪い息子を受け入れて、
ますますその生の青さを深くしている」と。

私はもう何年も母の瞳をじっくり見つめたこともない。
年とともに、その眼は小さく窪んでいったし、ラベンダー色のレンズのメガネに変えてからは、
ますますその表情が見えにくくなったから。

でも何となく、私にも感じられる。
難聴を受け入れ、できの悪い娘を受け入れて、少しずつ母の青さも深くなっているに違いないと。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不登校のきもち

2009-02-19 | 雑感

先週日曜日、「フリースペースふきのとう」主催の講演会を聴きに行きました。

いじめや不登校で苦しみ悩んでいる親子に寄り添い、子どもたちの居場所を提供し続けてきた「ふきのとう」の20周年記念行事の最後を締めくくるステージ。

元不登校生徒だった、でも今はりっぱな社会人になっている2人の男性の語り。
同じく元不登校生で現在ジャグリングパフォーマーとして活躍中の女性のパフォーマンス。
長年にわたり不登校の子どもたちと向き合い、研究とカウンセリングを重ねてこられた広木克行氏(発達科学、臨床教育学教授、カウンセラー)の講演など、どれも心にズシリと響くお話ばかりでした。

広木先生はおっしゃいました。

   不登校は社会が生みだした病理です。
   病気ならば治るのです。

   不登校には必ず出口があるのです。
   こじあけようとすればするほど、出口は遠くなる。
   子どもが自ら扉を開ける力を蓄えるまで、見守り寄り添うことが大切です。

そういう言葉は、頭の中ではわかる。
けれど、実際、不登校の子どもたちの気持ちが分かるかと言えば、私は全くわかっていない…。
自分自身も我が子にも、そのような経験がなかったから。

少なくとも私自身は、学校に行くのが楽しくてしかたない子どもでした。
夏休みも半ばを過ぎる頃には、早く2学期が始まらないかと待ちわびる子どもでした。

昨今の異常ないじめによるケースは別として、これといった大きな要因も見当たらないのに休み続ける生徒の話をきくと、満たされ過ぎた現代社会に生まれ育った子どもたちの悲劇、ひ弱に育てた私たち大人の責任などを漠然と感じるだけした。

私は、そういう子どもたちの心を本当に感じようとはしてきませんでした。
その心に本気で寄り添おうとはしてきませんでした。

体験者の一人、堂野博之さんのお話は、そんな私に何かを感じさせてくれました。


小学校5年生の時から中学校卒業まで、5年間の不登校。
時が過ぎ、義務教育という檻から解放され、やっと社会人になったのに、今度は仕事を休み出す。
一人暮らしでもう親には頼れない。弱い自分との闘いの日々。
逃げて、逃げて、現実から逃げ続けて、餓死寸前まできて、そのとき初めて自力で歩み出す。
無断欠勤を続けた職場(お蕎麦屋さん)に、残りの給料を受け取りに行き、そこでおかみさんにかけられた言葉「体調がよくなったらまた来てね。あなたがいてくれると助かるんだから」に、衝撃を受ける。


たぶん堂野さんにとって、本当の出口への扉が開いた瞬間だったのでしょうね。

こんなに優しい温かいおかみさんに出会ってなかったら、堂野さんの今はどうだっただろうか?
堂野さんは、どうして学校や職場に行けなくなるのか?
それは本当に心が弱いからなのか?

今さら遅いかもしれないけれど、堂野さんのような子どもたちの心をもう少しわかる自分になりたい。
そう思って、堂野さんの著書「あかね色の空を見たよ」を買って帰りました。

そこには、二度目の転校先の小学校に馴染めず学校を休み始めた頃から、結婚し最初の子どもが生まれる日までのことが淡々と綴られていました。
しかし、不登校の5年間の苦しみは、短いたくさんの詩の中で吐き出すように語られていました。



     おしえて
     私の机はどこですか
     おしえて
     私の居場所は 
          どこですか


     学校行けなくて苦しい
     学校行きたくなくて苦しい
     学校行って苦しい
     
     学校に来た私を見て
         よかった よかった

     先生 なにがよかったの
     父さん なにがよかったの
     母さん なにがよかったの



     ばりっ
       障子に穴あけた
     ばりっ
       ふすまに穴あけた
     ぱりっ
       こころに穴あいた


     クラスのみんなが
       むかえにきた
     もお おねがいだから
       ちょっとまってよ
         おねがいだから
     ごめん ほんとに
         おねがいだから
     かえってください
        おねがい
          おねがい


