マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン45年。

好天気のセマナ・サンタです

2017-04-14 12:30:00 | スペイン日記

プロセシオン

 今年はどうしたんだぁ? と思わせるような、まれにみる好天気のセマナ・サンタ(Semana Santa /聖週間)です。今日(413日)は聖木曜日です。4月中旬とは思えないような初夏の暑さと青空です。去年も、その前も、その前の前も雨の降る寒いセマナ・サンタだったのが、数年ぶりの良い天気です。ヴァチカンが日付を間違えたのでは?と勘繰りたくなりました。わざと雨に降られる時期に合わせるのがセマナ・サンタです。キリストの受難とその死を悼むのがセマナ・サンタなので、ヴァチカンとしては天地のすべてのものがを流さないといけないのです。

三角帽の行進

 そんな訳で毎年日付は変わります。日本では馴染みがありませんが、“あの三角帽をかぶった行進”と言えば見た人もいるでしょう。今は観光メニューにも入っているので、セビージャのセマナ・サンタの行進を見に来る日本人ツーリストも多いです。スペイン国内どこの町でも村でもそれなりのセマナ・サンタを催します。軍の行進や三角帽の行進があり、キリストを乗せた山車が出ます。聖母マリアの山車も出ます(山車は引くのではなく神輿のように担ぎます)。それらの行進や行列をひとまとめにプロセシオン(procesion)と呼びます。アンダルシア州ではそれにサエタ(saeta /宗教歌)が加わります。

三角帽の行進

 街角のバルコニーからフラメンコのカンテ・ホンド(cante jondo)を歌うカンタオル(cantaor)と呼ばれる歌手が山車の上のキリストに哀悼の歌を嘆き叫びます。そのたびに行進は止まるので、教会を出た山車が戻るのは早くても4時間後です。だから山車を担いでいるコスタレロス(costaleros /担ぎ人)は腰を痛めてしまいます。その週の聖木曜日、聖金曜日は祝日なので、月火水も休みを取れば、1週間か10日の連休となります。スペイン人には見飽きているセマナ・サンタの行列だし、それに大した信仰心度じゃないクリスチャンはミニヴァカンスに出ちゃいます。

サエタを歌うエストレジャ・モレンテ

 反対にセマナ・サンタは里へ戻り行進に参加する、と言う熱心なクリスチャンも多いです。どっちにしても、マドリードは見に来る人々と出る人々で空港も駅もごった返し、道路は渋滞です。それは毎年のことですが、今年はイスラム教徒のテロ、それも“ひき殺しテロ”がヨーロッパのあっちこっちで起きているので、街中は警察官だらけです。スペインの中でもツーリストが集中するのがセビージャ、マラガ、マドリードのセマナ・サンタの行進ですが、それらの町は大型トラックの進入が禁止され、警備が厳しくなりました。ラッシュアワーを超える人混みの中にトラックが突っ込んだらひとたまりもありません。

ポタへ

 このセマナ・サンタに食べるのがポタヘ(potaje)です。ポタヘはポタージュですが、ポタージュと言うと日本ではとろみの濃いスープですね。ここではガルバンソ豆とタラを煮込んだスープです。美味しくするポイントはたっぷりの雑魚で汁を取ることです。炒めたホウレンソウを加えますが、なかったのでグリンピースでの色添えです。これに切り刻んだ茹で卵をかけて食べます。デザートはトリィハ(torrija)です。フレンチトーストです。この二つはセマナ・サンタの定番の食べ物です。今日は聖木曜日なので、「黒いキリスト」が出ました。明日の聖金曜日もプロセシオンは続き、日曜日が復活祭です。タマゴです。チョコレートでできたタマゴを食べます。それでマドリードのセマナ・サンタは終わります。ヤレヤレ。

