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地震からの事業復旧 ソニー熊本の教訓

2018-03-31 07:00:00 | 経済フロントライン

3月10日 経済フロントライン


おととし4月
震度7の揺れが熊本を襲った。
菊湯町にあるソニーの半導体工場。
カメラのイメージセンサーの製造で世界シェア7割を誇るこの工場も激しい揺れに見舞われた。
工場全体の被害個所は1万か所以上。
この工場では
東日本大震災のあと
もともとあったBCPを数回にわたって強化。
復旧の目標を製品の在庫が尽きる2か月としていた。
しかし想定が不十分だったため
実際には3か月半かかってしまった。
(ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング 上田康弘社長)
「準備をしておけば今回の熊本地震でもかなりの被害を抑えることができた。
 そういうことをやっていない。
 これが非常に反省点。」
復旧が遅れたのが半導体製造の中枢となる部屋 クリーンルームである。
微細な加工が行われるため
わずかなホコリが入ることも許されない場所だが
天井と壁が破損。
外の空気が入り込み一切の製造ができない状況だった。
BCPではクリーンルームは強固だとして壊れることを想定していなかった。
何から手をつければいいのか
実は参考になる事例があった。
東日本大震災で被災した半導体メーカーのルネサスエレクトロニクスである。
ルネサスでもクリーンルームが壊れたが
全国から技術者を集め一斉に投入。
片づけや電機の復旧
設備の修理など
同時並行で進めた。
工場長の鈴木さんは地震のあとルネサスを急きょ訪問。
そこで得た情報をもとに指示を出す。
全国から集められた1000人が一斉に投入された。
ようやく復旧が進んだが
クリーンルームの再稼働だけで約1か月かかった。
ソニーでは
地震が起こる前にルネサスの教訓をBCPに反映させていれば
もっと早く復旧ができたはずだと考えている。
(ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング 上田康弘社長)
「あれは東北の話で熊本では起きない
 熊本は地震がない県だとどこかで思っていて
 真摯に学ばなかったのがすごく反省。」
これ以上の復旧の遅れは許されない。
4月29日(被災から14日目)
社長自ら檄を飛ばす。
「ソニーではなくサムスン(韓国)やオムニビジョン(米国)に任せた方がいいのか。
 生産が立ち上がれば我々の信用はより増して
 ソニーがそういうなら完全に任せられるという関係がもう1回築ける。」
しかし新たなBCPの不備が明らかになった。
揺れで破損した半導体の製造装置。
なかでも問題となったのが高温で加工する時に必要なガラス部品である。
地震でほとんどが割れてしまい工場にあった予備の部品だけでは足りなかった。
BCPでは“復旧計画に基づいて材料手配を早急に行う”と記されていた。
しかし調達先として予定されていた部品メーカーに連絡してみると
(調達担当 佐藤英樹さん)
「部品のリストを用意して
 最初はそれを片手に部品メーカーのところに行ったが
 “こんなにたくさんありませんよ”と。」
結局 県内のライバル企業に手あたり次第連絡して協力を求めることにした。
想定していなかった事態に配送はスムーズに進まなかったと言う。
(調達担当 佐藤英樹さん)
「どういう方法でどこにどう運んだらいいか
 そういう想定がなされていなかったので
 スピード感という点では1歩2歩遅れたかもしれない。」
2か月の復旧目標は実際には3か月半かかったソニー。
被災した時には他社と部品を融通する仕組みをつくるなど
新たな対策を進めている。
(ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング 上田康弘社長)
「我々は熊本地震でいろいろなノウハウがある。
 もう皆様のところに押しかけてでも
 この話を聞いてくださいと
 必ず皆さんのところでも同じようなことが起きるリスクがありますよと
 話を聞いてください
 理解してください
 ということは強く言いたいと思う」。




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ナイキと日本企業 知られざる物語 ③ナイキ創業者フィル・ナイト氏 日本へのメッセージ

2018-03-30 07:00:00 | 経済フロントライン

3月10日 経済フロントライン


(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「日本のビジネスマンがアグレッシブでないとか
 起業家精神がない
 リスクをとらない
 という見方は本当だとは思いません。
 将来は言われているよりずっと明るいでしょう。
 私は楽観的です。
 アメリカのビジネスマンも振り返ってみれば同じようなときがあったと思います。
 学生としては優秀でしたが
 リスクをとることを少し怖がる
 失敗を恐れる時代がありました。
 それを今は乗り越えたと思います。」
Q.日本の若い世代や若いビジネスマンに何かメッセージはありますか?
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)「
「私が若い頃に学んだ教訓をお伝えしたいと思います。
 『失敗してはいけないのは最後に挑むときだけだ』。」
 The only time you musut not fail,
      isu the last time you try.


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ナイキと日本企業 知られざる物語 ②相次ぐピンチ ナイキ支えた日本企業

