空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「凍花」 斉木香津

2014-08-29 | 読書




家庭の悲劇から気持ちよく再生する物語だと思っていた。

評判になるほど美しい三姉妹で、姉の百合は長女らしくいわば優等生である。才能を生かしてデザイン会社に勤めて、少し責任のある仕事を与えられるようになっている。

そんな姉が次の姉の梨花をアイロンで殴って殺してしまった。

末娘の柚香は訳がわからない。そこに百合の日記が出てくる。

端正で、やさしく非の打ち所の無いような姉がなぜこんな日記を書いていたのか。

日記には、生々しい本音が綴られていて、家族のことは憎悪もあらわで、おぞましい渾名で書き込んでいる。
それが14年にわたって続いて、犯行後、日記帳は重ねて物置に積んであった。

柚香は驚き、百合の本性に触れてしまうと、家族の顔までが歪んで見える。
今までの生活は何だったのだろう。

と言う事件の発端から残った家族のそれぞれが、日記を読むにしたがって、今までの時間(特に百合の)を振り返ることになる。

どこの家庭でも何かと問題はある。それが小さいか大きいかは別として、何事も無い穏やかな家庭はすくないのではないだろうか。
絆と言ったり家族愛と言って、それなりにバランスが取れているようでも、また世間体と言うものもあってそちら向きの顔もある。
家庭の中に入ると、変わりないように見える日々は血のつながりだけで成り立っているような(と思い込んでいる)輪がある。本能的な親子の愛情がある。それが個人の心の奥にある真実を見えなくする。
家族であっても姉妹であっても、わかると言うのは傲慢で、家族だからと言って支配できるものでもなければ、自由放埓な生活が許されるものでもない、こういう煩わしい(家族と言うもには決まってある)人間のルールや縛りが家族独特の血のつながりなのだろうが、甘えてはいけない。そういう縛りがあってこそ、理解や愛情が他人とは違う濃さがよりどころなのだ。善し悪しとは別にして個人にかえれば、かえって煩わしいものかもしれないとしても。

中には百合のように、外の世界とうまく付き合っていけないものがある。百合のようなケースは、そう珍しいとは思わない。ただ自分と折りあうことができないことがゆり自身の問題で、はき違えたプライドになやんでいることが見えないだけに家族は安心している。しかし、子供のことが何も解らないほどに安心できるものだろうか。気がついたからこそ母親は日記を書くように言ったのだが。イジメに気づいて転校もさせている。しかし
この辺りの書き方は甘いと思う。

j妹を殺したいと言う衝動に自分をなくしてしまうほど悩みの根が深いものだあったなら、母は別として家族のだれも気がつかなかった、百合のほころびが見えなかったというのはおかしい。

現実に起きている様々な事件は、誰も異変に気づかないほど暗くて、根が深いものだろう。さまざまなストレスにさらされている今、想像を超える闇を抱えた人が衝動的にこう言った事件を起こす。そういう現在の社会を通してみれば、百合のような重たい心を抱えながら暮らしている方がいるということは理解しやすい。理解はできても助けることは難しい。作者もむつかしい問題だったのだろう。

この、実に暗いテーマは時代性を抜きにしたら、あまり面白いとは言えない。
異常に醜悪な、それも家族に対して、救いようの無いほどの悪口暴言が吐き出されている日記を読んで、ただ、励まし。理解している振りをしている。情けない母親も書き足りない。母親が鬱なら、父親はどうなのかと考えてしまう。
子供に対する愛情はどう現していいのか解らないことが多い。子供はかわいい。でも子供は子どもの世界を生きている。それをどれだけ理解できるだろうか。それでも気づかないはずはない
子供は成長とともに、親との関係が変化していくことがわかってくる。親には親の生活があり、子供は新しい社会の中で生きていくことを学んで行く。
それが家庭や心の中に溜めこんで、適応できない繭を作った中にこもってしまうと、弱い羽は伸びることが出来ない。
解ることや理解するために、親は時には自分を捨てなくてはならないこともある。教育は自己の確立、自立という。
子供がいつまでも親に手助けされるを辱(親不孝)とする。家族はどこまでも、できるならば血族という暖かい本能を分かちあっていくのがいい。
智恵と言うのはいつ成熟するのだろう。試練を経て学ぶよりないのだろうか、どんな厳しい試練でも。
暖かい家族がいながらでも、人間ってなんて厄介なものだろう。小説は極端であってもいい、稀な出来事で成り立っているが、やはり現実を離れてはいけない。
百合の犯罪の根が見えると、家族は何か安堵した風になる。こんな深い傷を受けた家族はどう再生していくのだろう。そこが軽い。
百合の無残な日常を知りながらなすすべもなく放置し、妹たちは気がつかない。そんな家族が、大き過ぎる罪を背負った百合を見たあと、残った家族は団結し理解しただけで、形ある日常、自分を取り返すことが出来るのだろうか。出来るわけがないと思うが、なにか明るいのも不思議だ。