トリィハ

聖木曜日に出る黒いキリスト

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ブレグジットが現実となりました

2017-04-03 12:12:12 | スペイン日記

輝く太陽

 サマータイムになって1週間が過ぎました。体内時間が冬時間の僕は時間変更の翌日は朝の10時に起きました。1時間進んだので、“9時起きの体”はそのように反応してしまいました。さすがそれはないだろ、と今はサマータイムの9時(冬時間の8時)に起きるようになりました。朝は暗くても日暮れが延びたので、午後9時頃に暗くなります。スペインは一年中サマータイムで良いのではないでしょうか。

 太陽がタダのスペインを訪れるツーリスト数のトップはイギリス人旅行者です。ところが先週、ブレグジット(EU・欧州連合脱会)が現実となり、タイムリミットは2年後です。スペイン観光業者にはイギリス人旅行者の落とす金が減るのも心配ですが、ヨーロッパの27か国に住んでいるイギリス人はどうなるのでしょうか? イギリスに住んでいるスペイン人はどうなるのでしょうか?

 大雑把な数ですが、イギリスに住んでいるヨーロッパ人は330万人で、ヨーロッパに住んでいるイギリス人は120万人です。その三分の一がスペインに住んでいます。スペインの地中海沿岸の温暖なアリカンテ州(Alicante)に集中して、住民の半数以上がイギリス人の町もあります。大半が年金生活者ですが、ポンド高の今までは家も買えて、悠悠自適の夫婦生活でしたが、ブレグジットではポンド安になります。

 高齢者イギリス人もスペインではヨーロッパ人だったのでスペイン人と同じ医療サービスを受けられました。2年後にEUがブレグジットを承認した後は医療が受けられなくなります。なので、イギリス老人によるスペイン国籍の取得の申請が増えてきました。外国人に義務付けられている10年間のスペイン在住はヨーロッパ人にはありません(と聞きました)が、生活に支障がない程度のスペイン語力とスペイン史と今日のスペインの常識がテストされます。

 このテストをスペインの高校生にさせたらできませんでした。そんなに難問だったのか? ではなくて、高校生の一般知識の程度が問題だったのでしょう(アハハハァ)。なので、爺さん婆さんイギリス人はスペイン語教室でお勉強中です。アルツハイマー病の対策にもなりそうですが、歳を考えると民間の医療保険に入ったほうが手っ取り早いです。これを機に家を売ってイギリスへ戻る夫婦も増えています。

 ご存知のように、イギリスへは外国の犬猫は入国禁止です。でもイギリス人がバカンスに本国から連れ出す犬猫は出入国が自由です。その数はひと夏、ざっと25万匹前後で、そのペットの大半がスペインでバカンスを過ごしています。マラガ(Malaga/スペイン南部アンダルシア州の避暑地)の路上で出会ったイギリスの犬とスペインの犬は何語で喧嘩をするのでしょうか?

 そのアンダルシア州にあるのが、イギリス領・ジブラルタル(Gibraltar)です。鼻くそサイズの半島(6,5キロメートル㎡)ですが、スペイン語名はペニョン(Peñón)です。何か、竹島や尖閣諸島をそれぞれの言葉で呼ぶのと同じです。イギリスが欧州連合に加入したのはスペインよりも先の1973年でした。その頃はまだフランコの独裁時代のスペインだったので、本国・スペインよりも一足先にヨーロッパ入りをしたのがジブラルタルでした。

黒い矢印がジブラルタル

黒い矢印がジブラルタル

 欧州連合の傘の下でイギリス人はジブラルタルを好き勝ってに利用しました。その一つが軍事基地です。そのペニョンをスペインへ返還をしないイギリス政府に業を煮やしていたフランコは半島を長い間封鎖していました。陸の出入り口を失ったジブラルタルは船と飛行機でイギリス本国と長い間行き来をしていた訳です。それが、フランコ没後のスペインの民主化に合わせて門は開かれ始め、1986年のスペインEU加入後は同じヨーロッパとなったので完全に出入り自由となりました。昼間はジブラルタルで働いて、夜はスペインへ戻るスペイン人も大勢います。そこに住むイギリス人は3万人ほどですが、彼らの96%はブレグジットに反対でした。彼らはどうなるのでしょうか?