     じっと見てた
       私が逃げないように
     じっと見てた
       校舎の中に消えるまで
     涙の母が
       じっと見てた


     母さんが言った
       いっしょに死のう
       私は言った
     一人で死ね
       くそばばあ


     寝るまえに
        祈りました
     神様 お願い
       明日の朝 起きたら
     足が折れてますように


     先生あのね
     学校休むとね
     すごい悪いことしてる
     気がしてね
     追いかけられてる
     犯人みたいな
     気がしてね
     電話がなってもね
     郵便屋さんが来てもね
     ふとんの中でじっと
     息を殺して
      隠れてるの
     だからね
     あんまり追いかけないでね
      だめかな・・・


     最後に笑ったの
        いつだっけ
     最後にうれしかったの
        いつだっけ
     今度笑うの
        いつかな
     うれしいこと
        いつかな


     
畑の仕事手伝ったら
     なんか
     うれしかった
     学校行かんでも
     どうどうと
       しとれる



堂野さんは「あとがき」に、こう書いています。

この本は、不登校をしている子、そして、その周りにいる親や先生たちが、自分たちの立場に置きかえて、少しでも何かを感じてもらえればと思って書きました。



 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心はホカホカ

2009-02-17 | 佐世保・長崎
「うたごえ」の仲間に誘われて、昨日、署名活動なるものを体験しました。

佐世保で一番の商店街である四ヶ町アーケード街で、11時から12時まで。
たった1時間だけど、前日とは打って変わっての寒~い日で、久しぶりに手が凍えました。

訴えたのは、核兵器廃絶と憲法9条を守りましょうということ。

私は行く前から覚悟していました。
基地の街「佐世保」では、ほとんど素通りされるだろう・・・と。
たった1時間では、2,3人のサインが得られればいいほうだろう・・・と。

私が街頭署名を体験したのはずーっと昔、学生時代です。
大人になってからは、いろんな署名集めの経験はありますが(学校関係、自然保護関係、地雷やクラスター爆弾などの兵器廃絶、憲法関連等々)、
いずれも友人・知人・近所の人々を訪ねお願いするという形でした。

あの人なら頼めるとか、この人なら書いてくれるかな?という目星をつけてドアをたたいたのです。
見ず知らずの通りすがりの方にお願いするのは、三十数年ぶりです。

ここ2,3年、街頭でのチラシ配りなら経験ありますが、これがなかなか受け取ってもらえません。
講演会などのイベント案内チラシなんて、よほどその問題に関心のある人以外は見向きもしません。
すぐ近くで広告入りのティッシュを配ってる人の前ではゆっくり歩いていた人が、私たちの前では
急に急ぎ足になったり、荷物を持ちかえて両手を塞いだり、実に巧妙に通り過ぎて行きました。

そんな経験と、ここ半年ほどでインプットされた佐世保市民の親米・親基地・親自衛隊感情とが相まって、署名の成果をはなから期待してはいませんでした。


ところが・・・
実際は全く違っていました。

正確には数えてはいませんが、1時間に30人を超えていたと思います。
もちろん雰囲気を見ながら声をかけましたが、
(あきらかに急いでるような人、両手に大荷物を抱えている人、近寄らないでと目が訴えている人、
目も合わせないように避けるように歩いている人などは、こちらも遠慮しました)
意外にも足を止めてくださる方が多いのです。

我ながら驚きました。私って人を見る目がこんなにあったの?と。

たぶんそれは違います。

平日の商店街。道行く人の多くが高齢の女性です。
声をかけると、「なーに?核兵器?よかよ。ここに書けばよかと?」
と気軽に書いて下さる方が何人もいました。

ただ、「原爆は二度とイヤやからね」とか言いながら書いてくださったので、「こちらにもお願いできますか?」と憲法9条の署名の方を指すと、「憲法?うーん、それはまた別やね。難しいことはわからんから」と拒否なさる方も数人いました。

きっとあの戦争を体験なさった長崎県民の多くは、広島県民同様に、原爆の恐ろしさ・酷さ・悲惨さが理屈抜きに、記憶に染みついているのでしょう。
それが核兵器拒否の意識に移行することは、むしろ自然なのかもしれません。
けれど、それが日米安保とか憲法改正とか政治的な課題になってくると、なんとなく難しい、煩わしい、考えることさえ避けたいという人々も多いのかもしれません。

「うちの主人は戦争が始まって8日目に(4日目かも?よく聞き取れませんでした)戦死したんですよ」と自ら語りかけて下さった方がいました。
「どちらで?」と問うと、「南方のウェーク島」とおっしゃいました。

