マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン45年。

ゲルニカ

2017-05-26 15:58:30 | スペイン日記

ゲルニカ

 ゲルニカ(Guernica/バスク語ではGernikak)はスペイン北東部(フランス側/地図上では右)のバスク州のビルバオ県にある町です。この町の名が世界的に知られているのはピカソ(Picasso/スペインの画家)の同名の作品があるからです。今から80年前の1937年の出来事で、当時のスペインは市民戦争中(Guerra Civil/ゲラ・シビル)でした。政府の共和国軍(人民戦線軍)とフランコ軍(反乱軍)の国を二つに分けた戦いでした。イギリスとフランスが不干渉の立場を続けたので内戦はダラダラと続きました(1936年~1939/スペインなのでシエスタ/昼寝ありだったようです)。

 それがヨーロッパの国々を不安にさせたのは、その前の第一次世界大戦の火種が消えていなかったからでした。そろそろ火を消さねばと誰でもが思い始めた頃に、フランコ軍に加担したのがドイツとイタリアでした。そしてドイツの空軍はゲルニカを空爆しました。のちの第二次世界大戦で崩壊された街ドレスデン(Dresdenn/ドイツ東部)や広島や長崎の原爆破壊と並べられるのがゲルニカ空爆です。それはヒトラーが誇るドイツ空軍・コンドル隊の破壊力を実験するためでした。街はほぼ消えました。

フランコの夢想と嘘

 この爆撃やスペイン市民戦争の話は歴史書を読んでもらうとして、今日はそのピカソの描いたキュビスムの作品、ゲルニカの話です。マドリードで見た人は、あのデカイ作品に驚いたと思います(349,3 x 776,6 cm)。どうしてデカイのかと言うと、パリ万博(1937525日~1125日)のスペイン館の壁を飾るためだったからです。当時のスペインは共和国政府(人民戦線政府)でした。政府はパリに住んでいたピカソにスペイン館の作品制作を依頼しました。

 話は前後しますが、フランスに移住していたピカソが祖国スペインを訪れたのは1934年の夏のヴァカンスが最後でした。共和党派だったピカソは市民戦争が勃発(1936年の夏)すると「フランコ(Franco/ 市民戦争に勝ち独裁政治をスペインに敷いた将軍)が生きている間はスペインの地を踏まない」と宣言し、帰国をせずに1973年にフランスで死にました(1938年のバルセロナでの母親の死にも帰国しませんでした。ピカソと呼ぶ姓名は母親のものです)。フランコはその2年後の1975年に死にました。

ゲルニカの第一段階:各部のデッサンを組み合わせる

 話は戻りますが、1936年の8月に始まった市民戦争ですが、その一ヶ月後の9月に共和党政府はピカソをプラド美術館(Museo del Prado)の名誉館長に任命しました。フランス在住のピカソはそれを喜んで拝命し、「フランコの夢想と嘘」のオリジナル画を描き、翌年1937年の1月にそれが印刷所に入り、銅版画が出版されました。ピカソは売り上げをそっくりと人民戦線軍に寄付をしました。それだけではなく、作品も売り政府軍を援助しました。これらはスペインがすでに市民戦争中のことで、まだ政府軍が勝つか反乱軍(フランコ軍)が勝つかは全く不明の初期段階の出来事でした。この1937年にはパリ万博があるので、政府軍はそれを利用して「スペインの民主主義を救おう」とヨーロッパ諸国に援助を求めました。

 ピカソがスペイン館の壁画の依頼を受けたのは同年の1月でした。いつもの女性問題で制作がブランク状態だったモテ男・ピカソは、引き受けたけど、はて? 何を描くか?でした。そこに入ったのが「ゲルニカ空爆」のニュースです。1937426日の惨事でした。「憎っくきフランコ野郎、ヒトラーに助っ人を頼みやがって!」とヤカン頭になったピカソはデッサンを描き始めました。大作なので、部分ごとのデッサンでしたが(その中の何点かは下書きだけでは終わらずに一枚の油絵作品になりました)、かなりの数でした。それらをベースにキャンバスに描き始めたのが511日でした(パリ万博オープンは25日)。大まかなサイズで、高さ3メートル半、幅8メートルの白い壁です。教会の壁でも思い浮かべて下さい。ミケランジェロの頃のフレスコ画でしたら、2年はかかりますね。