2018-03-29 07:00:00 | 経済フロントライン

3月10日 経済フロントライン


創業から7年後の1971年。
ナイトさんは大きなピンチを迎える。
急拡大を疑問視する銀行から取引の終了を告げられたのである。
新たに融資をしてくれる銀行を見つけたものの
突然 取引を止められ会社が破たんする危険性があった。
ナイトさんはある経済誌の記事を思い出す。
(「SHOE DOG」より)
日本は生まれ変わった。
世界第3位の経済国になった。
すさまじく精力的な日本の総合商社。
時にプライベートバンクとして
あらゆる会社に有利な条件で貸し付けを行なう。
ナイトさんはポートランドにも日本の商社があると知り頼ろうとする。
日商岩井だった。
ポートランド支店で営業を担当しナイトさんと接した 皇孝之さん(75)。
当時28歳。
アメリカに赴任したばかりで新しいビジネスを探していた皇さんは
ナイトさんの熱意に触れ
社内で「支援すべきだ」と主張する。
(皇孝之さん)
「我々がよく言っていたのは“当たるのは100に3つ”。
 仕事仕事がみんな当たる
 そんなことは絶対にない。
 100のうち3つに入っていたという感触は当時はありませんでした。
 当たる感触が出てきたのは2年ぐらいかかりますね。」
当時アメリカにはシューズメーカーは少なく
ビジネスチャンスがあると考えた。
皇さんはナイトさんの会社に関する詳細な書類を作成。
日商岩井が商品の仕入れなどをサポートするようになる。
(皇孝之さん)
「“近い将来アメリカで1番のスポーツブランドにする”と
 高らかに宣言するわけです。
 日商岩井としても
 彼らの夢を買った
 夢に投資した。」
この年(1971年)ナイトさんはナイキブランドを立ち上げる。
クッション性の高さや独自のデザインで
ヒット作を次々と売り出す。
しかし
ナイキ誕生から4年
急拡大のひずみが噴出する。
発行した小切手が口座の残高不足から換金できなくなったのである。
従業員への給料も払えなくなった。
しばらくして銀行は取引を停止。
融資の回収に走る。
このときナイトさんがワラをもつかむ思いで頼ったのが日商岩井だった。
対応した経理担当の伊藤忠幸さん。
(伊藤忠幸さん)
「ナイトさんが血相変えて僕のところに来たんです。
 『ミスターイトー とにかく来てくれ』と。
 一緒にナイキ本社があるビーバートンのオフィスに行ったんですね。
 黒い服を着た人が
 かばんに配達された小切手なんかをボコボコ入れているんです。
 びっくりして
 “Who are you?”
 “What are you doing?”と言った。
 “バンク・オブ・カリフォルニア(メインバンク)の代理人だ”と。」
伊藤さんは銀行も損失を抱えていると聞いていた。
その穴埋めのために債権の回収に走ったと考えていた。
将来性のある企業を銀行の事情でつぶしてはならない。
伊藤さんはナイトさんとともに銀行に向かい
“日商岩井が借金を全額肩代わりする”と伝えた。
伊藤さんがそのことを上司に報告したのはすべてが終わったあとだった。
(伊藤忠幸さん)
「将来 未来に向かってナイキ号という飛行機がテイクオフする瞬間
 そこでね バンク・オブ・カリフォルニアが来て
 ちょっと都合が悪くなったから燃料抜くぜというようなもの。
 これから いよいよというときになんて事するんだ。
 ものすごく腹が立ったんです。
 権限規定なんか無視して
 行けというようなもので
 やってしまった。」
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「日商岩井に“ノー”と言われたら廃業でした。
 彼らとは親しく付き合ってきたし
 当社のことをよく知っていました。
 経営手法も信用してくれて大きな会社になれると信じてくれていました。」
その後 靴からアパレルなどへ事業を拡げ
世界一のスポーツ用品メーカーになったナイキ。
本社の一角に皇さんや伊藤さんへの感謝を込めて“日商岩井ガーデン”という日本庭園を造った。
日商岩井はその後 合併して「双日」となったが
40年以上前の出来事が今も語り継がれている。
(双日 藤本昌義社長)
「フィル・ナイトさんからいただいたシューズ。
 僕らにとっては伝説。
 当時 日商岩井でナイキを創った人たちは裏ではいろんなことを言われたと思う。
 “こんなところに貸すのか”と。
 結局それを熱意でもって論破して
 最終的にはああいう形で融資をした。
 そういう熱意をいまひとりひとりに持ってほしい。」
ナイトさんを支援した皇さん。
皇さんのもとにはナイトさんのサインが入った本が届けられた。
いま何を思うか。
ナイトさんに向けたメッセージ。
(皇孝之さん)
「本をありがとう。
 この行が気に入りました。
 あなたは“私の兄弟”だ
 いつの日か私の孫たちに伝えたいです。
 “おじいちゃんはあのナイキを創るのに貢献したんだよ”と。」
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「すごい 本当に最高だ。
 胸がいっぱいだ。」
「最も語りたかったのは創業当初のことです。
 株式公開してからのことはみんなが知っています。
 でも皇さんや伊藤さんのことを知っている人はほとんどいないでしょ。
 彼らのことこそ知って欲しいのです。」



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ナイキと日本企業 知られざる物語 ①原点は日本企業 ナイキ創業者のベンチャー魂

2018-03-28 07:00:00 | 経済フロントライン

3月10日 経済フロントライン


世界最大のスポーツ用品メーカー ナイキ。
いまその自伝が注目を集めている。
タイトルは SHOE DOG
20万部を売り上げたこの本には日本人の多くが知らない事実が記されている。