作風と言いながら、余りに醜悪な百合の内面と、それを許すような終焉。終結は少し理解するのが辛い。

百合の内面とのギャップが興味深く、印象的な作品だと思えるかもしれないが、もう少し厚みと登場人物に対する愛情を期待したい作品だった。





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猿が嫌いなわけ

2014-08-28 | その外のあれこれ
テンプレートを秋空に変えてみた。目が治ったら空の星でも見よう。

先に書いたエッセイのようなものを載せてみた。目が痛いのでコピペで゜(*´□`*)゜


と書いて、サルが嫌いと言うようなことを書いていたのですが、削除することにしました。

実は今暗い暗い本を読んでいて、気分が沈んできました。そして、猿がきらいなんて長々と書いたのを思い出して、余計気分が落ち込みました。

猿は嫌いですが、そんな事を書いても仕方がありません。

ここに来てくださる方は、楽しい気分のときばかりではないと思います。

本を読んだだけで、なんだか落ち込んでしまって、猿の暗い話を思い出しました。


何か大好きな明るい話題があればまた書き込みます。

書いてしまった猿の話を、先にお読みになってくださった方申し訳ありません。


代わりに前に書いた詩を載せました これもコピペですが (*^^*)ポッ



   下駄                  

分かれ道
どこへ行こうかと下駄を投げると
カラン
ちびた下駄は昔の音がした

下駄と一緒に時はめぐり
母の小さな足跡がついた片方だけの下駄は
下駄箱の箱の中で年を取っていく

どこへ行こうか迷ったときに
下駄は回ってくるくると

見えない星とともに流れて
子供の下駄占いの幻のように
回っては戻ってくる

人型の小さな足跡が示すところに
行き場があったのか
カランいう音は
そうだとも違うとも聞こえる

まだいくつあるか 
分かれ道で下駄の音だけが聞こえて
どちらとも決めかねている

素足に
チラと打ち水などがかかって
俯いて見れば片喰が見返す
どこへ行っても片方で

越し方も行く道もかすんで春
そして初夏




いつもありがとうございます。
気分治しに下手な花の写真でも見てください。





アマゾンリリー と ストレストカーパス





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「片目で、しょんぼり」

2014-08-27 | その外のあれこれ
 左目が少しピンクだなボケるようだなと思ったらちくちくして真っ赤になった。
まただ。しばらく安静。
 でも、片目でタイピングを始めると気がついた。MとNを間違える。普段から弱い左小指のAが抜ける。
変換後は何がなにやらわからない。
それで止めてしまった。
いつも目を使いすぎている。

でも、そう思うと体の中で使っていないところは無い。

「残暑まだ厳しいです、お体を大切に」

ナンテさらっと言うけど。暑い日に大切のするからだの部分ってどこ?暑くない日はどこ?
嫌ね、しつこくて。体って意識しないと見えない部分が多い、自分の体は写真にでも撮らないと、想像で生きてるみたいだ、いつも。
「沈黙の臓器」もあるくらいだから、静かな夜にはそっと全身の声を聞くのがいい、耳だけでなく五感や、六感まで使って(^-^)
まあ細かいことはいいとして、どこってことはなくてもいいや、どこもここも大切にしよう。
昔、「無理」「無駄」「むら」 をなくして仕事しましょう、「三ム」とか言うのがあった。あれいいかも。

お体って一口に言うけど、みえない部分も休まずはたらいているんですよね、あなた、心臓さんご機嫌いかが?

片っ方しかないのに頑張ってくれている腎臓さん、塩分、糖分は丁度いいかな。お水はしっかり飲んでるし。煎茶、ほうじ茶、マテ茶、紅茶、コーヒー それに水をごくごく。体重維持もしてます、もう少しの間は働けるように努力して。

「内臓って縦になって歩いてもずり落ちないのってなぜですか?」わたしはどこでも変な人。
病院の先生は喜んで模型を見ながら答えてくれた。
「ほら、このあたり全体に膜があってね吊り下げたり臓器どうしくっついたりして固定しているんですよ、横隔膜って聞いたことがありますね。胃はたまに腸まで下がることは有りますよね」
「へぇぇ、ふ~~~ん、そういえば胃下垂ってのは聞いたとがあります」
「だから、レントゲンやMRIのときじっと息を止めてと言われるでしょう、写真がぶれるから」
「なぁるほど」