 昼間はジブラルタルで働く彼らは、夜はスペインへ出て来てバルで飲んでタパスを摘まんで、再びジブラルタルの自分の家へ戻って寝ています。そんな彼らをスペイン人は“ジブラルタルレニョ(Gibraltareño)”と呼びます。ブレグジットによりEUの傘を失ったイギリス政府はスペイン政府にはチャンスです。ジブラルタルの返還を強く迫るでしょう。返さなかったらイギリス人が大好きなシェリー酒を売らないぞ~、と脅せます。

ジブラルタル

 

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赤ワインの友

2017-02-20 17:00:00 | スペイン日記

 

 

イベリコ豚のチョリッソ

 

 

 冬は赤ワイン(vino tinto)で体を温めますが、あの、北ヨーロッパのホットワインには“ちょっとぉぉ”です。マイナス20度の北の街での飲み歩きにはぴったりのホットワインですがマドリードでは常温ワインです。でも、ドイツ人がホットワインのつまみに齧るフランクフルトソーセージは旨そうです。ホットワインは甘いのでフランクフルトソーセージの塩と塗った辛子が合うのでしょう。


 寒い、寒いと言っても、マドリードの冷え込みはマイナス5度くらいです。それも夜明け前なのでマドリっ子の多くは寝ています。僕なんて、布団に入る時間です。冬の深夜、マドリードのバルで飲んでいて、さぁ、帰るかぁ、まだ終電にも間に合うよなぁ、と飲み友達と外に出たときはプラス1度か2度です。顔はワインでポカポカ赤顔です。終電とはマドリードなのでメトロの終電ですが地下は暖かいので上着を脱いでしまいます。


 そのワインですが、白よりも赤を飲むと、なぜかツマミが欲しくなります。タパス(tapas)はバルのツマミの定番の言葉となりました。ツマミと言うよりも「当店自慢の突き出し」、居酒屋の一品料理に近いです。本来マドリードのバルではワインのツマミはタダですが、タパスは金をとられます。ツマミはワインの友で、それ込みがワイン一杯の値段でした。アセイツナ(aceituna/オリーブの実)が一般的なツマミでした。昔、まだスペイン通貨がペセタ(peseta)の時代だったのでもう20年以上も前の話です。


 マドリードのあるバルがパリジョ(parillo/ 楊枝)に刺した一口ツマミをカウンターに並べました。ピンチョ(pincho)と呼んでいたと思います。ワインを飲みながら勝手にピンチョをつまんで、パリィジョを自分の前に置かれたコップに入れました。日本の串焼き屋や焼き鳥屋で食べた後に串を壺に入れるようなものです。バルのツマミの勘定はコップの中のパリィジョの数から一本抜いた数でした。3人だったら3本抜きます。一本目はいつもの“ワインの友”なのでタダです。パリィジョは日本の楊枝のように丸くなくて平でした。


 それで、トルティージャ(tortilla/スペインオムレツ)やメヒィジョン(mejillon/ムール貝)やハモンセラーノ(jamon serrano/生ハム)などのツマミを刺してありました。当時のバルはえびの皮でも紙でもポイポイと床に捨てるのが当たり前だったので、うっかり床にパリィジョを捨ててしまいました。その時は正直に“自己申告”をしましたが、一、二本なら大目に見てくれました。


 バスク州(スペインの北東、隣はフランス)では昔からバルで出るのはタパスだったのでワインとは別代金でした。缶詰を開けたようなツマミではなくて、手料理の当店自慢のタパスでした。それがマドリードにも持ち込まれて全世界へ“スペインのタパス”と広まったのです。本家はバスクだと思います。


 10年前まではバルでワインを一本空けても運転をして家へ帰れました。夜、走っている車はみな同じように“ちょっと”フラついていました。前を走っている車がフラついたら、クラクションをブーブーと鳴らしてお互いに注意を促していれば事故もなかったです。でも、EU(ヨーロッパ連合)の行儀の良い国民から、それはないだろう、と笑われたのでスペインも飲酒運転の取り締まりが厳しくなりました。