アメリカ北西部オレゴン州のポートランド。
自然豊かで気候も温暖。
“住みたい町”のランキングで上位になることも多い町である。
ナイキ本社はポートランド中心部から車で20分ほどの郊外にある。
敷地面積はなんと東京ドーム35個分。
さまざまなスポーツ施設が
従業員のレクリエーション
さらに製品の開発テストに使われている。
創業者のフィル・ナイトさん(80)。
2月で80歳になった。
大学時代は地元で陸上選手として活躍。
卒業後はスポーツシューズを売るビジネスをしたいと考えていた。
授業でレポートを書いている時に
日本のものづくりに大きな可能性を感じたという。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「私はスタンフォード大学のビジネススクールで論文を書いていました。
 もし日本製のカメラがドイツ製のものより売れるのなら
 スポーツシューズも同じだ。
 アディダスやプーマなど市場を独占していたドイツ製のシューズより売れるはずだと考えました。」
戦後15年余。
アメリカでは日本製のカメラの売り上げがドイツ製のカメラを追い抜こうとしていた。
スポーツシューズの分野でも同じことが起こると考えたのである。
しかし「日本に行く」と言うと祖母が
「日本ですって?
 戦争に負けたことを自覚していない連中もまだいるわ。
 目をくり抜かれるわよ。」
ナイトさんは動じなかった。
東京に乗り込み
スポーツ用品店を次々と訪ね
ある靴を見つける。
軽くて耐久性に優れた靴。
神戸のメーカーが作ったものだった。
当時 24歳。
ナイトさんは“アメリカのビジネスマン”だと言ってそのメーカーに飛び込む。
「今日はお時間をいただきあるがとうございます。
 フィル・ナイトと申します。」
「どちらにお勤めですか?」
無職のナイトさん
予想外の質問だった。
「オレゴン州ポートランドの“ブルーリボン社”です。」
とっさに口にしたのはありもしない会社の名前だった。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「“私はビジネスマンだ”と言おうとしていたので会社名が必要でした。
 でもそれをちゃんと考えていなかったのです。
 もしまた同じ状況になれば
 正直に“これから会社を始めるつもりだ”と言うでしょう。
 そのときはプレッシャーを感じてあのように言ってしまったのです。」
ナイトさんがプレゼンを終えると重役たちは席を離れ部屋を出て行ってしまった。
交渉は失敗だと思ったナイトさん。
ところが数分後
重役たちはシューズを手に戻り
“アメリカでの販売を任せる”と答えたのである。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん) 
「彼らは私が若くまだ世間知らずだとわかっていたはずですが
 話しているうちに私がシューズに少し詳しいと知って真剣な議論になりました。
 アメリカ西部13州で販売してもいいと言われて
 とてもうれしかった。」
ナイトさんが訪ねたのはオニツカ
現在のアシックスである。
当時社長だった鬼塚喜八郎さん。
ナイトさんを見て“終戦直後に創業した時を思い出した”とのちに記している。
(「私の履歴書」鬼塚喜八郎著)
創業時にリュックをかついで全国を歩いた私の姿がダブり
この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。
帰国後ナイトさんは大学時代のコーチ ビル・バウワーマンさんと会社を設立。 
靴の販売に加え開発にも着手する。
その記録がオレゴン大学に残されていた。
よりクッション性の高い靴底などを研究して
オニツカに提案。
少しでもいい靴を作りたいと取り組んだのである。
当時オニツカ側で開発を担当した林英雄さん(78)。
(元オニツカ シューズ開発担当者)
「記録をとるためには軽さが大事とか
 いろんなことを言ってこられて。
 シューズを分解して
 バウワーマンさんがこういうシューズがあったらうれしいというアイデアを送ってくれた。
 あとは我々が組み立てて
 何べんも失敗して
 くり返して
 こういうものを出したら
 非常に満足だと。」
ナイトさんの会社は順調に売り上げを伸ばす。
創業から3年後には自宅の仮オフィスを出て専用オフィスを構えるまでになった。
しかし問題も抱えていた。
融資を受けていた銀行から
経営の安定には現金が少ないと指摘されていたのである。
ナイトさんは収益のすべてを靴の仕入れにつぎ込んでいた。
1足でも多く売りたかったからである。
一方で
現金が不足し
何かトラブルがあれば破たんする可能性があった。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「上手くいって成長できると信じていました。
 だから収益のすべてを再投資していました。
 さらに当時は会計士としても働いていたのですが
 給料の半分はつぎ込みました。
 当時はベンチャーキャピタルなどありませんでした。
 だからそうしたんです。」
成長を目指して走り続けたナイトさん。
銀行の指摘にも耳を貸さず
独自の道を進んだのである。


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草津へのエール 

2018-03-27 07:00:00 | 編集手帳

3月4日 編集手帳

 

 一たび濯(すす)げば形容(かたち)端正(ただし)く再び浴(あび)れば万病悉(ことごと)く除かる、
とは8世紀の出雲風土記にある温泉の効用を説いた一節である。
大地からとうとうとわき出る湯に古来、
日本人は特別な思いを抱き続けてきた。

文豪たちもまたしかり。
『温泉文学事典』(和泉書院)を開くと近代以降の800超もの作品が紹介されている。
湯煙や硫黄の香りの向こうに目に映らぬ何かを見るのだろう。

長野や静岡と並び、
しばしば舞台となるのが群馬だ。
<時間湯のラッパが午前六時を吹くよ。
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば
 草津の町はただ一心に脱衣する。>。
昭和2年、
白根山方面を歩いた高村光太郎の詩である。

本白根山の噴火から一月余り、
草津の温泉街はにぎわいを取り戻しつつある。
ただ、
まだ本調子ではないらしい。
「今は、
 別府行くより、
 草津行こうぜ」。
大分県別府市がこんな新聞広告でエールを送ったというから泣けてくる。

「いでゆ奇談」「ざぶん」「怪人二十面相の湯」…。
事典にある数々の作品名が想像をかき立てる。
あぁ、
もろもろ投げ出し、
どっぷり湯につかりたい。



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東日本大震災から7年 動き出す福島のビジネス ④スポーツで人を呼び込め!