第二、第三段階:部分的な修正を繰り返す

 それをピカソは5週間で描き上げました。キャンバスに描きながらも気に入らない部分は納得いくまでデッサンを描きなおし、それを再びキャンバスに描きました。寝る暇もなく制作に没頭したピカソの闘牛的体力と憎みの激しさから生まれた集中力には、さすがスペイン男!これぞマラガっ子(アンダルシア人)!です。スペインに永く住んでいる僕ですが、時々辟易するのはスペイン人の嫉妬深さや日常茶飯事の妬み言葉です。日本人社会では「出る釘は打たれる」ですが、スペイン人社会では「上に登るヤツの脚を引っ張る」です。「何故かって? 悔しいからさ」とスペイン人の友達はあっけらかんと言います。ヤレヤレです。

第四段階:完成直前の修正

 おっと話はピカソに戻ります。当時のピカソは55歳でした。歴史の話よりも現実は生臭いものです。ピカソのゲルニカ制作の手助けをしたのは恋人・ドラ(Dora)でした。ユーゴスラヴィア生まれでアルゼンチン育ちのドラは写真家であり画家でもあり、ピカソの当時の愛人でした。助手としても有能だった彼女のお陰でゲルニカの大まかな構図が生まれました。それだけではなく、彼女はゲルニカのデッサン(70点にも及ぶ)や制作過程もフイルムに収めました。何しろ、壁画のデカさです、ピカソはチューブ入り油絵具ではなく缶入りのペンキ塗料で塗りました。

 速乾性があるので制作のスピードはかなりはかどりました。6月末には“ゲルニカは乾き”、パリ万博のスペイン館に収めました。すでに万博はオープンしていましたが、スペイン館は712日に開館しました。何回も催されていたパリ万博とは言え、各国の館のオープンもその国の都合に合わせられたのでしょうか? まだまだおおらかな時代だったのですね。ゲルニカはたいした評判にはならず開館が遅れたので万博カタログにも載りませんでした。万博の後は、人民戦線軍の援助目的で、19381月~4月はノルウェー、デンマーク、スエーデンの各国で開かれた展覧会を巡回し、9月にはイギリスをまわりました。

パリ万博・スペイン館での展示

 1939年にスペイン市民戦争がフランコ軍の勝利で終わったので、ゲルニカはフランス船「ノルマンディー号」でアメリカへ渡りました。偶然とは言え、皮肉なことにその船にはアメリカへ亡命するスペイン共和党政府の最後の首相・ネグリン(Negrin)も同船をしていました。アメリカ大陸ではスペイン戦争での戦災者や亡命者の援助を求めて巡回をしました。そうこうしているうちに、第二次世界大戦が始まりフランスはナチ軍に占領されました。ピカソはアメリカ合衆国にゲルニカを置いておいたほうが安全だと判断を下し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に「スペインに真の民主主義が戻るまで」と一時的に預けました。

ピカソ

 それがスペインへ戻ってきたのはピカソの死後8年後の1981年でした。この「帰国」は秘密に行われました。MoMAがいつものように閉館した198199日の夜中にゲルニカは壁から外されて丸められたキャンバスは木箱に収められて、10日の深夜にニューヨーク空港へ運ばれました。イベリア航空のニューヨーク・マドリードの定期便のジャンボ機に運び込まれましたが、同乗した当時の文部大臣は保険をかけませんでした。スペイン国民が「帰国」を知ったのは、新聞「ABC」がマドリードのバラハス空港から護衛されて、プラド美術館の別館・カソン・デル・ブエン・レティーロ(Cason del  Buen Retiro)に運ばれるゲルニカ記事を報道してからでした。

ドラ

 その数か月後に一般公開されました。1981年はピカソ生誕100年だったのです。スペイン政府はそれに間に合わせたかったのでした。僕も観に行きました。ゲルニカは防弾ガラスで保護をされ、隣には銃を持った治安警官が立っていました。個人的な感想ですが、この後の時代のピカソのキュビスムの人物画のほうが不気味さでは勝ります。ゲルニカは平和の時に見て「戦争は生活を破壊するものだ」を思い起こさせる作品です。その11年後の1992年に最後の引っ越しをして、現在もレイナ・ソフィア美術館(Centro de Arte Reina Sofia)に展示されています。1992年はバルセロナ・オリンピックとセビージャ・万博の大イベントが重なった年です。それでなくても一年中がお祭りのようなスペインですが、10年分の花火を一年で打ち上げたような年でした。