 

 

一つのブタ皮で赤ワイン一杯の友

 仕方がないので僕もメトロかバスで飲みに行くようになりました。これが、億劫です。 だから家呑みが増えました。ツマミは封を切るだけの袋物とか缶を開けるだけの簡単なものです。赤ワインにはチョリッソ(chorizo/腸詰)ですが、アセイツナもいいです。冬は“ブタ皮(コルテッサ/corteza)”を齧りながらワインを飲みます。スーパーでポテトチップスの袋の横にいつも並んでるのが「ブタ皮チップス」です。ビールとも相性が良いのですが、ブタ皮チップスは口の中の水分を吸い取るのでビールの友だとついつい食べすぎます。赤ワインだと齧る程度で済みます。

ビール一杯分の友のブタ皮

 

 赤ワインを飲みながら、南欧と呼ばれる割には、ここは気候的にはきびしいところだなぁ、と思います。「9か月の冬と3か月の夏」がカスティージャ地方の気候です。カスティージャ(castilla)は「城の国」の意味で、地理上ではイベリア半島(スペイン+ポルトガル)の中央台地・メセータ(meseta)の部分です。そのど真ん中に一番大きい王宮(パラシオ・レアル/Palacio Real)を構えるのがマドリードです。


 冒頭の言葉はメセータの土地質と太陽の日照時間が作り出した独自の自然環境のたとえで、もちろん、数週間ですが春と秋もあります。今で言う体感気温のような“体感気候”です。日照時間が少ない冬の間ではメセータは海岸よりも早く温まります。でも日が暮れるとメセータの放熱は“速い”ので冷え込みます。夏の日中は“焦げ付くような熱さ”ですが日が落ちれば涼しい風が流れ込みます。海岸はだんだんと温まり、だんだんと冷めます。

カスティージャ地方・コカの城

 その“だんだん”が無いのがカスティージャです、メセータです。海岸の湿気を含まないカスティージャの空気の中では太陽がハッキリとした陰影を造り出します。この2月はその日照時間が長くなったのを肌で感じ始めます。今、マドリードは冬時間なので日の出は8時過ぎ、日没は7時ころです。そうそう、この月末はカーニバルです。スペインでカーニバルが盛り上がるのは本土ではなくて、アフリカ大陸の横のカナリヤ諸島です。暖かいので裸で踊り狂います。

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2017年新春

2017-01-11 17:30:00 | スペイン日記

2017新春

 “幸運を呼ぶブドウ12粒”を食べてカバ(Cava)を開けて新年を祝いました。日本では新年を迎える除夜の鐘が108回鳴りますが、2週間も続くナヴィダァ(Navidad/スペインのクリスマスで1224日~16日)では12回の時計の音で十分です。毎日が飲んだくれの話は毎年書いているので去年のブログを覗いてください(ブログ・2016年、よろしくお願いします)。年初めから手抜きで申し訳ありませんが、マドリードの正月も46回目となると、正直、飽きました。と、言ってどこで正月を過ごしても似たような行事です。


 さて、2017年のスペインは悲観的ではありません。政治は保守維持で政権安定度は60%、経済は問題だったスペインの銀行負債額は増えずに、企業や個人への貸付額が増え始めました。庶民も“タンス貯金”を使い始めました。失業不安が減ったためです。スペイン人気質と言うよりもラテン人気質だと思いますが“欲しいものは借金をしてでも買う”と言う本来の姿に戻り始めました。外国資本のスペイン製造会社への本国からの投資が増えているので輸出も好調です。