2018-03-26 07:00:00 | 経済フロントライン

3月3日 経済フロントライン


福島県いわき市。
地元のサッカーチームのクラブハウスと商業施設が一体になった施設が
去年6月にオープンした。
設立して3年目の社会人チーム いわきFC。
去年は天皇杯でJ1のチームに勝つなど
地元では人気急上昇中である。
チームの総監督であり施設を運営する会社のトップ 大倉智さん。
施設にはレプリカのユニフォームなどを扱うスポーツブランドの店に加え
東北では初めての出店となるレストランやおしゃれなカフェが並ぶ。
施設作りのモデルにしたのはアメリカのスポーツビジネス。
スタジアムを中心にホテルや飲食店街など一帯で開発し
人を呼び込むというものである。
建設費など22億円を投じたのは
いわきFCの親会社でスポーツビジネスを手掛ける東京の会社である。
CEOの安田秀一さん。
震災後 被災地に物資を無償で届けてきたが
復興に向け
スポーツを核に独自に収益を生む形を考えたと言う。
(ドーム 安田秀一会長兼CEO)
「復興じゃなくて
 復興はゼロにするところだけど
 ゼロからプラスにしなきゃいけない。
 全体で地域活性化進められれば面白いんじゃないのかなと思う。」
集客のため運営の仕方も工夫している。
その1つが選手のトレーニングや練習試合の公開。
スポーツ教室も無料で毎週開催。
毎回250人が参加する盛況ぶりである。
(参加者)
「楽しかったです。」
「家族で楽しめる施設っていうところですごくいいなと思う。」
さらにプロや大学など他のスポーツチームの合宿も誘致。
これまでに10チームが訪れ
宿泊には地元のホテルや旅館を利用している。
(J3 グルージャ盛岡 DF久保海都選手)
「相当いい環境だと思う。」
(J3 グルージャ盛岡 DF田中舜選手)
「あそこまで設備が整っているところもないので
 大変ありがたい。」
(いわき湯本温泉旅館協同組合 草野昭男理事長)
「暗く落ち込んでいたところにポッと明るい光が
 兆しが見えたということで
 ぜひ地域で盛り上げていきたいと思う。」
客足は伸び続けている。
施設全体での来場者は半年で22万人。
当初1年かかると見込んでいた数字である。
プロジェクトは始まったばかり。
施設を運営する大倉さんの視線はこの先に向いていた。
(いわきスポーツクラブ 大倉智CEO)
「被災地なんだけど
 同スポーツで創生していくかというプロジェクトなんです。
 共感を得てそれがお金を生んで
 さらにそのお金をまた投資していく。
 このサイクルを作っていかなきゃいけないので
 絶やすことなくやり続けないといけない。」



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東日本大震災から7年 動き出す福島のビジネス ③福島に人を呼び込め!

2018-03-25 07:00:00 | 経済フロントライン

3月3日 経済フロントライン


福島に人を呼び込む秘策を考えている銀行がある。
福島銀行である。
10億円の資金でこれまでにないファンドを作った。
最大の特徴は
過去に事業を起ち上げ失敗した経験を持つ
倒産経験者に投資すること。
福島に本社を置くことを条件に
最大で1億円投資する。
その名も「福活ファンド(福島で復活)」。
経験を盾に福島で復活し
地元経済を活性化してもらえないかと考えたのである。
市場が広がっている画像処理サービスや
ITを生かしたマーケティング事業など
これまで5社に投資している。
(福島銀行 森川英治社長)
「海外の事例みると失敗経験をプラスの方に評価する。
 今まで企業やったことない人に比べ
 成功する確率が上がるんじゃないかと考えた。
福活ファンドから4,300万円の投資を受け
郡山市で会社を始めた黒澤伴次さん。
主力総品はアジアなどの新興国で需要が高まっている業務用コピー機である。
中古品を安く仕入れて新品同様に再生。
フィリピンなどに輸出してる。
11年前 運送会社の経営に失敗したという黒澤さん。
その後 千葉県で中古コピー機の販売を始めたが思うように資金調達ができなかった。
福島に来て資金を得たことで
事業を一気に拡大することができたと言う。
(ドリームプロトコル 黒澤伴次社長)
「福活ファンドからの支援は本当にありがたい話しで
 もう海外に100台200台じゃなく何千台と売っていきたいと思っている。」
ファンドでは起業する人たちに
①地元での雇用を求めている。
黒澤さんは20代を中心に8人を雇った。
(社員 事務職)
「一から会社を作ることができるというので
 今の仕事としてはやりがいを感じています。」
(社員 デザイン職)
「海外展開するとなると
 そういった経験はなかなか積めるものではないので。」
ファンドではさらに②地元企業との連携を求めている。
黒澤さんは地元の鉄工所と
コピー機に欠かせないトナーの保管装置の共同開発を進めている。
(昭栄スチール鉱業 木村哲也部長)
「社長いらしてからはいろんなおもしろい仕事話しいただけるので
 いろんな意味で挑戦してやらせてもらっています。」
ファンドを運営する福島銀行は
月に1度投資先を訪問し事業の進捗を確認している。
売り上げを伸ばす会社は手応えを感じていると言う。
(福島銀行 森川英治社長)
「福島というのがいろいろな人に受け入れて
 地元の人も新しいことにチャレンジしていく。
 そういう場所になっていったら福島はどんどん発展していくわけですから
 それのひとつのきっかけになればいい。」



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東日本大震災から7年 動き出す福島のビジネス ②コメ復活に光明