北のウェップ島なら聞いたことがあるけれど、ウェーク島?、初耳でした。
私の聞き間違いかな・・・と疑っていました。

帰宅して調べてみたら、ありました。間違いなく、ウェーク島でした。
真珠湾攻撃と同じ日に、日本軍は太平洋に浮かぶこの小島にも攻撃を開始していたのでした。
12月8日と言えば、開戦の日として、真珠湾やマレー半島のコタバルの地名が有名ですが、
その他にも私たち戦後生まれの者が知らない数々の戦場があったのですね。

ご遺骨はもどってないとおっしゃっていました。
もう少し私に知識があったなら、もっと興味を持って、そのご婦人の話を聞けたのに…と残念です。

男性の中にも署名に応じて下さる方が数人いました。
ある方は、娘家族と住んでいるが、共稼ぎ家庭で子どもたちも5時半にならないと学校から帰らないので昼間は一人。だから図書館が私の遊び場、とおっしゃいました。

また、別の男性は、近くにある大きな病院の帰りだとのことで、体調のお悪い中足を止めたことを詫びると、「いえいえ、帰って寝るだけですから。おたくも風邪ひかないようにね」との温かい言葉をいただき、ちょっとウルっときました。

左手で署名して下さった女性に、「あら、左利きなんですね?」と声掛けると、
「そう、右手が使えんもんでね」との返事。
「怪我でもなさったんですか?」
「いいえー、子どもん頃から右手がだめになったとです。ポリオですよ」

恥ずかしいことに、学生時代、ポリオについて少しだけ学んでいながら、私は間違った解釈をしていたことに初めて気付かされたのです。
当時、私が養護学校で出会ったポリオのこどもたちは下半身麻痺児ばかりだったので、
ポリオの後遺症=下半身麻痺という誤った認識をもってしまっていたのです。

出会いは学びですね。

2,3人連れの方々の多くはおしゃべりに夢中なので、なかなか声をかけるのが難しいけれど、その中の一人がOKしてくれたら他の人も必ずといっていいほど署名してくれることも知りました。

楽しそうに話しながら歩いていた若い女性二人に声をかけると、「あ、私佐世保じゃないんですけど」
どこにお住まいでもOKと伝えると、すぐに書き始めてくれました。
その住所は名古屋。用事があってちょっと実家に帰ってきたけど、今日また名古屋へとのこと。
大学では国際関係学を学んでいて、ドイツの戦後補償のこととか勉強したとおっしゃっていました。
横にいた女性は高校時代の友人だそうで、何も言葉はなかったけれど、終始ニコニコと友の言葉に頷いていた姿が印象的でした。

そして、署名活動終了の時間を告げるマイクの声が聞こえてきたとき、私は最後の女性が書き終えるのを待ちながら、内心、やれやれ終わったとホッとしていました。
先ほどから、手先は凍え、体はガタガタ震えていましたから。

(署名してくださる方のためにバインダーを支えるように持っていたのに、その手がガタガタするので、あるおじさんには「ちょっと手ば離しんしゃい。邪魔だよ」と言われてしまったのでした)

ところが、その最後の女性からペンを受け取って立ち去ろうとしたとき、「私も書きます」と後ろから声をかけられました。

えっ!?

ほんとに驚きました。ご自分から署名したいと近づいてくれる人がいるなんて!

もう、佐世保市民へのイメージが180度変わりました!
(ここが、私の単細胞人間なる所以です)


本当に体は芯まで冷えましたが、心はポッカポカにしていただいた1時間でした。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日の丸行進in佐世保

2009-02-14 | 佐世保・長崎
佐世保市街を日の丸の小旗を手に行進する長い列。
「○○老人クラブ」と書かれたプラカードを手にしてる男性もいます。

その写真が添えられた記事のタイトルは、

「8000人が日の丸行進─小旗手に世界平和願う─」

本文を読むと、それは、建国記念日の2月11日に、毎年行われている行進だということで…
少々びっくりしました。
かつて住んでいたどの地域でも、このような行進を見たり聞いたりしたことはなかったので…


主催は「市建国記念の日奉祝会」という市民有志の会だそうです。
今年は、老人クラブや商工会、自衛隊、旧海軍OB会など63団体が参加したそうです。
どのような団体や個人が参加しようと、もちろん、誰もとやかく言うべきではないでしょう。

でも、この会の会長さんと、佐世保市長朝長さんのあいさつにはあきれました。

会長さんは言いました。
「日本国の誕生を日本人として祝い、世界平和を願うことは意義深い」と。

市長さんも言いました。
「わが国は国民の英知と努力で今日の平和が築かれた。世界の人々と理解し合い、助け合える社会を築くため今後とも全力で取り組む」と。

建国記念の日を祝うのが、どうして平和と結びつくのですか?