 それだけではなく、スペイン経済の大黒柱・観光はスペインを訪れる外国観光客数がうなぎ上りで、ホテルは大入り満員のウハァウハァの笑い顔です。ブレグジットによるイギリス人観光客の減少を見越してドイツ人観光客誘致にキャンペーンを絞ったのが当たりました。おまけに中近東のテロ不安で北欧人は同じ地中海の浜辺なら、安全なスペインへ、輝く太陽も同じだろう、と増えました。この正月休暇も地中海沿岸やカナリア諸島(Islas Canarias)のホテルは超満員でした。その観光業に引っ張られたお陰でレストランやバルはパートやアルバイトレベルの契約とは言え雇用が増えました。不安は年金です。ストックに底が着きそうなので、すねかじり若者たちはアルバイトでもいいので仕事に就いてジジババの年金を少しでも賄って欲しいです。


 でも、まぁ、毎日ワインを飲むにはノープロブレムです。それどころかワインのランクを上げられそうで、ウフフ・・・の僕です。スペイン市民のマイナス思考を生んだのが去年一年間の“無政府状態”ですが、新内閣誕生で彼らはプラス思考になりました。ナヴィダァが終わった翌日から恒例の大バーゲンセール(Rebajas)が始まりました。今年は週末だったのでマドリードの銀座通り・グラン・ヴィア(Gran Via)や銀座四丁目に当たるカジャオ(Callao)は買い物客でごった返しています。2月末までバーゲンは続きます。僕も買いたいものがありますが、ニュースを見て行く気が無くなりました。ますますネットショップの買い物が増えます。

手作りロスコン

 話は食べ物になりますが、ナヴィダァの最終日(16日)のレジェス・マゴス(Reyes Magos/東方の三賢王)はクリスマスプレゼントの日です。そのパーティーで食べるのがパウンドケーキのロスコン(Roscon)です。僕のスペイン人の友達は家族でロスコン・コンクールを毎年やります。家族のそれぞれが自分でロスコンを作ります。今年は僕の友達が優勝をしました。


 彼がコンクール前の試作ロスコンを大晦日に持って来てくれました。カヴァを飲みながら食べましたが、さすが手作りです。しっとりとして香り高いロスコンでした。お菓子屋のロスコンはまだましですが、スーパーで売っているロスコンは生地を解凍して焼くので中がパサパサです。彼曰く、生地を練るのがかなりの力仕事だそうです。それを寝かして二回発酵させたようです。ロスコンの中にはソルプレッサ(sorpresa/ビックリ)と呼ぶ宝ものが隠れています。

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カストロの死

2016-12-06 14:00:00 | スペイン日記

トップ記事はカストロの死

 日本ではニュースではなかった、キューバの独裁者・フィデル・カストロ(Fidel Castro)の死ですが、ここスペインでは新聞、テレビのトップニュースでした。ヒスパニック国の盟主・スペインから独立した中南米の国々はアメリカ帝国資本主義の餌食となりました。カリブ海の小さい島・キューバもそうでした(横長なので東から西まで1000キロメートル)。


 サメに食われなければフロリダ半島まで泳いで行ける距離なので、アメリカ人の恰好のリゾートです。良質のサトウキビと香り豊かなタバコの葉が生い茂るキューバ島はエメラルドグリーンのカリブ海に浮かぶ“青春の島”にアメリカ人には映ったようです。そりゃ、臭い牛のケツばっかり追ってる荒野のカウボーイには夢の土地でしょう。


 キューバの独裁者・バティスタ(Batista)をそそのかしてアメリカはキューバの経済を支配しました。それを覆したのがカストロと“チェ”ゲバラ(“CheGuevara)の1959年のキューバ革命でした。革命政府はアメリカ企業もアメリカが整えたインフラも全てを国有化し、共産主義国家にしました。反撃に出たアメリカはキューバ経済制裁をしましたが、それから50年以上もカストロ独裁政治(Castrismo)は続いています。90歳でフィデル・カストロは死にましたが、10年前から弟のラウル・カストロ(Raul Castro)が国家評議会議長を引き継ぎ20182月までカストロ独裁政治を続けます。


 ところで話は60年ほど前に戻ります。1960年代のスペインはまだフランコの独裁政権でした。フランコの出身地はスペイン北西(ポルトガルの上)のガリシア州(Galicia)です。カストロの父親もそのガリシア出身で、17歳でキューバへ移民をしました。どうも、このガリシア州は独裁者を生む土地柄のようですが、それは祖先・ケルト民族の血でしょうか?