2018-03-24 07:15:00 | 経済フロントライン

3月3日 経済フロントライン


一昨年 避難指示が解除された南相馬市小高区。
震災前 約800の農家があったがほとんどが農業を再開できていない。
この地域でいち早くコメ作りを再開した佐藤良一さん。
思うような値段が付かないなかコメ作りをあきらめる人たちを見てきた。
(佐藤良一さん)
「買ってもらえない状況が続いた。
 このままだと荒れた農地 荒廃地になるばかり。
 何らかの手立てを打たなければいけないと切実に思っていた。」
その佐藤さんが作ったコメを買い取り“パックごはん”として売り出したのが
仙台市に本社があるアイリスオーヤマである。
お茶碗1杯分150グラムで約90円とお手頃な価格。
2月 東北各県の100の生協で販売を開始した。
(客)
「味が圧倒的。
 香りがおいしい。」
「150グラムというのはちょうどいいですね 私らには。」
(アイリスフーズ 山田次郎社長)
「農家が米を作ってもなかなか売り先がなかった。
 私たちが安定して仕入れることで
 帰還された方が安心して米を作れる
 そういう思いをもとに南相馬の米に目をつけた。」
このパックごはんにはコメの味を引き立てる独自の技術が使われている。
保管から精米 包装までの全工程を15℃以下で行う低温製法で甘みが増すと言う。
アイリスオーヤマでは3月中に首都圏でも販売を開始したいと考えている。
この日営業担当者が訪れたのはグループ企業のホームセンター。
(ホームセンター担当者)
「試食イベントは出来ない?」
(営業担当者)
「試食は出来ます。
 食べてもらったら買ってもらえると現場の声でわかった。
 チャンスがある商品なので
 ぜひ拡販を一緒にやっていきたい。」
高齢者や共働き世帯が増え
パックごはんへのニーズが高まるなか
この会社ではさらに売り場を増やしていこうとしている。
(アイリスフーズ 営業本部 吉村洸臣さん)
「味も美味しいというのがわかってくると自然にリピートしていただける。
 パックごはんの市場は精米の10分の1
 その規模を2割 3割まで上げていって
 新しい食文化を作れるようにやっていきたい。」
コメの販売先に一定のめどがつくなか
農家の佐藤さんはこの春高校を卒業する2人の若者を採用することにした。
その1人 蒔田詩織さん。
小学5年生の時に被災した。
家は代々農業をしていたが津波の被害を受け再開出来ていない。
震災から7年
ようやく子どものころからの夢だった農業の道を歩み始める。
(蒔田詩織さん)
「私たちみたいに
 若くても農業に興味があるとか農業やってみたいという人がいると思うが
 言い出せない人が多い。
 若い人がどんどん発言して
 農家になっていけるようにしたい。」
佐藤さんは今後も若い人たちを採用し
コメ作り復活の担い手として育てていきたいと考えている。
(佐藤良一さん)
「いかにして
 自分が考えているやりがいがあるものを作ったりやりがいのある農業だと
 一日も早く理解してもらう。
 その人たちが自信をもって同じ世代に言える
 そういう職場にしてあげたい。」



 

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東日本大震災から7年 動き出す福島のビジネス ①福島沿岸部に最先端ビジネスを!

2018-03-23 07:00:00 | 経済フロントライン

3月3日 経済フロントライン


南相馬市をまわるコンビニの移動販売車。
去年10月から国内初となる あるサービスを始めている。
「アジフライ3つと
 とりのから揚げはねえのか?」
7分後
飛んできたのは四角い箱が付いたドローン。
お待ちかねのアジフライ。
これはローソンと楽天が始めた実証実験である。
ドローンは3キロ離れたコンビニでアジフライを積んで離陸。
あらかじめプログラムされたルートに沿って自動的に飛行する。
南相馬市はロボット実証区域に指定されていて
ドローンを飛ばす手続きなどが簡素化されていることなどから
実験の場所に選ばれた。
(楽天 ドローン事業部 谷真斗さん)
「安全性を確保のためのオペレーションなど
 ノウハウとしてたまってきている。
 こういうフィールドで実験を住み重ねることが大切。」
南相馬市は
福島県の沿岸部に最先端の企業を集積させようとする国の構想に基づいて
ドローン以外にロボットなど様々な産業を誘致しようとしている。
(南相馬市 経済部 神沢吉洋総括参事)
「ピンチをチャンスに変える
 有効活用していくことは極めて意味がある。
 世界中 日本全国から
 ロボットの研究者 企業に集まって利用していただきたい。」
国の構想を背景に
再生可能エネルギーの分野で企業誘致を進めているのが浪江町である。
震災前は約1,000社の企業があったが
いま営業しているのはわずか88社。
復興には新たな企業の誘致が欠かせない。
(浪江町まちづくり整備課 徳村勇二郎さん)
「原子力に頼らない再生可能エネルギー
 最先端の技術を町に持ってきていただく。」
去年の秋
避難指示の解除後に最初に進出を決めたのが日産自動車の子会社である。
電気自動車のバッテリーを住宅用の蓄電池に転用する工場を春から稼働させる。
進出の決め手は日産の工場から1時間という交通の便の良さ。
さらに最先端の技術を積極的に支援するという町や国の方針だった。
(フォーアールエナジー 牧野英治社長)
「電気自動車と再生可能エネルギーを活用したまちづくりをやりたい。
 我々がやりたいこととぴったりだったので浪江町を選んだ。」
いま8年前に販売を始めた日産の電気自動車が廃車になる時期を迎え
使用済みのリチウムイオンバッテリーが増えている。
この会社では各地に点在していた再生工場をここ一か所に集約。
浪江町を再生バッテリーの世界的な開発拠点にしたい考えである。
(フォーアールエナジー 牧野英治社長)
「アメリカ ヨーロッパにも適用できる開発。
 世界中からここの技術を勉強したり
 トレーニングを受けるために人が来る。
 ここが開発拠点なので
 人がたくさん集まるような事態もあっという間に起こると思う。」



