マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン52年。

アディオス、アドルフォ・スアレス元首相/ Adiós, Adolfo Suárez(1932-2014)

2014-03-31 12:30:00 | スペイン日記

スアレスとは関係ない、近所の公園のアーモンドです。春の便りです。

 僕がスペインへ留学した1970年は、まだフランコ総統独裁政治時代でした。戦後の日本で無まれ育った僕らの世代には「自由」は空気みたいなもので、特に意識もせずに育ちました。国民に自由のないのが独裁政治だ、と知ったのはマドリードで生活を始めた翌年で「時はすでに遅し」でした。まだスペイン語もよく分からなかったけれど、テレビは白黒で放映時間も短く、昼のニュースのあとは放映もシエスタ(Siesta/昼寝)だった。夜も、フランコ!バンザイ!で10時頃には終わっていました。

 新聞もフランコ派(ファランヘ党/Falange)と教会派(カソリックです)の二種類、カワイイねーちゃんのハダカの写真なんかはご法度だった。老婆だけでなくオバサンも黒い服を着ていたし、文盲のスペイン人も多かった。薄汚れていたとは言え石やレンガ造りの建物は冷たい感じなので、灰色がマドリードのカラーイメージでした。夜の10時半か11時頃になるとバルは閉まりました。

 ただ繁華街の各ブロックには一軒だけ夜遅くまでやっているバルが必ずあった。人が集まっているのはそこだけだから、何かがあったら、警察はそこを抑えれば良かったので特別に許可していたのです。バルの客には秘密警察が混じっていたようです。今から考えれば、恐ろしい時代だった訳です。深夜、そんなバルで飲んで、学生寮まで歩いて帰っていましたが(メトロやバスはもちろん終わってる時間です)路上に立っている治安警官に身分証明書を出せ、と数回呼び止められました。

 街のアパートの入り口にはセレノ(sereno)と呼ぶ門番がいて深夜に戻っても入り口のカギをあけてくれました。思えば、彼は住人が全て戻ったかも確認できたわけです。必ず、誰かが誰かを見張っていた時代でした。集会の自由も無かった時代で、6人だか12人だか忘れましたが、まとまって集まるには許可が必要でした。カーニバルは民衆が仮装するので禁止されていました。仮装して暗殺を企てるテロ集団を政府は恐れたのです。


 今思えばスペイン語が分からなかった分、スペイン人みたいな深刻さは無く、外国人として住んでいられたわけで、何かあったら日本へ帰ればいい、だった。でも、ヤバイ国へ来てしまったなぁ、窒息しちゃうよ、と夏休みはアムステルダムへ行きました。周りのヒッピーから(当時、アムステルダムの中央広場はヒッピーたちの寝ぐらに開放されていました)フランコが暗殺されたようだ、と聞きました。新聞をよく見たら、フランコ(Franco)では無くブランコ(Blanco)、FではなくBでした。

 フランコ総統の右腕だったブランコ首相のエタ(ETA/バスク独立のテログループ)による爆弾暗殺でした(1973)。使われた爆薬が多量だったので、吹き飛ばされた車は建物を飛び越えてパティオ(patio/中庭)に落ちました。道路にできた大穴は、壊れた水道管でプールみたいでした。その数年後、天寿を全うしてフランコは死に(1975)、スアレスが首相に抜擢されました。国王となったファン・カルロス皇太子が自分の右腕となり、スペインを立憲君主国家にするようにスアレスを首相に任命しました(1976)。


スアレス元首相

 当時、国王31歳、スアレス首相36歳と若手コンビでスペインの民主化が始まりました。それからのスペインの変革は凄まじく、映画よりも面白い毎日となりました。毎日必ず何か新しい出来事がありました。バルの閉める時間が自由になったとか、ねーちゃんがいるクラブが自由に開けるとか、他愛もないことでしたがまわりが活き活きとしてきました。毎日、日記を書くのが楽しいくらいでした。

 でも、民主社会を体験済みの僕らと違い、スペイン人は急に開かれたら民主主義の扉から入った自由の風に、民衆レベルでは皆が戸惑いました。まずスアレス首相は国民に民主選挙と新憲法の制定、政治犯の釈放を約束しました。共産党から右翼まで全ての政党を認め、総選挙をしました。ウ・セ・デ(UCD)と言う中道から右派、キリスト教派までをカバ-した党で立候補したスアレスは左派の社会党や共産党を破り、スペイン初の民主主義首相となりました(1977)。


国会を出る棺

 フランコの死から総選挙までの2年半をスペインではトランシシオン(Transición/移行期)と呼ぶようになり、スペイン民主主義の曙と位置づけました。その頃のスペインは30%近いインフレに第二次石油危機が襲いかかり、経済的にもどん底でした。ただ失業者が今ほどではなかったが、出稼ぎは多かった。そこでスアレス首相は政党間の壁を超えた「モンクロア協定」を結び政権の安定をはかり、スペイン通貨ペセタの切り下げを断行して経済の立て直しを始めました。

 新憲法承認の国民投票(1978)や治安警察部隊のテヘロ中佐のクーデター(1981)などの首相を辞任(1981)するまでの5年間は激動のスペインでした。決して日本では味わえなかった独裁から民主主義への変革を体験できて良かったと思います。黒から白へ社会環境が変わり、1980年代になってからのスペインはEU(ヨーロッパ連合)への大アプローチで、もう誰もフランコ時代を思い出さず、90年代は完全に「自由」を手に入れてヨーロッパの一員となりました。ユ-ロに加入してからは観光業が大幅に伸びましたが、製造業は頭打ちの失業者地獄となりました。

 でも、フェリペ・ゴンサレス首相、アスナル首相、サパテロ首相とひだり(左)みぎ(右)と変わりながらの政権でしたが、飽きない毎日でした。ただ、スペイン娘が年々ブスになったのがガッカリです。おもて見は美人だけど性格ブスが凄く増えたと思う。フランコの頃は可愛かったかって? いやいや、言葉がわからなかっただけですが、あの頃のスペイン娘には、まだ恥じらいがありました。

 今の自己中のスペイン女性に変わり始めたのは、社会労働党のゴンサレス首相時代からのような気がします。話は戻りますが、確かに、2年半と言う短期間で民主主義の基礎を築いたスアレス首相は真の政治家だったと思いますが、血を流さずにやり遂げた方が驚きです。毎日、昼メシはオムレツだけで、寝る時間も惜しんで仕事をしていたそうです。私欲もなくただスペインのために働いた人で、公約は実行しました。

 彼は「スペインの明日は書かれていない、それを書くのはスペイン国民だ」と民主主義を支え続けたのです。21世紀の腐敗したスペイン政党、それらの政治家たちに「あの当時のスペイン民主主義の始まりを思い起こせ」と国民は怒っています。そのスアレス元首相が3月23日に亡くなり、国会議事堂内に安置されたお通夜には30万人ものマドリード市民が訪れました。「グラシアス、アドルフォ・スアレス(Gracías, Adlfo Suárez)」と別れを告げていました。スアレスはマドリードから北西へ100キロ足らずのアヴィラ県(Avila)の寒村セブレロ(Cebrero)の出身です(1932年生まれ)。


セブレロ村のスアレス記念会館

 マドリード近郊ではサン・マルティン・デ・バルデイグレシアと並ぶワイン造りで有名なセブレロ村ですが、残念ながら僕は不味いワインだと思います。ブドウはガルナッチァ種を使うので、ロゼが少しはましです。


セブレロのワイン。左より赤、白、ロゼ。

スアレスは2005年にアルツハイマーにかかり、この数年は全く記憶を失って、自分が首相だったことも忘れたようです。彼の功績を称えて、マドリードの玄関・バラハス空港が「アドルフォ・スアレス・マドリード・バラハス空港」となりました。


アルツハイマーのスアレスを見舞うファン・カルロス国王(左)
コメント (1)
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