 独裁者ではありませんが現首相・ラホイもガリシア人で、その党・国民党(PP)もガリシア生まれです。アメリカのキューバ経済制裁に従わなかったのがフランコでした。キューバへ送ったスペインの貨物船はカリブ海で米海軍から砲撃を受けましたが彼はへこたれませんでした。フランコは反共産主義者でしたが独裁者同志には相通じるところがあるのでしょうか、カストロはフランコが死んだ時に3日間の喪に服しました。キューバと通商をしながらもフランコ政府はアメリカとも友好を続け米軍基地はスペインに在留しました。また、反カストロ派のキューバ亡命者も大量に受け入れました。


 この二重人格者にも思えるようなスペインの態度は旧盟主としての責任よりもカトリックの人道主義でした。ところが、スペインが欧州連合(EU)に加盟してからは以前のようなキューバ関係はできなくなりました。欧州連合の立場はアメリカのキューバ経済制裁に追従なのでカストロの反感を買いました。でも、カストロはスペインを訪れ父親の故郷・ガリシアも行き、スペイン国王とも歴代の首相とも友好を保ちハバナ葉巻を贈り続けました。


 マドリードのキューバ大使館のある通りの名前は“ラ・ハバナ通り”です(Paseo de La Habana)。移民の子とは言え、カストロは裕福な家庭で育ちました。父親はキューバで一旗揚げ、大農場を経営しました。あとで一緒に革命を起こす、アルゼンチン人の“チェ”も裕福な家庭の子でした。のちに全中南米に波及する人民革命の走りとなったキューバ革命を起こした二人ですが、金持ちのボンボンだったのです。


 カストロはハッタリ男でした。少数の革命軍をあたかも大軍隊かのように見せるためにマスコミとテレビを利用しました。それをまともに信じた民衆は革命軍に加わりました。まだスマホもない50年代末のことです。途方もない数に膨れ上がり、加わらない民衆を容赦なく殺すカストロの残忍さに怯えあがった当時の独裁者・バティスタはメキシコへ亡命をしました。この時に一万5千のキューバ人家族が首都・ラ・ハバナの港からアメリカのフロリダへ逃げ出しました。


 こうしてキューバ革命は成功をしましたがマイアミには亡命者たちの街“リトル・ハバナ”が生まれ、“二つのキューバ”の時代が始まりました。ラ・ハバナ大学では弁護士になるために法律を学んだカストロですが、政治には素人です。彼が選んだ国策は、マルクス・レーニン主義でした。カストロはラッキー男でした。60年代のアメリカの力は「イケイケ」だったので、カリブ海を封鎖してキューバを経済閉鎖すれば数年で根を上げると思いました。スペインからの援助があると言っても必要最低限の程度だったので、日用品も石油も不足し始めました。


 そんな時に現れたのがアメリカとの冷戦中だったソビエト連邦です。フロリダ半島まで泳いでも行ける距離のキューバに核ミサイルを置けば、アメリカ帝国は“びびり”ます。アメリカの大陸弾道弾(古いですが、胴体の太い核ミサイルです)がモスクワに着く前にワシントンには核爆弾が落ちます。ソビエトの核ミサイル設置の見返りが石油の無償補給でした。これでカストロは石油の心配は無くなりました。それどころか、この“タダ油”を中南米の国々へも回して人民革命の火種を広げて行きました。