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SAKE from NY こだわりの造り酒屋 

2018-03-22 07:00:00 | 報道/ニュース

3月3日 国際報道2018

ブルックリンにオープンした日本酒が飲めるバー。
実はニューヨークで初めてできた酒蔵に併殺されている。
店の目玉商品は純米吟醸の加熱処理をしていない生酒。
その香りを楽しむためにワイングラスでいただくのがブルックリンスタイルである。
(客)
「フルーティーな味わいがあるよ。」
“もろみ”と呼ばれる発酵途中のお酒が飲めるのも造り酒屋ならでは。
ここを起ち上げたのは
ブランドン・ドーンさん
ブライアン・ポーレンさんの2人である。
酒造りに取り組む前は
ドーンさんは医療関係の研究者
ポーレンさんは金融マンをしていた。
日本酒の魅力に取りつかれたのは5年前。
友だちの結婚式で日本を訪れた時だった。
(ドーンさん)
「アメリカの寿司屋で酒を飲んだことがあったけど
 日本で飲んだのは別物だった。」
(ポーレンさん)
「アメリカでは手軽においしい日本酒が飲めない。
 それなら自分たちでつくればいいって思い立ったんだ。」
自分たちの手で日本酒を作りたいと思い立った2人は
日本の蔵元で酒造りを見学。
そして酒造りの場所に選んだのはニューヨーク。
実は水道水がアメリカでもトップクラスのおいしさだからなのである。
コメは酒造り用のヤマダニシキ。
南部のアーカンソー州から取り寄せた。
そして設備は地元の業者にオーダーしたり日本などから輸入してかき集めた。
英語に翻訳されたテキストとネット動画を頼りに試行錯誤を重ねた。
1年半をかけてようやく納得のお酒が出来上がった。
(ドーンさん)
「ものづくりが好きなんだ。
 僕が造ったものを楽しんでもらうのがうれしい。
 酒造りはアートと科学が混ざっているところがいいよね。」
ニューヨークで作る日本酒。
その味わいが広がり始めている。



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映画に秘められた日中の絆

2018-03-21 07:00:00 | 報道/ニュース

3月2日 国際報道2018


映画「空海ーKU-KAI-美しき王妃の謎」。
唐の時代
長安の都で仏教を学ぶ空海が
中国の詩人白楽天とともに
王宮の謎を解いてゆく物語である。
俳優だけでなく製作スタッフも日本人と中国人が協力して製作された。
先に上映された中国での興行収入は日本円で90億円に達している。
(観客)
「ストーリーも両国の俳優も素晴らしかった。」
日本での公開を前に来日したチェン・カイコ―(陳凱歌)監督。
日本の俳優やスタッフと映画を作り上げた喜びをかみしめていた。
(陳凱歌監督)
「中国と日本の芸術家が力を合わせて
 日中双方で楽しめる映画ができたことはとても素晴らしいことです。」
今回の合作映画の原点をたどると
90年代から続くある日本人との交流があった。
3年前に亡くなった録音技師の山方浩さん(享年56)。
20代のころ
西安で語学留学をしながら映画界に飛び込み
駆け出しの陳監督やチャン・イーモウ(張芸謀)監督と知り合った。
当時 中国の映画製作は世界から大きく出遅れていた。
編集作業などは技術が高い日本などで行うことが多く
陳監督の代表作の多くも日本で仕上げられた。
毎年のように東京を訪れていた陳監督らを手助けしたのが山方さんである。
堪能な中国語を生かし
日中の映画関係者をつなぐ役を積極的に引き受けたという。
(陳凱歌監督)
「山方さんは仕事熱心で努力家でした。
 性格も明るくいつも冗談を言って私たちを笑わせていました。」
山方さんは
日本人と中国人のスタッフがより親しくなれるように地元の居酒屋に連れていくなどしていた。
当時 陳監督とともに日本へ通った録音技師のタオ・ジン(陶経)さんも山方さんと親交を深めた。
(陶経さん)
「山方さんがいたから交流がスムーズにできました。
 その交流はとても自然で
 そこには“信頼”があったのです。」
さらに山方さんは
若手の中国人技術者が日本で研修を受けられるように奔走した。
20年前 研修を受けたアン・ウェイ(安巍)さん。
(安巍さん)
「日本へ行ったときはいつも一緒でした。」
研修中の安さんを山方さんは自費で日本各地へ案内してくれたと言う。
(安巍さん)
「山方さんに恩返しするためにも
 私は若手を上手に育てていきたいと思います。」
しかし「空海」の政策が行われている最中の3年前
悲しい知らせが届いた。
ヒマラヤで中国登山隊のドキュメンタリーを撮影中だった山方さんは
地震による雪崩に巻き込まれ命を落としたのである。
中国の映画関係者は山方さんの死を悼んだ。
山方さんは中国映画界の発展に欠かせない存在だったと
多くの人が記憶にとどめている。
(陳凱歌監督)
「山方さんは日中両国の映画の発展に積極的に力を注ぎました。
 両国の映画関係者が良い関係を保つために
 我々がしてきた交流を次の世代にも続けてほしいのです。」