「建国記念日」ではない、「建国記念の日」だと屁理屈をつけても、2月11日はかつての紀元節、神武天皇が即位した日でしょう?
神武天皇と言えば、かつて軍神と崇められた戦いの神でしょう?
彼が日本を平定する過程で歌われた“出陣・戦勝の歌”が、現在も宮廷芸能として残っているそうですが、

「カムカゼ(神風)ノ、イセノウミ(伊勢海)ノ、オホイシ(大石)ニヤ、イハヒ(延)モトヘル(廻)、シタダミ(細螺)ノ、シタダミノ、アゴ(吾子)ヨ、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモトヘリ、ウチテ(撃)シヤマム(止)、ウチテシヤマム 」というそうですね。

「日本書紀上巻」(講談社学術文庫)の訳によると、「伊勢の海の大石に這いまわる細螺(キシャゴ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう」となるようです。
戦時中の標語「神風」「撃ちてし止まむ」は、これが出典だったんですね。

そういう話、少なくとも市長さんや会長さんはご存じでしょう。
なのに、なぜここで「平和」を持ってくるのですか?そういう欺瞞、誤魔化しはやめてください。

あなた方が本当に世界の平和を願うなら、
日本の平和憲法が施行された憲法記念日にこそ祝ってください。行進してください。

市長さん、本当に世界平和を願うなら、米軍基地を撤去したいと思いませんか?
あなたがおっしゃるように「世界の人々と理解し合い助け合う」ことはとても大切だと思います。
でも、そのために必要なのは武器や軍艦ではありません。対話と交流、技術援助などでしょう?

佐世保の美しい港から、基地や軍艦を一掃しませんか?
漁民は安心して漁ができます。
美味しい海の幸と自然の美しさを求めて、国内外からたくさんの人々が訪れるようになるでしょう。

でも、現実の貴方はそれとは正反対の政策を進めていらっしゃるように見えます。
その貴方が、「平和のために全力で取り組む」とおっしゃった。「建国記念の日」に。。。

それは・・・小泉さん風に言うと、「怒りを通り越して笑っちゃうくらい」あきれましたヨ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎ランタンフェスティバル

2009-02-08 | 佐世保・長崎

昨日、長崎ランタンフェスティバルを見に行きました。
もちろん初めての経験です。

このお祭りは、もともと長崎在住の華僑の人々が、中国の旧正月(春節)を祝うための行事として始めたもので、長崎新地中華街を中心に行なわれていたそうです。
それが今では長崎の冬を彩る一大風物詩となって、たくさんの観光客を集めています。

今年は1月26日から2月9日まで、新地中華街はもとより市内いたるところに、ランタン(中国提灯)が飾られ(その数15,000個!)、6つの大会場では、龍踊り、中国雑技、二胡演奏、エイサー、中国獅子舞等々様々な出し物が繰り広げられています。

昨日の長崎市街はどこも大渋滞、その上駐車場が満杯で・・・
やっと車から降りた時には、お目当ての皇帝パレードは終わっていました。
気を取り直して、暗くなるまでに、とりあえず腹ごしらえ。
食べながら、どういう順番で行くか、パンフレットなどを見ながらじっくり検討。その結果・・・

まず向かったのは「中島川公園」


正面に見えるのは、有名な眼鏡橋です。
川の両岸にはたくさんのオブジェが飾られ、その両岸を結ぶ黄色いランタンの屋根。
その灯りが川面に映って、ゆれて、両岸や橋の上では人々が鈴なりになって見入っていました。

光の川はまだまだ続いていましたが、エイサーや龍踊りなどが見たかったので大会場をめざしました。
しかし、いずこも、人、人、人の海。
チビで近視の私は、ステージ上の演技鑑賞は不能と判断。
オブジェやランタンそのものを鑑賞することに決めました。


中央公園、湊公園、浜んまち各会場で見た動物たちのランタンオブジェ。
どれも、「目」に惹かれました。 




















こちらは、大アーケード街。

天井にも両サイドにも、ランタンが所狭しと並び、圧巻でした。



湊公園の一角に作られた祭壇。
押し合いへし合いされながら、何とか前の方へたどり着くと、そこに飾られていたのは、
真っ赤なロウソクと、豚の首・・・

なんで豚が並んでいるの?
祭壇に供えているのか?豚を拝みなさいということか?
本物?これもオブジェ?
確かめるほどの距離に近づく勇気も体力もなく、人込みから脱出しました。




帰る前にもう一度、外のオブジェを撮ろうとしたら、見上げた先に、小さなお月さまが。
お月さまも遠い宇宙の向こうから、この極彩色のお祭りを見ているでしょうか?