 ソビエト核ミサイル問題は当時のケネディ大統領が収めますが、優柔不断の彼は米海軍のキューバ上陸作戦に失敗をします。それによってソ連軍がキューバに常駐を始めますが、どうもロシア人とキューバ人はお互いに馴染まなかったようです。例ですが、キューバにはアメリカ時代の丸い大型の40年代50年代のアメ車が残っています。キューバ人はそれをスペイン語で“アルメンドロネス(Almendrones/アーモンド)”と呼んで大事に手入れをしました。今も現役のタクシーとしてラ・ハバナの街を流しています。ソビエト時代の車はイタリア・フィアット社製の箱型小型車を“共産主義風”にアレンジした味も素っ気もない代物でした。キューバ人の好みに合わなかったのか修理もされませんでした。


 しかし、そのソビエト連邦が崩壊してしまうと、ロシアは石油の供給をやめます。再び貧しくなったカストロ・キューバですが、そこに救いの手を伸ばしたのがベネズエラのチャベス大統領(Chavez)です。チャベスはカストロを“わが司令官”と呼ぶほどの信奉者です。中南米トップと言われるキューバ医療と医者をベネズエラへ送る見返りが、石油の無料提供でした。再び、“アーモンド車”は走り始めました。この経緯でチャベスはガンの末期治療をキューバで受けたのです。


 ところが、世界的な原油価格暴落が起こりベネズエラ経済は崩壊し、ハイパーインフレになりました(ブログ・コンドームよ、お前もか・・・)。ベネズエラ国民の方が食糧危機となり、チャベスは死に、キューバは再び貧困になりました。でもカストロはラッキー男です、今度はオバマ大統領が現れました。アメリカとは絶交状態でしたが2015年末にオバマ大統領が経済制裁の緩和へと向けた友好外交を打ち出しました。次期大統領候補だったヒラリークリントンもその路線で進む予定でした。ここで番狂わせが起き、次期アメリカ大統領にトランプがなりました。カストロは死んでキューバの“ツキ”も消えました。


 カストロはモテ男でした。話は戻りますが、キューバ上陸に失敗したアメリカ政府はC.I.A.にカストロ暗殺を命令します。ギネスブックによると600回以上の暗殺計画が実行されたようですが強運のカストロは生き延びました。その中には“マタハリ(女刺客)”もいましたが彼女がカストロに惚れてしまい、失敗に終わりました。それくらいカストロはモテ男だったので、正妻の他にも愛人が居ました。カストロ自身は自分の子供は11人と思っていたのに12人目が現れたときは“本当か?”と驚きました。


 その唯一の正妻との間には息子一人だけですが、そんなカストロに愛層をつかした妻もさすが“革命家の妻”でした。彼女がカストロと離婚をして再婚をした相手は反カストロ派、政敵の弁護士でした。彼女の名はミルタ(Mirta)彼はミリオ(Milio)でロメオとジュリエットのような話ですが、マドリードへ逃げました。ミルタはまだマドリードに住んでいて、今年88歳です。


 おっと、話はカストロでした。逸話には事欠かないカストロですが、どうも革命家に求められるのは政治的野心だけではなく逸話を生み出す人間的魅力も不可欠のようです。数多くの暗殺計画にさらされていたので私生活は国家機密だったカストロの生涯ですが、これからは沢山の“あばき本”が出てきそうです。


 マドリードの中心地、僕が行く“飲み屋街”の近くにアテネオと呼ばれる文化人サークルの会館があります。前は僕も会員だったので、そこのバルでも飲んでいました。キューバ人の文化亡命者も集まっていました。彼らは反カストロ派なので“話し半分”のところがありますが彼らから聞いた話です。カストロ兄弟の反対派の虐殺は酷かったそうです。弟のラウルがあまりにも人を殺すので兄のフィデルが、そんなに殺したらキューバを復興する国民が足りなくなる、と叱ったそうです。


 そのフィデルが晩年になって手本としようとしたのがヴェトナム式民主化でした。弟のラウルがどこまでその路線を進めるのか、が明日へのキューバのカギです。医療と教育が無料のキューバですが、今の給料は月に25ユーロ(約3千円)です。う~ん、甘い香りのハバナ葉巻がタダでも毎日ワインはちょっと無理ですね。

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