巻かれたゲルニカ

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好天気のセマナ・サンタです

2017-04-14 12:30:00 | スペイン日記

プロセシオン

 今年はどうしたんだぁ? と思わせるような、まれにみる好天気のセマナ・サンタ(Semana Santa /聖週間)です。今日(413日)は聖木曜日です。4月中旬とは思えないような初夏の暑さと青空です。去年も、その前も、その前の前も雨の降る寒いセマナ・サンタだったのが、数年ぶりの良い天気です。ヴァチカンが日付を間違えたのでは?と勘繰りたくなりました。わざと雨に降られる時期に合わせるのがセマナ・サンタです。キリストの受難とその死を悼むのがセマナ・サンタなので、ヴァチカンとしては天地のすべてのものがを流さないといけないのです。

三角帽の行進

 そんな訳で毎年日付は変わります。日本では馴染みがありませんが、“あの三角帽をかぶった行進”と言えば見た人もいるでしょう。今は観光メニューにも入っているので、セビージャのセマナ・サンタの行進を見に来る日本人ツーリストも多いです。スペイン国内どこの町でも村でもそれなりのセマナ・サンタを催します。軍の行進や三角帽の行進があり、キリストを乗せた山車が出ます。聖母マリアの山車も出ます(山車は引くのではなく神輿のように担ぎます)。それらの行進や行列をひとまとめにプロセシオン(procesion)と呼びます。アンダルシア州ではそれにサエタ(saeta /宗教歌)が加わります。

三角帽の行進

 街角のバルコニーからフラメンコのカンテ・ホンド(cante jondo)を歌うカンタオル(cantaor)と呼ばれる歌手が山車の上のキリストに哀悼の歌を嘆き叫びます。そのたびに行進は止まるので、教会を出た山車が戻るのは早くても4時間後です。だから山車を担いでいるコスタレロス(costaleros /担ぎ人)は腰を痛めてしまいます。その週の聖木曜日、聖金曜日は祝日なので、月火水も休みを取れば、1週間か10日の連休となります。スペイン人には見飽きているセマナ・サンタの行列だし、それに大した信仰心度じゃないクリスチャンはミニヴァカンスに出ちゃいます。

サエタを歌うエストレジャ・モレンテ

 反対にセマナ・サンタは里へ戻り行進に参加する、と言う熱心なクリスチャンも多いです。どっちにしても、マドリードは見に来る人々と出る人々で空港も駅もごった返し、道路は渋滞です。それは毎年のことですが、今年はイスラム教徒のテロ、それも“ひき殺しテロ”がヨーロッパのあっちこっちで起きているので、街中は警察官だらけです。スペインの中でもツーリストが集中するのがセビージャ、マラガ、マドリードのセマナ・サンタの行進ですが、それらの町は大型トラックの進入が禁止され、警備が厳しくなりました。ラッシュアワーを超える人混みの中にトラックが突っ込んだらひとたまりもありません。

ポタへ

 このセマナ・サンタに食べるのがポタヘ(potaje)です。ポタヘはポタージュですが、ポタージュと言うと日本ではとろみの濃いスープですね。ここではガルバンソ豆とタラを煮込んだスープです。美味しくするポイントはたっぷりの雑魚で汁を取ることです。炒めたホウレンソウを加えますが、なかったのでグリンピースでの色添えです。これに切り刻んだ茹で卵をかけて食べます。デザートはトリィハ(torrija)です。フレンチトーストです。この二つはセマナ・サンタの定番の食べ物です。今日は聖木曜日なので、「黒いキリスト」が出ました。明日の聖金曜日もプロセシオンは続き、日曜日が復活祭です。タマゴです。チョコレートでできたタマゴを食べます。それでマドリードのセマナ・サンタは終わります。ヤレヤレ。

トリィハ

聖木曜日に出る黒いキリスト

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ブレグジットが現実となりました

2017-04-03 12:12:12 | スペイン日記

輝く太陽

 サマータイムになって1週間が過ぎました。体内時間が冬時間の僕は時間変更の翌日は朝の10時に起きました。1時間進んだので、“9時起きの体”はそのように反応してしまいました。さすがそれはないだろ、と今はサマータイムの9時(冬時間の8時)に起きるようになりました。朝は暗くても日暮れが延びたので、午後9時頃に暗くなります。スペインは一年中サマータイムで良いのではないでしょうか。

 太陽がタダのスペインを訪れるツーリスト数のトップはイギリス人旅行者です。ところが先週、ブレグジット(EU・欧州連合脱会)が現実となり、タイムリミットは2年後です。スペイン観光業者にはイギリス人旅行者の落とす金が減るのも心配ですが、ヨーロッパの27か国に住んでいるイギリス人はどうなるのでしょうか? イギリスに住んでいるスペイン人はどうなるのでしょうか?