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“民泊”新スタイル 「Airbnb」×吉野杉

2018-03-20 07:00:00 | 報道/ニュース

3月2日 国際報道2018


奈良県吉野町に去年オープンした宿泊施設「吉野杉の家」。
吉野のスギとヒノキで建てられている。
使われたのは樹齢100年前後の高級木材。
キッチンなど水回りもスギやヒノキでしつらえ
吉野の木材ならではの美しい木目と豊かな香りを楽しめる。
この日 利用したオーストラリアの親子も目を見張っていた。
(オーストラリアからの宿泊客)
「とてもフレッシュないい香りだわ。」
もう1つの人気の秘密が
ここでしか体験できない住民による“おもてなし”である。
運営するのは地元の林業関係者など30人。
宿泊客と触れ合って“林業のまち吉野”の魅力を直接伝えようとしている。
(運営グループ代表 石橋輝一さん)
「吉野では500年前から植林しているんです。
 寺も白も神社もすべて吉野の木なんです。」
(オーストラリアからの宿泊客)
「ホストとの会話で
 町や家の歴史が聞けるのは本当に素晴らしいことだよ。」
観光客には木材を作る製材所も見てもらう。
地元では“YOSHINO”の名前が世界に広がればと期待を膨らませている。
木の家を建てたエアビーアンドビーは
“日本の地方に外国人の宿泊客を呼び込むビジネスモデルになる”と手ごたえを感じている。
(エアビーアンドビー ジョー・ゲビアCPO)
「地方への投資が今後のビジネスの鍵になる。
 “吉野杉の家”は人と地域をつなぐモデルケース。
 これは他の地域でも実践できる。
 今後 各地で展開していく予定だ。」


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「小さいから」どうしようもない世界がある

2018-03-19 07:00:00 | 編集手帳

2月28日 編集手帳

 

 街のスーパーや洋服店は一足早く入学シーズンを迎える。
先週末、
売り場を通りかかって、
入学式の洋装や黄色の帽子、
小さなズックが並ぶ光景を見かけた。

ふだんから故・阪田寛夫さんの詩集をたびたび開いているせいか、
代表作「サッちゃん」が静かに耳奥に響いた。
♪サッちゃんはね 
 サチコっていうんだ 
 ほんとはね…。

どこか切ないこの童謡は、
大人のファンが意外に多いといわれる。
そのわけについて、
詩人のまど・みちおさんに明瞭な解説がある。
一~三番に共通して出てくる<だけどちっちゃいから>に秘密があるという。

いかに元気な子供でも、
「小さいから」が理由でどうしようもない世界がある。
その真理を見事にすくい上げたと、
まどさんは言う。
だから一~三番の結びは<おかしいな><かわいそうね><さびしいな>となる。

五輪開催中、
耳を疑うニュースが流れた。
高級ブランドの標準服を導入する東京の公立小学校の児童が、
通行人から服をつままれるなどの嫌がらせを受けたそうだ。
怖かったろう。
バナナが半分しか食べられなかった頃を、
いとも簡単に忘れる大人がいるらしい。



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ラリーでアフリカに支援を

2018-03-18 07:00:00 | 報道/ニュース

2月27日 国際報道2018


ハンガリーで
アフリカの貧困問題に人々の関心を集めようというユニークなレースが行われた。
ハンガリーからはるかアフリカまでを旅するチャリティーラリーである。

1月12日
ハンガリーのブダペストに並んださまざまな車。
世界最大規模のチャリティーラリーに参加するため集まった。
2005年に始まったこのイベント。
今回はヨーロッパを中心に30カ国以上約350人が参加した。
ハンガリーのブダペストからガンビアのバンジュールまで
8、600kmを16日間かけて走る。
主催したのはアフリカへの人道真に取り組むNGO。
タイムを競うというよりは
コースの途中にある村や学校に人道支援を届けるのが大きな目的である。
参加者たちはクラウドファンディングなどを使って自分で支援金を集める。
このラリーを通じてヨーロッパとアフリカの絆を深めようとしているのである。
(主催者 サボー・G・アンドラーシュさん)
「ラリーの主な目的はヨーロッパとアフリカの間に架け橋を作ることです。
 参加者たちは自分で集めた支援金によってアフリカの人々が笑顔に変わるのを直接見るのです。」
今回このレースに日本から初めて参加したのがヘゲドゥシュ・イムレさん(51)。
24年前から日本で暮らしているハンガリーじんである。
サポート役として車の整備士である友人の竹田正敏さん(69)とのチームで走る。
(ヘゲドゥシュさん)
「8,600kmの大変な旅ですけど楽しみにしています。」
ヘゲドゥシュさんの愛車は大会史上もっとも小さな車。
多くの人にこの挑戦に目を向けてもらいたいと考えた。
まずはヨーロッパを抜けフェリーに乗ってアフリカ大陸へ。
アフリカに入り参加者たちが目にするのは雄大な大自然や珍しい光景の数々。
モーリタニアでは長い長い貨物列車も。
全長が2、5kmあり世界一長い列車とも言われている。
アフリカにはテロや誘拐事件の影響でヨーロッパからの観光客が落ち込んだままの地域がある。
参加者がSNSなどで道中の風景を発信することで
観光地のアピールにつなげてほしいという狙いもある。
(ドイツからの参加者)
Q.国にいる家族や友人はこの旅について何と?
「うらやましいと言っていますよ。」
(ハンガリーからの参加者)
「ここに来たら
 砂漠に住む人々のあたたかさや親しみを感じたよ。」
一方で旅は過酷な一面も。
ヘゲドゥシュさんも砂嵐に見舞われたり
手に入れたガソリンに不純物が混じっていたためエンジンに何度も不調をきたしたりした。
ほとんどを車中泊で過ごしたヘゲドゥシュさん。
出発から10日
モーリタニアの首都ヌアクショットに到着し
旅の大きな目的である支援物資を届けるため学校に向かった。
今回ヘゲドゥシュさんが学校への支援をしたいと考えたのは自らの経験が関係している。
ヘゲドゥシュさんが子どもの頃
ハンガリーはちょうど社会主義からの転換期だった。
国内では格差が拡大し
ヘゲドゥシュさんの家庭は経済的に苦しく食べ物にも困るほどの貧しさを経験した。
そんな苦しい時代を支えてくれたのが“第二の母”と慕うヘジネー・ガブリエラさん。
去年亡くなった。
レストランの経営者だった彼女が10代半ばだったヘゲドゥシュさんに仕事を与え
生活の面倒を見てくれたおかげで学校に通うことができたのである。
(ヘゲドゥシュさん)
「人を大事にすることを教えていただいた。
 1人では誰にも何もできないです。
 貧困の子どもたちが世界の中ですごくたくさんいますので
 第二の母からいただいたものを少しだけ返せるんだったら
 ぜひ返したいと思っています。」
貧困を抜け出すために一番役に立つ教育への支援をしたい。
知事や知人や友人の協力で集めた30万円以上の支援金を使って
ヘゲドゥシュさんが用意したのは文房具など。
(校長)
「この地区の住民の大半は貧しい低所得者です。
 子どもの着ている服や靴
 持っているノートを見れば
 家庭の貧しさが分かります。」
巨大地図を使ったクイズで子どもたちと触れ合う。
正解した子どもには自分の愛車のイラスト入りの特別なプレゼントを渡した。
(生徒)
「うれしいです。
 楽しかった。」
「もらったノートや鉛筆がうれしくて勉強したくなる。」
そしてスタートから16日後
8,600kmを走破して参加者たちはようやくゴールにたどり着いた。
ヘゲドゥシュさんも竹田さんと一緒に無事に完走である。
(ヘゲドゥシュさん)
「テレビと新聞で見ているアフリカと本当の地肌で自分の目で見ているアフリカはやっぱり違います。
 子どもたちの支援も無事に届けたし
 ゴールまで走れて安心しています。
 アフリカに来てよかった。
 またもう一度来たい。」




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「一帯一路」で変わるラオス

2018-03-17 07:00:00 | 報道/ニュース

2月27日 キャッチ!


北を中国
東をベトナム
南と西をタイなどに囲まれ
海に面していないことから“陸の孤島”とも言われるラオス。
東南アジア諸国連合の加盟国の中でも
政治・経済の両面で中国と密接な関係を持っている国として知られている。
周辺国と比べて経済面で立ち遅れていたラオスだが
近年 中国が推し進める巨大経済圏構想「一帯一路」によって
変化の兆しが見えてきている。

ラオス北部の古都ルアンプラハン。
古くから残る街並みが世界遺産に認定されたアジア有数の観光地である。
ここから来るまで15分ほど離れた山間部で
一帯一路のプロジェクトは着々と進められていた。
トンネルの建設でラオスと中国を結ぶ鉄道が通ることになる。
建設を担当しているのは中国国有の鉄道大手「中国中鉄」である。
(中国人のエンジニア)
「この規模の工事であれば
 中国でもやってきた経験があります。」
鉄道のラオス部分の長さは400キロ余。
ほとんどが山間部のため約6割がトンネルと橋という難工事である。
近くではメコン川に掛けられる橋も建設されていた。
中国とラオスを結ぶ鉄道は建設が始まって1年余だが
すでに進捗は20%を超えており
3年後の完成を目指している。
中国が進める「一帯一路」構想では
南西部の都市 昆明を拠点に
ベトナム、ラオス、ミャンマーの三方向へ鉄道の建設が予定されている。
ラオスを通るルートはタイなどを通ってシンガポールへ延びる前腸3,000kmの計画である。
このうちラオス国内を通る区間の建設費は総額60億ドル。
ラオスの国家予算の約倍にあたるが
7割は中国側からの投資である。
首都ビエンチャンでも鉄道の完成を見越して中国からの投資が進んでいる。
ショッピングモールや高層住宅が中国の企業によって建設されている。
2月2日 ビエンチャンで開かれた「一帯一路」フォーラム。
中国の政府系投資銀行などが主催し
ラオスへのさらなる投資を呼びかけた。
中国から100社以上が参加。
チャンスに乗り遅れまいと投資環境などに聞き入る姿が見られた。
(参加者)
「今はラオス発展のための重要な時期で
 中国にとっては投資のチャンスです。」
「ラオスは30年前の中国に似ているので
 私たちの経験を生かすことができます。」
中国の勢いが増す一方で
ラオスの人たちからは思いのほか冷めた声が聞かれる。
(市民)
「私たちにはよくわかりませんが物流や移動は便利になるでしょう。」
「鉄道建設のことはよく知りません。
 関係している人は少ないです。」
地元の人たちの関心が低い理由の1つに中国の“投資スタイル”がある。
現場で働いているのもほとんどが中国人。
ラオスの人には簡単な仕事しか与えられていない。
現場のすぐ隣には中国人労働者の宿舎も並んでいる。
大規模な投資もほとんどが中国へ環流し
鉄道が完成するまでラオスの人たちは恩恵を受けられなくなっているのである。
ラオスの担当大臣は
鉄道の建設が国民の雇用につながっていないことを認めながらも
鉄道建設の恩恵の大きさを強調した。
(ラオス 交通省 ラッタナマ二副大臣)
「中国・ラオス間の鉄道が完成すれば
 “陸の孤島”の物流が劇的に改善します。
 雇用改善の必要性は認めますが鉄道建設が終わったあとの問題です。」




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