それにしても、長崎は素敵なところです。

キリシタン文化あり、南蛮文化あり、このような中国文化あり・・・
この地を訪れ住み着いた人々の生活スタイルや文化を排除せず、尊び受け入れたからこそ、
残され伝えられてきたのでしょう。

そして、大事にしてきたお祭りをいま再現発信することによって、多くの観光客が集まって来る、
大不況の真冬の2月に(昨日はとても暖かでしたが)、こんなにたくさんの人々が夜遅くまで楽しげに行きかっている。
その姿に、希望という名の、目に見えないランタンの灯りと温もりを感じました。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図書の寄贈

2009-02-04 | 佐世保・長崎

半月ほど前、横浜の友人Oさんが一冊の本を紹介してくれました。

Jay M. Gould & Benjamin A.Goldman著、肥田舜太郎・斉藤紀訳
「死にいたる虚構-国家による低線量放射線の隠蔽-」
というちょっと難しげな本です。

物理、化学など理数系に弱い私は、タイトルには興味を感じつつも、(私には理解不能に違いないと)敬遠していました。

しかし、この友人のコメントにのせられました。

「すごい本です。著者は、ノーベル賞を100個くらいもらっても良いと私は思います

ミーハーな私は、自分の弱点(理化学音痴)も忘れて、ノーベル賞100個?、どんなお宝本なんだろう、私にもノーベル賞1個分くらいはわかるかな?と、そのコメントを読み進みました。
   
Oさん曰く、
「この本のすごいところは、昨年の5月、原爆症認定集団訴訟大阪高裁にて、原爆投下後に入市した被爆者及び遠距離被爆者、即ち、低線量放射性物質を体内に取り込んだために原爆症になった人たちが勝訴するという画期的な判決が出た根拠に使われた証拠の論文ということです。つまり、裁判所が証拠として認め採用したのです。しかも、国はこの証拠があるために最高裁への上告を断念したのです。現在、各原発から微量の放射性物質を低線量故に、公衆の健康に影響がないと主張していますが、それが覆されたということですから、今後の原子力産業への影響は計り知れません」

な~るほど。
政府が頑なに拒んでいた「入市被爆者」の原爆症認定を実現させた根拠となった本なんだ…。
それはすごい。読んでみたい。しかも、訳者は肥田舜太郎さん!
映画「ヒバクシャ」の中で説得力のあるお話をなさっていた肥田医師!
これは読んでみたい。私にもわかるかも…。

Oさんに伝えると、さっそく発行元である『PKO法「雑則」を広める会』に連絡を取って下さり、その担当者から電話連絡を頂いた後、本が送られてきました。

非売品とのことで、代金は必要経費分の請求しかなく、それだけでも心苦しいのに、注文以上の冊数が同梱されていました。
それは、是非少しでも多くの人に読んで頂くために、図書館や資料館に寄贈してほしいということで、
もう1冊、やはり大阪高裁の判決根拠となった本「放射線の衝撃─低線量放射線の人間への影響─」(Donnel W. Boardman 著、肥田舜太郎訳)と共に3セット余分に入っていたのです。

そして、これらの「文献をお送りするにあたって」と、丁寧なメッセージも添えられていました。

「死にいたる虚構」には、チェルノブイリ原発事故によるフォールアウトや核施設からの極微量のフォールアウトによって死者がでていることを、統計学的な手法によって明らかにしています。放射線が免疫機構を傷害し、乳幼児や高齢者、エイズや肺血症の若者が亡くなっているという事実に、私たちは打ちのめされました。被爆国の国民でありながら、放射線が生命にとってどれほど危険であるのかを、まったく教育されてこなかったことにも愕然としました。

極低線量であっても、これほどに生命を破壊するものとは共存できない。人類の生存のためには、核を
廃絶しなければならないことを、これまで以上に確信させられました。

また国はこの判決を受け入れた以上、放射能を垂れ流さなければ稼働できない55基の原発、六ヶ所村や東海村の再処理工場を、これまで通りに稼働させることはできなくなったと書かれていました。