 大雑把な数ですが、イギリスに住んでいるヨーロッパ人は330万人で、ヨーロッパに住んでいるイギリス人は120万人です。その三分の一がスペインに住んでいます。スペインの地中海沿岸の温暖なアリカンテ州(Alicante)に集中して、住民の半数以上がイギリス人の町もあります。大半が年金生活者ですが、ポンド高の今までは家も買えて、悠悠自適の夫婦生活でしたが、ブレグジットではポンド安になります。

 高齢者イギリス人もスペインではヨーロッパ人だったのでスペイン人と同じ医療サービスを受けられました。2年後にEUがブレグジットを承認した後は医療が受けられなくなります。なので、イギリス老人によるスペイン国籍の取得の申請が増えてきました。外国人に義務付けられている10年間のスペイン在住はヨーロッパ人にはありません(と聞きました)が、生活に支障がない程度のスペイン語力とスペイン史と今日のスペインの常識がテストされます。

 このテストをスペインの高校生にさせたらできませんでした。そんなに難問だったのか? ではなくて、高校生の一般知識の程度が問題だったのでしょう(アハハハァ)。なので、爺さん婆さんイギリス人はスペイン語教室でお勉強中です。アルツハイマー病の対策にもなりそうですが、歳を考えると民間の医療保険に入ったほうが手っ取り早いです。これを機に家を売ってイギリスへ戻る夫婦も増えています。

 ご存知のように、イギリスへは外国の犬猫は入国禁止です。でもイギリス人がバカンスに本国から連れ出す犬猫は出入国が自由です。その数はひと夏、ざっと25万匹前後で、そのペットの大半がスペインでバカンスを過ごしています。マラガ(Malaga/スペイン南部アンダルシア州の避暑地)の路上で出会ったイギリスの犬とスペインの犬は何語で喧嘩をするのでしょうか?

 そのアンダルシア州にあるのが、イギリス領・ジブラルタル(Gibraltar)です。鼻くそサイズの半島(6,5キロメートル㎡)ですが、スペイン語名はペニョン(Peñón)です。何か、竹島や尖閣諸島をそれぞれの言葉で呼ぶのと同じです。イギリスが欧州連合に加入したのはスペインよりも先の1973年でした。その頃はまだフランコの独裁時代のスペインだったので、本国・スペインよりも一足先にヨーロッパ入りをしたのがジブラルタルでした。

黒い矢印がジブラルタル

黒い矢印がジブラルタル

 欧州連合の傘の下でイギリス人はジブラルタルを好き勝ってに利用しました。その一つが軍事基地です。そのペニョンをスペインへ返還をしないイギリス政府に業を煮やしていたフランコは半島を長い間封鎖していました。陸の出入り口を失ったジブラルタルは船と飛行機でイギリス本国と長い間行き来をしていた訳です。それが、フランコ没後のスペインの民主化に合わせて門は開かれ始め、1986年のスペインEU加入後は同じヨーロッパとなったので完全に出入り自由となりました。昼間はジブラルタルで働いて、夜はスペインへ戻るスペイン人も大勢います。そこに住むイギリス人は3万人ほどですが、彼らの96%はブレグジットに反対でした。彼らはどうなるのでしょうか?

 昼間はジブラルタルで働く彼らは、夜はスペインへ出て来てバルで飲んでタパスを摘まんで、再びジブラルタルの自分の家へ戻って寝ています。そんな彼らをスペイン人は“ジブラルタルレニョ(Gibraltareño)”と呼びます。ブレグジットによりEUの傘を失ったイギリス政府はスペイン政府にはチャンスです。ジブラルタルの返還を強く迫るでしょう。返さなかったらイギリス人が大好きなシェリー酒を売らないぞ~、と脅せます。

ジブラルタル

 

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赤ワインの友

2017-02-20 17:00:00 | スペイン日記

 

 

イベリコ豚のチョリッソ

 

 

 冬は赤ワイン(vino tinto)で体を温めますが、あの、北ヨーロッパのホットワインには“ちょっとぉぉ”です。マイナス20度の北の街での飲み歩きにはぴったりのホットワインですがマドリードでは常温ワインです。でも、ドイツ人がホットワインのつまみに齧るフランクフルトソーセージは旨そうです。ホットワインは甘いのでフランクフルトソーセージの塩と塗った辛子が合うのでしょう。


 寒い、寒いと言っても、マドリードの冷え込みはマイナス5度くらいです。それも夜明け前なのでマドリっ子の多くは寝ています。僕なんて、布団に入る時間です。冬の深夜、マドリードのバルで飲んでいて、さぁ、帰るかぁ、まだ終電にも間に合うよなぁ、と飲み友達と外に出たときはプラス1度か2度です。顔はワインでポカポカ赤顔です。終電とはマドリードなのでメトロの終電ですが地下は暖かいので上着を脱いでしまいます。


 そのワインですが、白よりも赤を飲むと、なぜかツマミが欲しくなります。タパス(tapas)はバルのツマミの定番の言葉となりました。ツマミと言うよりも「当店自慢の突き出し」、居酒屋の一品料理に近いです。本来マドリードのバルではワインのツマミはタダですが、タパスは金をとられます。ツマミはワインの友で、それ込みがワイン一杯の値段でした。アセイツナ(aceituna/オリーブの実)が一般的なツマミでした。昔、まだスペイン通貨がペセタ(peseta)の時代だったのでもう20年以上も前の話です。


 マドリードのあるバルがパリジョ(parillo/ 楊枝)に刺した一口ツマミをカウンターに並べました。ピンチョ(pincho)と呼んでいたと思います。ワインを飲みながら勝手にピンチョをつまんで、パリィジョを自分の前に置かれたコップに入れました。日本の串焼き屋や焼き鳥屋で食べた後に串を壺に入れるようなものです。バルのツマミの勘定はコップの中のパリィジョの数から一本抜いた数でした。3人だったら3本抜きます。一本目はいつもの“ワインの友”なのでタダです。パリィジョは日本の楊枝のように丸くなくて平でした。


 それで、トルティージャ(tortilla/スペインオムレツ)やメヒィジョン(mejillon/ムール貝)やハモンセラーノ(jamon serrano/生ハム)などのツマミを刺してありました。当時のバルはえびの皮でも紙でもポイポイと床に捨てるのが当たり前だったので、うっかり床にパリィジョを捨ててしまいました。その時は正直に“自己申告”をしましたが、一、二本なら大目に見てくれました。


 バスク州(スペインの北東、隣はフランス)では昔からバルで出るのはタパスだったのでワインとは別代金でした。缶詰を開けたようなツマミではなくて、手料理の当店自慢のタパスでした。それがマドリードにも持ち込まれて全世界へ“スペインのタパス”と広まったのです。本家はバスクだと思います。


 10年前まではバルでワインを一本空けても運転をして家へ帰れました。夜、走っている車はみな同じように“ちょっと”フラついていました。前を走っている車がフラついたら、クラクションをブーブーと鳴らしてお互いに注意を促していれば事故もなかったです。でも、EU(ヨーロッパ連合)の行儀の良い国民から、それはないだろう、と笑われたのでスペインも飲酒運転の取り締まりが厳しくなりました。

 

 

一つのブタ皮で赤ワイン一杯の友

 仕方がないので僕もメトロかバスで飲みに行くようになりました。これが、億劫です。 だから家呑みが増えました。ツマミは封を切るだけの袋物とか缶を開けるだけの簡単なものです。赤ワインにはチョリッソ(chorizo/腸詰)ですが、アセイツナもいいです。冬は“ブタ皮(コルテッサ/corteza)”を齧りながらワインを飲みます。スーパーでポテトチップスの袋の横にいつも並んでるのが「ブタ皮チップス」です。ビールとも相性が良いのですが、ブタ皮チップスは口の中の水分を吸い取るのでビールの友だとついつい食べすぎます。赤ワインだと齧る程度で済みます。

ビール一杯分の友のブタ皮

 

 赤ワインを飲みながら、南欧と呼ばれる割には、ここは気候的にはきびしいところだなぁ、と思います。「9か月の冬と3か月の夏」がカスティージャ地方の気候です。カスティージャ(castilla)は「城の国」の意味で、地理上ではイベリア半島(スペイン+ポルトガル)の中央台地・メセータ(meseta)の部分です。そのど真ん中に一番大きい王宮(パラシオ・レアル/Palacio Real)を構えるのがマドリードです。


 冒頭の言葉はメセータの土地質と太陽の日照時間が作り出した独自の自然環境のたとえで、もちろん、数週間ですが春と秋もあります。今で言う体感気温のような“体感気候”です。日照時間が少ない冬の間ではメセータは海岸よりも早く温まります。でも日が暮れるとメセータの放熱は“速い”ので冷え込みます。夏の日中は“焦げ付くような熱さ”ですが日が落ちれば涼しい風が流れ込みます。海岸はだんだんと温まり、だんだんと冷めます。

カスティージャ地方・コカの城

 その“だんだん”が無いのがカスティージャです、メセータです。海岸の湿気を含まないカスティージャの空気の中では太陽がハッキリとした陰影を造り出します。この2月はその日照時間が長くなったのを肌で感じ始めます。今、マドリードは冬時間なので日の出は8時過ぎ、日没は7時ころです。そうそう、この月末はカーニバルです。スペインでカーニバルが盛り上がるのは本土ではなくて、アフリカ大陸の横のカナリヤ諸島です。暖かいので裸で踊り狂います。

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2017年新春

2017-01-11 17:30:00 | スペイン日記

2017新春

 “幸運を呼ぶブドウ12粒”を食べてカバ(Cava)を開けて新年を祝いました。日本では新年を迎える除夜の鐘が108回鳴りますが、2週間も続くナヴィダァ(Navidad/スペインのクリスマスで1224日~16日)では12回の時計の音で十分です。毎日が飲んだくれの話は毎年書いているので去年のブログを覗いてください(ブログ・2016年、よろしくお願いします)。年初めから手抜きで申し訳ありませんが、マドリードの正月も46回目となると、正直、飽きました。と、言ってどこで正月を過ごしても似たような行事です。


 さて、2017年のスペインは悲観的ではありません。政治は保守維持で政権安定度は60%、経済は問題だったスペインの銀行負債額は増えずに、企業や個人への貸付額が増え始めました。庶民も“タンス貯金”を使い始めました。失業不安が減ったためです。スペイン人気質と言うよりもラテン人気質だと思いますが“欲しいものは借金をしてでも買う”と言う本来の姿に戻り始めました。外国資本のスペイン製造会社への本国からの投資が増えているので輸出も好調です。


 それだけではなく、スペイン経済の大黒柱・観光はスペインを訪れる外国観光客数がうなぎ上りで、ホテルは大入り満員のウハァウハァの笑い顔です。ブレグジットによるイギリス人観光客の減少を見越してドイツ人観光客誘致にキャンペーンを絞ったのが当たりました。おまけに中近東のテロ不安で北欧人は同じ地中海の浜辺なら、安全なスペインへ、輝く太陽も同じだろう、と増えました。この正月休暇も地中海沿岸やカナリア諸島(Islas Canarias)のホテルは超満員でした。その観光業に引っ張られたお陰でレストランやバルはパートやアルバイトレベルの契約とは言え雇用が増えました。不安は年金です。ストックに底が着きそうなので、すねかじり若者たちはアルバイトでもいいので仕事に就いてジジババの年金を少しでも賄って欲しいです。


 でも、まぁ、毎日ワインを飲むにはノープロブレムです。それどころかワインのランクを上げられそうで、ウフフ・・・の僕です。スペイン市民のマイナス思考を生んだのが去年一年間の“無政府状態”ですが、新内閣誕生で彼らはプラス思考になりました。ナヴィダァが終わった翌日から恒例の大バーゲンセール(Rebajas)が始まりました。今年は週末だったのでマドリードの銀座通り・グラン・ヴィア(Gran Via)や銀座四丁目に当たるカジャオ(Callao)は買い物客でごった返しています。2月末までバーゲンは続きます。僕も買いたいものがありますが、ニュースを見て行く気が無くなりました。ますますネットショップの買い物が増えます。

手作りロスコン

 話は食べ物になりますが、ナヴィダァの最終日(16日)のレジェス・マゴス(Reyes Magos/東方の三賢王)はクリスマスプレゼントの日です。そのパーティーで食べるのがパウンドケーキのロスコン(Roscon)です。僕のスペイン人の友達は家族でロスコン・コンクールを毎年やります。家族のそれぞれが自分でロスコンを作ります。今年は僕の友達が優勝をしました。


 彼がコンクール前の試作ロスコンを大晦日に持って来てくれました。カヴァを飲みながら食べましたが、さすが手作りです。しっとりとして香り高いロスコンでした。お菓子屋のロスコンはまだましですが、スーパーで売っているロスコンは生地を解凍して焼くので中がパサパサです。彼曰く、生地を練るのがかなりの力仕事だそうです。それを寝かして二回発酵させたようです。ロスコンの中にはソルプレッサ(sorpresa/ビックリ)と呼ぶ宝ものが隠れています。

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