マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン45年。

赤ワインの友

2017-02-20 17:00:00 | スペイン日記

 

 

イベリコ豚のチョリッソ

 

 

 冬は赤ワイン(vino tinto)で体を温めますが、あの、北ヨーロッパのホットワインには“ちょっとぉぉ”です。マイナス20度の北の街での飲み歩きにはぴったりのホットワインですがマドリードでは常温ワインです。でも、ドイツ人がホットワインのつまみに齧るフランクフルトソーセージは旨そうです。ホットワインは甘いのでフランクフルトソーセージの塩と塗った辛子が合うのでしょう。


 寒い、寒いと言っても、マドリードの冷え込みはマイナス5度くらいです。それも夜明け前なのでマドリっ子の多くは寝ています。僕なんて、布団に入る時間です。冬の深夜、マドリードのバルで飲んでいて、さぁ、帰るかぁ、まだ終電にも間に合うよなぁ、と飲み友達と外に出たときはプラス1度か2度です。顔はワインでポカポカ赤顔です。終電とはマドリードなのでメトロの終電ですが地下は暖かいので上着を脱いでしまいます。


 そのワインですが、白よりも赤を飲むと、なぜかツマミが欲しくなります。タパス(tapas)はバルのツマミの定番の言葉となりました。ツマミと言うよりも「当店自慢の突き出し」、居酒屋の一品料理に近いです。本来マドリードのバルではワインのツマミはタダですが、タパスは金をとられます。ツマミはワインの友で、それ込みがワイン一杯の値段でした。アセイツナ(aceituna/オリーブの実)が一般的なツマミでした。昔、まだスペイン通貨がペセタ(peseta)の時代だったのでもう20年以上も前の話です。


 マドリードのあるバルがパリジョ(parillo/ 楊枝)に刺した一口ツマミをカウンターに並べました。ピンチョ(pincho)と呼んでいたと思います。ワインを飲みながら勝手にピンチョをつまんで、パリィジョを自分の前に置かれたコップに入れました。日本の串焼き屋や焼き鳥屋で食べた後に串を壺に入れるようなものです。バルのツマミの勘定はコップの中のパリィジョの数から一本抜いた数でした。3人だったら3本抜きます。一本目はいつもの“ワインの友”なのでタダです。パリィジョは日本の楊枝のように丸くなくて平でした。


 それで、トルティージャ(tortilla/スペインオムレツ)やメヒィジョン(mejillon/ムール貝)やハモンセラーノ(jamon serrano/生ハム)などのツマミを刺してありました。当時のバルはえびの皮でも紙でもポイポイと床に捨てるのが当たり前だったので、うっかり床にパリィジョを捨ててしまいました。その時は正直に“自己申告”をしましたが、一、二本なら大目に見てくれました。


 バスク州(スペインの北東、隣はフランス)では昔からバルで出るのはタパスだったのでワインとは別代金でした。缶詰を開けたようなツマミではなくて、手料理の当店自慢のタパスでした。それがマドリードにも持ち込まれて全世界へ“スペインのタパス”と広まったのです。本家はバスクだと思います。


 10年前まではバルでワインを一本空けても運転をして家へ帰れました。夜、走っている車はみな同じように“ちょっと”フラついていました。前を走っている車がフラついたら、クラクションをブーブーと鳴らしてお互いに注意を促していれば事故もなかったです。でも、EU(ヨーロッパ連合)の行儀の良い国民から、それはないだろう、と笑われたのでスペインも飲酒運転の取り締まりが厳しくなりました。

 

 

一つのブタ皮で赤ワイン一杯の友

 仕方がないので僕もメトロかバスで飲みに行くようになりました。これが、億劫です。 だから家呑みが増えました。ツマミは封を切るだけの袋物とか缶を開けるだけの簡単なものです。赤ワインにはチョリッソ(chorizo/腸詰)ですが、アセイツナもいいです。冬は“ブタ皮(コルテッサ/corteza)”を齧りながらワインを飲みます。スーパーでポテトチップスの袋の横にいつも並んでるのが「ブタ皮チップス」です。ビールとも相性が良いのですが、ブタ皮チップスは口の中の水分を吸い取るのでビールの友だとついつい食べすぎます。赤ワインだと齧る程度で済みます。

ビール一杯分の友のブタ皮

 

 赤ワインを飲みながら、南欧と呼ばれる割には、ここは気候的にはきびしいところだなぁ、と思います。「9か月の冬と3か月の夏」がカスティージャ地方の気候です。カスティージャ(castilla)は「城の国」の意味で、地理上ではイベリア半島(スペイン+ポルトガル)の中央台地・メセータ(meseta)の部分です。そのど真ん中に一番大きい王宮(パラシオ・レアル/Palacio Real)を構えるのがマドリードです。


 冒頭の言葉はメセータの土地質と太陽の日照時間が作り出した独自の自然環境のたとえで、もちろん、数週間ですが春と秋もあります。今で言う体感気温のような“体感気候”です。日照時間が少ない冬の間ではメセータは海岸よりも早く温まります。でも日が暮れるとメセータの放熱は“速い”ので冷え込みます。夏の日中は“焦げ付くような熱さ”ですが日が落ちれば涼しい風が流れ込みます。海岸はだんだんと温まり、だんだんと冷めます。

カスティージャ地方・コカの城

 その“だんだん”が無いのがカスティージャです、メセータです。海岸の湿気を含まないカスティージャの空気の中では太陽がハッキリとした陰影を造り出します。この2月はその日照時間が長くなったのを肌で感じ始めます。今、マドリードは冬時間なので日の出は8時過ぎ、日没は7時ころです。そうそう、この月末はカーニバルです。スペインでカーニバルが盛り上がるのは本土ではなくて、アフリカ大陸の横のカナリヤ諸島です。暖かいので裸で踊り狂います。

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2017年新春

2017-01-11 17:30:00 | スペイン日記

2017新春

 “幸運を呼ぶブドウ12粒”を食べてカバ(Cava)を開けて新年を祝いました。日本では新年を迎える除夜の鐘が108回鳴りますが、2週間も続くナヴィダァ(Navidad/スペインのクリスマスで1224日~16日)では12回の時計の音で十分です。毎日が飲んだくれの話は毎年書いているので去年のブログを覗いてください(ブログ・2016年、よろしくお願いします)。年初めから手抜きで申し訳ありませんが、マドリードの正月も46回目となると、正直、飽きました。と、言ってどこで正月を過ごしても似たような行事です。


 さて、2017年のスペインは悲観的ではありません。政治は保守維持で政権安定度は60%、経済は問題だったスペインの銀行負債額は増えずに、企業や個人への貸付額が増え始めました。庶民も“タンス貯金”を使い始めました。失業不安が減ったためです。スペイン人気質と言うよりもラテン人気質だと思いますが“欲しいものは借金をしてでも買う”と言う本来の姿に戻り始めました。外国資本のスペイン製造会社への本国からの投資が増えているので輸出も好調です。


 それだけではなく、スペイン経済の大黒柱・観光はスペインを訪れる外国観光客数がうなぎ上りで、ホテルは大入り満員のウハァウハァの笑い顔です。ブレグジットによるイギリス人観光客の減少を見越してドイツ人観光客誘致にキャンペーンを絞ったのが当たりました。おまけに中近東のテロ不安で北欧人は同じ地中海の浜辺なら、安全なスペインへ、輝く太陽も同じだろう、と増えました。この正月休暇も地中海沿岸やカナリア諸島(Islas Canarias)のホテルは超満員でした。その観光業に引っ張られたお陰でレストランやバルはパートやアルバイトレベルの契約とは言え雇用が増えました。不安は年金です。ストックに底が着きそうなので、すねかじり若者たちはアルバイトでもいいので仕事に就いてジジババの年金を少しでも賄って欲しいです。


 でも、まぁ、毎日ワインを飲むにはノープロブレムです。それどころかワインのランクを上げられそうで、ウフフ・・・の僕です。スペイン市民のマイナス思考を生んだのが去年一年間の“無政府状態”ですが、新内閣誕生で彼らはプラス思考になりました。ナヴィダァが終わった翌日から恒例の大バーゲンセール(Rebajas)が始まりました。今年は週末だったのでマドリードの銀座通り・グラン・ヴィア(Gran Via)や銀座四丁目に当たるカジャオ(Callao)は買い物客でごった返しています。2月末までバーゲンは続きます。僕も買いたいものがありますが、ニュースを見て行く気が無くなりました。ますますネットショップの買い物が増えます。

手作りロスコン

 話は食べ物になりますが、ナヴィダァの最終日(16日)のレジェス・マゴス(Reyes Magos/東方の三賢王)はクリスマスプレゼントの日です。そのパーティーで食べるのがパウンドケーキのロスコン(Roscon)です。僕のスペイン人の友達は家族でロスコン・コンクールを毎年やります。家族のそれぞれが自分でロスコンを作ります。今年は僕の友達が優勝をしました。


 彼がコンクール前の試作ロスコンを大晦日に持って来てくれました。カヴァを飲みながら食べましたが、さすが手作りです。しっとりとして香り高いロスコンでした。お菓子屋のロスコンはまだましですが、スーパーで売っているロスコンは生地を解凍して焼くので中がパサパサです。彼曰く、生地を練るのがかなりの力仕事だそうです。それを寝かして二回発酵させたようです。ロスコンの中にはソルプレッサ(sorpresa/ビックリ)と呼ぶ宝ものが隠れています。

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カストロの死

2016-12-06 14:00:00 | スペイン日記

トップ記事はカストロの死

 日本ではニュースではなかった、キューバの独裁者・フィデル・カストロ(Fidel Castro)の死ですが、ここスペインでは新聞、テレビのトップニュースでした。ヒスパニック国の盟主・スペインから独立した中南米の国々はアメリカ帝国資本主義の餌食となりました。カリブ海の小さい島・キューバもそうでした(横長なので東から西まで1000キロメートル)。


 サメに食われなければフロリダ半島まで泳いで行ける距離なので、アメリカ人の恰好のリゾートです。良質のサトウキビと香り豊かなタバコの葉が生い茂るキューバ島はエメラルドグリーンのカリブ海に浮かぶ“青春の島”にアメリカ人には映ったようです。そりゃ、臭い牛のケツばっかり追ってる荒野のカウボーイには夢の土地でしょう。


 キューバの独裁者・バティスタ(Batista)をそそのかしてアメリカはキューバの経済を支配しました。それを覆したのがカストロと“チェ”ゲバラ(“CheGuevara)の1959年のキューバ革命でした。革命政府はアメリカ企業もアメリカが整えたインフラも全てを国有化し、共産主義国家にしました。反撃に出たアメリカはキューバ経済制裁をしましたが、それから50年以上もカストロ独裁政治(Castrismo)は続いています。90歳でフィデル・カストロは死にましたが、10年前から弟のラウル・カストロ(Raul Castro)が国家評議会議長を引き継ぎ20182月までカストロ独裁政治を続けます。


 ところで話は60年ほど前に戻ります。1960年代のスペインはまだフランコの独裁政権でした。フランコの出身地はスペイン北西(ポルトガルの上)のガリシア州(Galicia)です。カストロの父親もそのガリシア出身で、17歳でキューバへ移民をしました。どうも、このガリシア州は独裁者を生む土地柄のようですが、それは祖先・ケルト民族の血でしょうか?


 独裁者ではありませんが現首相・ラホイもガリシア人で、その党・国民党(PP)もガリシア生まれです。アメリカのキューバ経済制裁に従わなかったのがフランコでした。キューバへ送ったスペインの貨物船はカリブ海で米海軍から砲撃を受けましたが彼はへこたれませんでした。フランコは反共産主義者でしたが独裁者同志には相通じるところがあるのでしょうか、カストロはフランコが死んだ時に3日間の喪に服しました。キューバと通商をしながらもフランコ政府はアメリカとも友好を続け米軍基地はスペインに在留しました。また、反カストロ派のキューバ亡命者も大量に受け入れました。


 この二重人格者にも思えるようなスペインの態度は旧盟主としての責任よりもカトリックの人道主義でした。ところが、スペインが欧州連合(EU)に加盟してからは以前のようなキューバ関係はできなくなりました。欧州連合の立場はアメリカのキューバ経済制裁に追従なのでカストロの反感を買いました。でも、カストロはスペインを訪れ父親の故郷・ガリシアも行き、スペイン国王とも歴代の首相とも友好を保ちハバナ葉巻を贈り続けました。


 マドリードのキューバ大使館のある通りの名前は“ラ・ハバナ通り”です(Paseo de La Habana)。移民の子とは言え、カストロは裕福な家庭で育ちました。父親はキューバで一旗揚げ、大農場を経営しました。あとで一緒に革命を起こす、アルゼンチン人の“チェ”も裕福な家庭の子でした。のちに全中南米に波及する人民革命の走りとなったキューバ革命を起こした二人ですが、金持ちのボンボンだったのです。


 カストロはハッタリ男でした。少数の革命軍をあたかも大軍隊かのように見せるためにマスコミとテレビを利用しました。それをまともに信じた民衆は革命軍に加わりました。まだスマホもない50年代末のことです。途方もない数に膨れ上がり、加わらない民衆を容赦なく殺すカストロの残忍さに怯えあがった当時の独裁者・バティスタはメキシコへ亡命をしました。この時に一万5千のキューバ人家族が首都・ラ・ハバナの港からアメリカのフロリダへ逃げ出しました。


 こうしてキューバ革命は成功をしましたがマイアミには亡命者たちの街“リトル・ハバナ”が生まれ、“二つのキューバ”の時代が始まりました。ラ・ハバナ大学では弁護士になるために法律を学んだカストロですが、政治には素人です。彼が選んだ国策は、マルクス・レーニン主義でした。カストロはラッキー男でした。60年代のアメリカの力は「イケイケ」だったので、カリブ海を封鎖してキューバを経済閉鎖すれば数年で根を上げると思いました。スペインからの援助があると言っても必要最低限の程度だったので、日用品も石油も不足し始めました。


 そんな時に現れたのがアメリカとの冷戦中だったソビエト連邦です。フロリダ半島まで泳いでも行ける距離のキューバに核ミサイルを置けば、アメリカ帝国は“びびり”ます。アメリカの大陸弾道弾(古いですが、胴体の太い核ミサイルです)がモスクワに着く前にワシントンには核爆弾が落ちます。ソビエトの核ミサイル設置の見返りが石油の無償補給でした。これでカストロは石油の心配は無くなりました。それどころか、この“タダ油”を中南米の国々へも回して人民革命の火種を広げて行きました。


 ソビエト核ミサイル問題は当時のケネディ大統領が収めますが、優柔不断の彼は米海軍のキューバ上陸作戦に失敗をします。それによってソ連軍がキューバに常駐を始めますが、どうもロシア人とキューバ人はお互いに馴染まなかったようです。例ですが、キューバにはアメリカ時代の丸い大型の40年代50年代のアメ車が残っています。キューバ人はそれをスペイン語で“アルメンドロネス(Almendrones/アーモンド)”と呼んで大事に手入れをしました。今も現役のタクシーとしてラ・ハバナの街を流しています。ソビエト時代の車はイタリア・フィアット社製の箱型小型車を“共産主義風”にアレンジした味も素っ気もない代物でした。キューバ人の好みに合わなかったのか修理もされませんでした。


 しかし、そのソビエト連邦が崩壊してしまうと、ロシアは石油の供給をやめます。再び貧しくなったカストロ・キューバですが、そこに救いの手を伸ばしたのがベネズエラのチャベス大統領(Chavez)です。チャベスはカストロを“わが司令官”と呼ぶほどの信奉者です。中南米トップと言われるキューバ医療と医者をベネズエラへ送る見返りが、石油の無料提供でした。再び、“アーモンド車”は走り始めました。この経緯でチャベスはガンの末期治療をキューバで受けたのです。


 ところが、世界的な原油価格暴落が起こりベネズエラ経済は崩壊し、ハイパーインフレになりました(ブログ・コンドームよ、お前もか・・・)。ベネズエラ国民の方が食糧危機となり、チャベスは死に、キューバは再び貧困になりました。でもカストロはラッキー男です、今度はオバマ大統領が現れました。アメリカとは絶交状態でしたが2015年末にオバマ大統領が経済制裁の緩和へと向けた友好外交を打ち出しました。次期大統領候補だったヒラリークリントンもその路線で進む予定でした。ここで番狂わせが起き、次期アメリカ大統領にトランプがなりました。カストロは死んでキューバの“ツキ”も消えました。


 カストロはモテ男でした。話は戻りますが、キューバ上陸に失敗したアメリカ政府はC.I.A.にカストロ暗殺を命令します。ギネスブックによると600回以上の暗殺計画が実行されたようですが強運のカストロは生き延びました。その中には“マタハリ(女刺客)”もいましたが彼女がカストロに惚れてしまい、失敗に終わりました。それくらいカストロはモテ男だったので、正妻の他にも愛人が居ました。カストロ自身は自分の子供は11人と思っていたのに12人目が現れたときは“本当か?”と驚きました。


 その唯一の正妻との間には息子一人だけですが、そんなカストロに愛層をつかした妻もさすが“革命家の妻”でした。彼女がカストロと離婚をして再婚をした相手は反カストロ派、政敵の弁護士でした。彼女の名はミルタ(Mirta)彼はミリオ(Milio)でロメオとジュリエットのような話ですが、マドリードへ逃げました。ミルタはまだマドリードに住んでいて、今年88歳です。


 おっと、話はカストロでした。逸話には事欠かないカストロですが、どうも革命家に求められるのは政治的野心だけではなく逸話を生み出す人間的魅力も不可欠のようです。数多くの暗殺計画にさらされていたので私生活は国家機密だったカストロの生涯ですが、これからは沢山の“あばき本”が出てきそうです。


 マドリードの中心地、僕が行く“飲み屋街”の近くにアテネオと呼ばれる文化人サークルの会館があります。前は僕も会員だったので、そこのバルでも飲んでいました。キューバ人の文化亡命者も集まっていました。彼らは反カストロ派なので“話し半分”のところがありますが彼らから聞いた話です。カストロ兄弟の反対派の虐殺は酷かったそうです。弟のラウルがあまりにも人を殺すので兄のフィデルが、そんなに殺したらキューバを復興する国民が足りなくなる、と叱ったそうです。


 そのフィデルが晩年になって手本としようとしたのがヴェトナム式民主化でした。弟のラウルがどこまでその路線を進めるのか、が明日へのキューバのカギです。医療と教育が無料のキューバですが、今の給料は月に25ユーロ(約3千円)です。う~ん、甘い香りのハバナ葉巻がタダでも毎日ワインはちょっと無理ですね。

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トランプ爺さんは闘牛だ

2016-11-14 11:30:00 | スペイン日記

ざまぁみたか!をダブルサインするヤンキーを一面に載せたエル・ムンド紙

 スペイン人もトランプアメリカ大統領誕生にはビックリでした。ヒラリーの初女性大統領誕生を目論んで貿易関税の完全撤廃化を進めていたヨーロッパ連合(EU)の国々には“寝耳に水”でした。ヒスパニック系移民者を通してスペイン語をアメリカに広めているスペインにも悪影響はジワジワと出るでしょう。誰が見ていたのかは知りませんが大統領選の日、スペイン時間の夜中の1時から朝の9時まで、一晩中開票の進行ライブをスペインのテレビ局は放映をしていました。ご苦労様ですが、スペイン庶民がそんなものを一晩中見ていたとは思えません。マドリードのアメリカ大使館ではパーティーも兼ねての開票ライブをやっていました。マドリード市内だけが翌日は祝日だったとは言え、見たマドリっ子がいたらよっぽどの物好きです。


 それにしても元気一杯のヤンキー爺さん・トランプが出てきたものです。好き勝手なことをやってもその歳なら失うものはないでしょう。我々同世代としてはそこまでやるか!?ですが、老後の生き方としては満点です。財力も核ミサイルも美女も手中にしてしまったのですから羨ましい限りです。それに議会の上下院も牛耳れるので“合法的”かつ最強の独裁者になったのも同然です。あのヒトラーも墓場から世界の独裁者になったトランプ大統領を羨ましがっているでしょう。生きていて似ているのが北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)ですが、彼にはレベルの違いが悔しいはずです。これからどんなとんでもないことをやらかすのか、と楽しみです。


 共和党員も合衆国議会も大統領就任後しばらくはトランプに暴走をさせておいたほうが賢明です。スペインの闘牛も暴れさせておけば疲れますし、トランプはもう年寄りなので息切れを始めます。ちょうど“いい子お利口さん”大統領にはうんざりしていたので面白くなりました。暴れ過ぎれば、あのレーガン元大統領の時のように誰かがピストルで必ず撃ちます。ケネディの時のように自国の大統領も殺してしまうような国ですから、自然にブレーキがかかるでしょう。イギリスが欧州連合から“ブレグジット”したようにアメリカが世界から“アメグジット”したと思えばいいのです。


 アメリカが居なくなった暫くの間、我々は我々だけでやって行けばいいのです。アメリカ人は寂しがり屋なので、世界から仲間はずれにされたら彼らから寄り添ってきます。そこがイギリス人との違いです。時々ネットで“トランプショー”が観られれば、こんな楽しい老後の暇つぶしはありません。ドンドンやって下さい、トランプ爺さん!


 さて、スペインは111日の「トドス・ロス・サントス(Todos los Santos)」の祝日を挟んで、首相の選任と国王による承認や新内閣誕生がせわしくありました。やっとスペイン新政府ができました。「トドス・ロス・サントス」とはキリスト教の“諸聖人の祝日”ですが“スペイン版お盆”と思えば我々日本人には分かり易いです。

ブニュエロ

 庶民が年に一度墓参りをして、墓を掃除して花を添える日です。で、この日のお茶菓子が写真のブニュエロ(buñuelo)なのです。中には生クリームやチョコレートクリームが入った揚げ菓子です。やっと10か月ぶりにスペイン新政府が誕生しましたが、長い道のりでした。新年のブログ「2016年、よろしくお願いします」で総選挙(一回目)があった話とその選挙結果を書きました。でも組閣に至らなかったので再総選挙(二回目)が行われました。6月の末でした。


 前回と大差ない選挙結果だったので夏のヴァカンス中も組閣に向けて政党の間では折衝が繰り返されました。芳しい進展なく、このクリスマスには三回目総選挙になりそうな雲行きでした。が、前回のブログに書いた「社会労働者党(PSOE)の書記長の引きずり降ろし騒動」で雲行きが大きく変わりました。国会における首相選に立候補した国民党(PP)のラホイ前首相が社会労働者党議員の棄権のお陰で首相に再選されました。そのほぼ一週間後に新内閣が生まれました。ラホイ首相を含めた14人の内閣で、6人が新任大臣です。女性大臣は5人です。

ラホイ新内閣誕生

 やっとこぎつけたスペイン新政府ですが、法案ごとに各党との折衝になるのは避けられないので短命で終わるかも知れません。その新政府がぶつかったのが“トランプ大統領誕生”でした。それにしても、一年近くの間の“暫定内閣”は法案可決権もない“無政府”同様でした。でも、庶民は毎日仕事をし、子供は学校へ行き、スペイン経済は上がりました。戦争さえなければ、“国”って結構“政府なし”でもやっていけるのはないでしょうか・・・?


 そうそう、闘牛って突進しかできないので、闘牛士に殺られるのです。昨夜のTVニュースです。“トランプ大統領誕生”でアメリカ人がしたネット検索数のトップは「シェルター」でした。スペイン人は「メラニアのヌード」でした。(⌒▽⌒)アハハ! 僕はスペイン人です。

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ボチョルノッソ

2016-10-11 17:30:00 | スペイン日記

マドリードの北、グランハ宮殿の秋の庭です

 残暑のきつかったのが9月の初旬でした。ところが急変してマドリードの山には初雪が降りました。オイオイ、冗談はよしてくれよ、と冬物を出したら再び夏に戻りました。コロコロとお天気が変わっても若い子はへそを出したままですが、年寄りは一枚羽織るかワインを一杯やって中から温めないとやっていけません。


 爺臭い話ですが、僕なんかには血圧の上下が心配になるのが季節の変わり目です。春と秋は早目に安定して欲しいので、やっと“日中シャツ一枚/朝晩セーター”のマドリードの秋に落ち着いたので一安心です。暖炉を焚くどころか暖房も要らない程度の朝晩の心地よい冷え込みを味わえるのがマドリードの10月です。ほんの一週間程度の秋で、月末には冬時間になります。今のサマータイムが1時間遅くなります。


 街のギャラリーも2016-2017の展覧会が始まり、届くメール案内が増えました。学校も新学期が始まったので、車が異常に混みます。家の周りには学校が多いだけではなく保育園や幼稚園も多いので(ざっと数えても散歩する範囲には10校はくだらない。ちなみにうちの隣家には保育園になっている家もあります)、朝の9時前後は車の渋滞で身動きがとれません。


 日本は小学生でも定期券をぶら下げて一人で“電車通学”しますが、マドリードでは保護者(家族かお手伝いさん)の送り迎えが義務です。車で来るのが多く、なかには一人の親が自分の子の同級生も乗せて来ています。交代で送り迎えをしているのでしょう。こうなると車道だけではなく歩道も車に占拠されるので歩けません。この“登校渋滞”は朝の一時だけで下校時は部活もあるのか緩いです。近所の住民は迷惑ですが、自分たちの子供もその恩恵に授かっていた時もあったので警察に届けたりはしません。仕方ないので車で出かける時は10時過ぎにします。幸い、画材屋や絵描き関係のものは10時オープンです。日本での“新しいスタート・春”がヨーロッパでは“新秋”なのです。

引きずり降ろされたサンチェス前書記長

 一向に新学期にならないのがスペインの政府です。いまだに前政党・国民党が政権を引き継いでいます。2回も総選挙をやったのに組閣できない話はすでに書きましたが、ここにきて進展がありました。国民党(ペーペー/PP)の再組閣を阻んでいたスペイン社会労働者党(ペーセーオーエ/PSOE)のトップ、サンチェス書記長が引きずり降ろされました。党内の反サンチェス派のクーデターです。直ちに緊急委員会がもたれ、マドリード市内にある党本部に集まった200人程度の委員たちの反対派と賛成派(政敵・国民党のラホイ内閣設立にイエスかノーか)に分かれた罵倒の投げ合い会議は(半)生中継でメディア(TV、ラジオだけではなくネットも)が“料理”しました(いい加減な火加減、適当なスパイスでした)。


 面白そうだったので僕もテレビの前に座ってサッカー試合を観るように観ていました。ワイン片手で。もちろんメディアはシャットアウトの委員会でしたがスマホで“ライヴ”を流した委員も居たので、次期書記長候補のアンダルシア自治州の首長・ディアス女子が混乱ぶりに泣き出したのもメディアに漏れました。党内部がそうなら、党本部前では党員同志の路上バトルとなりました。137年もの歴史をもつスペイン最古の政党はみっともない内ゲバ劇を披露してしまいました。

路上バトル

 党の歴史に泥を塗った顛末にはボチョルノッソ(Bochornoso/恥ずべき)のスペイン語がメディアの与えた“輝くタイトル”でした。常識で考えても、党をまとめられないサンチェスには一国の首相になる資格はないでしょう。書記長なしの社会労働者党は次回の党総会までは暫定委員会が運営をします。その委員長が、取り敢えず政治を続けているラホイ首相(国民党)と話し合いを始めたので再び首相任命選が国会で行われそうです。1031日までに新内閣が誕生しないと、クリスマス前に3回目の総選挙です。有権者は冗談じゃない、と言ってるし、そうなったら社会労働者党は潰れるかも知れません。


 前サンチェス書記長は選挙のたびに議席数を減らしたのに自己反省“全くなし”でした。責任を取っての辞任の「じ」の字も出ないので、いつかは強硬手段を使われるのでは? と誰でも思っていた矢先の“引きずり降ろし”でした。二回目の総選挙で、とうとう史上最悪の84議席数まで減らしただけではなく、ついこの間のバスク州、ガリシア州の地方選でも“ぼろ負け”をしました。責任を取らないサンチェスに政治的危機を感じただけではなく経済的にも党の維持の危機感を、多くの州の首長たちや中央委員たちは感じたようです。

社会労働者党の歴代書記長。今でもドンのゴンサレス(中央)、スペインの財政破綻危機をつくったサパテロ(右)、首相になりそこなったサンチェス(左)

 国から貰う党資金は獲得議席数に比例します。今までの110120議席でもやり繰りがきつかったのに84では首を絞めかねないのは誰でも分かります。党の銀行借金は7500万ユーロ(ほぼ90億円)ですが、利子を6%から3%まで下げて貰ったので党本部の不動産売却を免れているようです。クーデターのほとぼりが冷めたら、サンチェス前書記長がカタルーニャ社会党(ペーセーセ/PSC)を使ってカタルーニャ独立派の政党群と組んで首相の座を手に入れようと目論んだ疑惑が出てきました。


 スペイン社会労働者党は「一つのスペイン」がマニフェストで、カタルーニャ州独立/分離には反対です。10月末の冬時間に変更までは“叩けばホコリ”の「サンチェス・ニュース」の毎日になりそうです。スペイン社会労働者党は真二つに割れただけではなく、割れたそれぞれも“党のマニフェストをズタズタにして忠誠心はバラバラ”の内部状態だそうです。

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