Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

初体験 リッジモント・ハイ(229)

2017-07-10 01:03:56 | コラム
トップ画像は、押し入れから出てきた母子手帳。

手帳そのものに思い入れはない・・・というのは、すべての子どもに共通するところか。

実際、かーちゃんの死後に初めて目にしたものだから。


拙著『情の花』の解説をつづけよう。

それにしても当時の文章は・・・硬い、なぁ。

…………………………………………

【第4章】
『納棺まで』

「早く棺桶に入れてあげないと、”晒されているようで”可哀相だ」

父は、そう考えていた。 

一夜明けて―。 
漸く、納棺である。

私達は母の身体をアルコールで清め、納棺した。
母は、鼻血を流していた。
詰め物をしなかった、病院のミスだった。
私が顔の白布を取り、父が血を拭き取る。
だが数分後には、また血で汚れる・・・。

気温は、どんどん上がる。

眩暈がしそうだ。

存在と、無。
流れる、血。
私達の身体と胸を焦がす、太陽。

私はもう、倒れそうだった・・・。

【第5章】
『通夜1』

高校時代にアメリカ留学を経験した姉とは、今でも大変仲が良く、その関係は、「良過ぎるんじゃない?」と言われるくらいだ。
 
母が亡くなった時、姉はたまたま海外旅行を楽しんでいたため、結局、姉弟揃って親の死に目に会えなかった。
 
姉が帰宅したのは、翌日の午後11時前だったと記憶している。
通夜も終焉に差し掛かったあたりで、姉は声を出さずに号泣しながら、居間に入ってきた。
私がゆっくり右手を差し出すと、姉は(私の顔を見ずに)左手を差し出し、軽く触れ合った。もうこんな事しか、自分には出来なかったのだ。

「・・・うん、急だったからね。でも本当に、最期は、苦しまなかったから。・・・とにかく、顔を見てあげて」

父も、姉に対しては、こう言ってあげるのが限界だった。

姉は結局、母を見る事が出来なかった。
怖かったのだと思う。その気持ちが痛いほど分かるから、その晩は、姉と一緒に居たい・居るべきだと思った。

その晩、私達姉弟は、台所で寝た。
いや正確には、寝転んでいただけだった。

「母さんね、成田で、私に涙を見せたの。・・・分かっていたのかなぁ、こうなる事」
「ディズニーランドにも連れていってあげられなかった」 
「フラワーパークだって、もっと色々な場所に、行きたがってたのに・・・」

姉が入院した時に、何十分もかけて、病院まで徒歩でやってきた事。
「このままでは失明するかもしれない」と医師に宣告され、涙した事。
薬の副作用で、髪がどんどん抜け落ちていった事。

姉は、私が知らなかった事を、次々に語りだす。

私は、母について、「よく知っている」と思い込んでいた。
だから、実は「全く知らなかった」事が、無性に悲しかった。辛かった。

「全然、知らなかった」
「仕方ないよ、東京出てたんだから。ブランクは埋められないよ。それ言うなら私だって・・・、事実が飲み込めないままこっちに帰ってきて、タクシー降りたら人が沢山居るし、花輪が沢山あって、もう祭壇も用意されていて、母さんは柩の中だった。漸く事実なんだって飲み込めたけれど、・・・私はここから、悲しみがスタートしたんだよ。ハンデが大き過ぎる」

結局私達は、朝方まで話し合った。
こんなに話し合ったのは、何年振りだろうか?

きっと、1人になりたくなかったのだろう。
沈黙が怖かった。虚無に支配されそうで、私達は必死に、言葉を捜し続けたのだ。

母も、1人ではなかった。
柩の横で、父は寝ていたのだ。

4人の家族は、こうして繋がった・・・。

【第6章】
『通夜2』

姉が帰宅する1時間ほど前、私は放心状態で、柩の前で正座していた。

暑さも、原因の1つだろう。
脳がとろけるのではないかというほどに、この日も暑かった。

「どう?少しは、落ち着いた?」

聞き覚えのある声である。
近所に住む、同級生のA君だった。

A君とは、あまり良い思い出がなかったはずだ。特に、私にとってというより、彼にとって。
 
小学校時代のある期間、彼は仲間外れにされていた。
私も周囲に倣って彼を無視し、だが自分が仲間外れにされた途端、当たり前のように、彼に話しかけにいったのだ―何ともプライドのない少年だが、その後も酷い展開で、自分が仲間外れから解放されると、それが当たり前とでもいうかのように、再び彼を無視したのである。

そんなA君が、葬儀に来てくれた。

A君は同級生に連絡を取り、この後、私は様々な旧友再会を果たす事になる。

「お前の母ちゃんて、絶対に怒らなかったもんな」
「・・・うん」
「俺達がどんな事をしでかしても、絶対に怒らなかった」
「・・・うん、俺、あんなに迷惑かけたのに」
「誰だって、親に迷惑をかけるもんだよ」
「・・・」

やや背伸びをしたノスタルジーというのも、悪くない。

【第7章】
『私の中学~高校時代』

「大変に胸の厚い子ですね。太り易いかもしれません」

私が誕生して間もなく、産婦人科医は母に、そんな事を言った。
医師の予言(?)は的中し、私は見事、肥満児として中学生活を送った。

デブとは、インパクトのある、刺々しい言葉だと思う。私が敏感に反応しているだけかもしれないが、デブという単語に、ポジティブな意味合いはないのではないか。

不思議な事に、クラスに1人か2人は、デブが存在する。
それはまるで、「クラス編成には、身体的特徴も考慮されているのではないか」と疑いたくなるほどで、必ず数人のデブが、そのクラスの平均体重を上げているのだ。

デブにも「陽気なデブ」と「陰気なデブ」が居て、私は後者だった。

「きっと皆、俺の事を笑い者にしているのだ」―暗くて濁った感情に支配されて、世の中全てが敵であるかのような、そんな毎日を送っていた。
「学園生活が楽しい・・・などと言っている奴が信じられない。おかしな奴らだ。青春期は、灰なんだ。それが、当然」と言ったのは、スティーブン・キング。
この言葉に、どれだけ自分が、励まされたことか。

だがしかし―青春期といえば、恋が必要不可欠である。
恋をした時、デブという身体的特徴は、間違いなく足枷になる。
もちろん「体格の良い人が好き」という女性が居るには居るが、この世の大半を占める意見ではない。

劣等感と、恋―この2つの青春的記号が、私を減量に走らせた。

高校1年時の夏休み―。
食事は1日に1食、ジョギング、ストレッチ、身体をサランラップでぐるぐる巻き、そして・・・猿のようなマスターベーション・・・。

私は、40日間で、約40キロの減量に成功した。

40日間、毎日心配してくれたのが、母だった。

主婦は毎日、家族のために愛のこもった食事を作る。
そんな愛のある創作物を、「だから、2学期まで食べないって」と、私は冷たく、頑なに拒否し続ける。

残念そうな顔を見せる母に、私は二の句が継げなかった。
それでも母は、「今日は食べると言うかもしれない」という期待をよせて、愛のある食事を用意するのだ・・・!!

実は、時をほとんど同じくして、母も減量を決行していた。
母の場合は、糖尿病対策という名目があった。

昼のテレビは、料理番組をひっきりなしに放送している。
夏休みに母とテレビを見ていると、そんな番組に、しょっちゅう出くわす。
私は勝手に減量を始めたが、母の減量は、不本意なものだった。
私はヨダレを飲み込み、母は溜息を吐く。

「あぁ~、いいな~。私も、お腹いっぱい食べたいなぁ」

家族のために食事を作っているのに、本人は、満足に食べる事が出来ない―これじゃあまるで、『七人の侍』(54)の農民達だよ!そんな理不尽な話があるだろうか!?

今でも私は、こう考える―こうなってしまうのだったら、もっともっと、好きなだけ、食べさせてあげたかった。身体の具合が悪くなろうと、母にとってそれが至福であったならば、それこそ嫌になるくらい、食べさせてあげたかった・・・。


つづく。

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明日のコラムは・・・

『初体験 リッジモント・ハイ(230)』
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