そして、核との決別が一日でも早くくることを願って、私たちはこの本の再版を決断しました。

なお、できましたら、最寄りの図書館へ寄贈してくださいますようお願いします。
これから生まれてくる子どもたち、すべての子どもたちのために。
と結ばれていました。


「死にいたる虚構」、読んでみました。
まだ、読了には至っていません。
というより、まだ前半です。
やはり、私の志向系統と頭脳レベルの問題は大きく、読破するには時間がかかりそうです。

それでも、低線量放射線の恐ろしさは十分に伝わってきました。

そこで、さっそく佐世保市の市立図書館へ持って行きました。
言わずもがな、佐世保市は長崎県にあります。長崎県は、世界で最後の原爆被害を受けた地域です。喜んで受け取って下さるだろうと何の疑いもなく受付に申し出ました。

ところが・・・あっさり断られました。
「一般図書の寄贈はすべてお断りしています。地元の方が書かれた郷土史など、特別なものは郷土コーナーの係りの者が検討しますが、それ以外は云々・・・」

思いがけないお返事に目をパチクリ!
「あのですねぇ、この本は云々・・・」と内容の説明に入ろうとすると、
「いえ、よーくわかります。皆さん素晴らしい本だから寄贈したいと思われるんですよね。しかし、それを皆受け入れていたのでは図書館の管理がたいへんなのです。スペースの問題、事務手続き上の問題、いろいろあるんですよ。必要な本は選考スタッフがよく検討吟味して購入しますので、そこのところをご理解いただいて・・・」
「でもですね、この本は一般図書といっても非売品なのです。この貴重な文献を・・・」
「ええ、わかります。皆さん、貴重な本だ、素晴らしい本だと言ってお持ちになりますから」

こりゃダメだ。。仕方なくあきらめました。

私が以前住んでいた地域の図書館では、いつも快く受け取ってもらい、数日後にお礼のハガキさえ届いていましたが、でも、それはかなり前のこと、ここ数年は持ち込んでいなかったので、現在はどうだか定かではありません。

疑問に思って、同じ本を注文した二人の友人に尋ねました。

埼玉県に住む友人によると、そこの図書館は受け取ってくれたとのこと、ただし、「その後の処理に関しては一任してください」と言われたので、しばらくしたら検索してみて置かれているかどうか確認するつもりだと言ってました。

東京に住む友人は、まだ持ち込んでいないけど…と言って、図書の寄贈に関する他地域の様子をネットで調べてみてくれました。

それによると、
最近の公立図書館は、財政難のため貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できず、そこで市民からの寄贈を募っているが、持ち込まれるのは引っ越しなどで不要になった本が多く、そのまま廃棄されるケースが多い。関係者からは「図書館が本の処分場になっている」との嘆きも聞かれる。
とか、
購入にせよ、寄贈にせよ、蔵書にするしないは「選書」の問題。「選書」は図書館の仕事、それも根幹をなす本来業務であり、そのエキスパートが司書である。
とか、
寄贈した本が廃棄されたことについての訴訟もおきている。
などの記事がありました。

いずれにしても、図書館がすべての寄贈本を蔵書としてくれるよう期待するのは間違いのようです。
が、一律に中身も見ずに拒否をするのではなく、一応選考し、その結果については一任するとか、処分する前に結果を知らせるとか、その辺の違いがあるように感じました。

また、私が以前利用していた図書館では、その頃「寄贈コーナー」があって、「市民の皆さんから寄贈された本です。ご自由にお持ち帰りください」と書かれ、たくさんの文庫本などがならんでいました。そして、誰からも必要とされず、ずっと置きっぱなしになっている本は、時期がくると廃棄処分にされていたようです。

大消費時代の現代・・・紙もインクも大量消費して、書いた人の労苦も、伝えたい発行人の情熱も消えてゆくのは致し方ないと思いますが、願わくば、図書館の皆さま、拒否する前に、寄贈本の中身を一度ご検討いただけないでしょうか?
もしかしたらそれは、市民にとって、得難いお宝かもしれないのです。
よい暮らしを生み出す賢い市民を育てる、貴重な教材かもしれないのです。

ちなみに、同じ佐世保市の「佐世保空襲資料室」と、長崎市の原爆資料館では、喜んで受け取ってくださいました。

図書館は、そこに住む人々の文化レベルを測る物差しとなり得るかもしれません。
もちろん、箱物の大小には関係なく。。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする