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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

下谷七福神~

2007年02月17日 | ウォーキング
下谷七福神/2007/2/17南千住~三河島を歩く



小塚原回向院/常磐線・南千住駅前

江戸幕府初期この一帯はお仕置き場・小塚原と呼ばれ、220余年の間に20余万人もの人々が埋葬されたと言われる。
松下村塾を主宰し、多くの人材を育てた吉田松陰(左・黒い墓石)・橋本左内(右・堂内)らも葬られている。

明治8(1771)年には、蘭学者杉田玄白や中川淳庵、前野良沢などが小塚原で腑分けし、後に「解体新書」の翻訳のきっかけとなった。本堂の入口右手に「観臓記念碑」が展示されている。


浄閑寺[投込寺]
江戸・安政大地震で多くの遊女が死に、この寺に投げ込まれ、葬られたという。
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と謳われたという。


梅林寺
近くに行くとかすかに梅香がし境内には梅の花が咲いていた、が門は閉じられていた。


①寿永寺[布袋尊]


②飛不動・正宝院[恵比寿神]


吉原神社[浅草七福神・弁財天]


鷲[おおとり]神社=浅草酉の市発祥


長國寺[通称・酉ノ寺]鷲神社に隣接=浅草酉の市発祥

境内に正岡子規・樋口一葉の碑[子規の碑は他にもいろいろなところにあった]


西徳寺~17代中村勘三郎の墓


大音寺 
正燈寺

朝日弁財天


正覚寺

小野照崎神社


④法昌寺[毘沙門天]


正洞院

⑤英信寺[大黒天]


⑥真源寺[入谷鬼子母神]=福禄寿

鬼子母神(きしもじんまたはきしぼじん)の謂われ=仏教諸神の一で、元は鬼神・般闍迦の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛好を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法神となり、子供と安産の守り神となった。鬼の漢字のノを取って示す場合もある。

静蓮寺[真源寺に隣接]
長松寺
法精寺


三峰神~小さな神社
要伝寺

⑦元三島神社[寿老人]~JR鶯谷駅脇に立っている。

裏に回ってみると

と、とても珍しい構造になっている。
神社は石段を登った上にあり、下は定食屋などの商店なのである。
あたり一帯は、鶯谷と言えばその代名詞で、有名なラブホテル街。
車も通れないような細く曲がり入り組んだ路地に実にたくさんの、それもきれいなホテルが続く。

円光寺
永稱寺
千手院
西蔵院[根岸小学校発祥の地]


ここから更に、常磐線三河島駅まで歩くことにした。
南千住から鶯谷までは、通称国際通り・昭和通りの大通りが走る古い街で、
神社はそうではないが、寺院がたくさん隣立し、浅草の名残りが少しする。
鶯谷根岸を過ぎ、東日暮里にはいると寺社はほとんど無くなり、
狭い路地が多くなり、零細工場と住宅が入り組む。

西念寺

御行の松不動尊[おぎょう]~錦絵に根岸の松として描かれたそうで、その幹。
現在は三代目の松が植えられている。



東京朝鮮一級中学校校庭で学生が民族楽器の演奏の練習をしていた。

~常磐線ガードをくぐると、ハングルで書かれた看板の店や「韓国」がつけられた店が多くなる。

 ウォーキングには少し寒い天候であったが、歩き出すと寒さは感じなかった。
コートは脱がなかったが。
今日歩いた所もそんなに広い範囲ではないだろう。
でも、街の雰囲気はいろいろ変わる。
鶯谷駅反対側は谷中の墓地で、高台で街の雰囲気もだいぶ違うのだろうな。
今日歩いた所は、道が狭く入り組み、地図を見ても、探すのに苦労した。
また大きな公園が少なく食事・トイレにも困った。
だが、それ以上に腹が立ったのは公園で鎖を外して犬を遊ばせている集団であった。
犬が嫌いな人間は人ではないかのように我が物顔で犬を遊ばせているのだ。
困ったものだ。







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