「人体の神秘」と言う展覧会があった、行っとっけばよかたったななぁ。

たまに、今日は右脳を働かせるかな、とかピンポイントで使う日を決めたりして ワハハ


そろそろ目を休ませよう。残りの片目も疲れてきた(^∇^)



スターグラス(白鷺かやつり)



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「ただそれだけの僕の人生」

2014-08-25 | 読書

忘れられない詩の一節や、いつのことだか忘れてしまったが、なぜか思い出す風景や言葉がある。

「ただそれだけの僕の人生」という詩集をもらったことがある。有原さんという学校の先生だった人で、もう亡くなってしまったが、何度か出逢っても挨拶くらいで、余り話したことがなかった。
静かな目立たない人だった。
 インパクトがあるとはいえないこの詩集を貰ったとき、こんなに何度も思い出すとは思わなかった。
初めて見たときは、人柄が表れている控えめな題名だなぁと思った。

「人生」と言うように、 来し方を振り返ったあれこれが書いてあった。

わたしは詩の一節よりも、題名になった、「ただそれだけ」 と言う言葉に共感してたびたび思い出すようになった。
感傷的といえばそうかもしれないが、一つの言葉に自分の真実をこめることは難しい。
この題名は、晩年になって詩集を編みながら、机に俯いて自分を振り返っている詩人が見える。
それは、多分に私に重なって見える。

詩のようなものも、エッセイのようなものも満足には書けないけれど、振り返れば私も毎日「ただそれだけ」の時を過ごしてきたのではないかと思う。

子供時代、学校のこと、勤めた会社のこと、家族の歴史も思えば沢山積み重なってきた。

有原先生はどういう人だったかな、と住所録を開いて確かめる、そんなにも遠くなった名前だが、住所録をたどっていると、私の歴史と共に少し見えてくる。

若い頃化粧品会社で貰って以来使い続けている住所録には、知り合った順に50音別にして書いてある。「ここに書いておいて」と渡して肉筆で書いてもらったこともある。
結婚した日や、生まれた子どもの誕生日も書いてある。斜線で消して、亡くなった日付があったり、引越し先が賑やかな人もいる。「転居」「サ欄へ」「死去」などと書いてある。

まだ続くかもしれない、新しく知り合う人もいるだろう、長く使ってきたのでこの住所録はもう表紙の布の端が破れてきている。

でも ここにあるのは「ただそれだけの私の人生」の一部かもしれないと思う。



あちこち修理してある住所録




有名な詩ばかりだけれどなんとなく 再掲・・・。

帰郷  山羊の歌より 中早中也   

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    縁の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路傍の草影が
    あどけない愁みをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ



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「蛇を踏む」 川上弘美 文春文庫

2014-08-24 | 読書


 ふと買ってきて読んだ「ゆっくりさよならをとなえる」が面白かったので、図書館でこの本を借りた。
芥川賞受賞作だったが、すぐに読めそうな薄い本だった。

「蛇を踏む」
「消える」
「惜夜記」

の三作が入っている。

「蛇を踏む」
サナダさんは公園で蛇を踏んだ。蛇は「踏まれたらおしまいですね」「踏まれたので仕方ありません」と言って人の形になって彼女が住んでいる部屋のほうに歩いていった。
サナダさんは数珠屋で店番をしているが、帰ると部屋に女がいて、食事の用意をしてくれて「カアさんよ」という。お母さんは元気で郷里にいるのに。
それは蛇の形になって天井で眠る。薄気味が悪かったが、用意してくれた夕食はおいしかった。一緒にお酒を飲んだりもするようになる。ずるずるそれに慣れていく。
出奔した祖父が鳥と暮らして三年目に帰ってきたことを思い出す。
数珠屋にも蛇がいて、奥さんのニシ子さんの叔母だと言っていると、夫のコスガさんが言う。その蛇は死にぎわになって人の形を作れなくなり、蛇のままになっているが、ニシ子さんが世話をしている。

そのうち部屋に来た蛇が「蛇にならない?」と誘うようになった。

数珠を収めに言った寺の女房も蛇だという。
導師さま。蛇にもいろいろいるんですよ。大黒さんはコスガさんの方も私の方も微塵も窺わずに、ただ住職だけに向かって言う。お二人のところに来た蛇がどんなものだか、その蛇にあってみなくてはわかありっこありませんわ。

そう言うと、あちこちの箪笥から蛇がぞろぞろ出てきた。
大黒さんはコスガさんとサナダさんのところに来て額をなめたが、住職はにこにこしてみていた。

住職は、蛇の女房はいい。子供は生めないが卵は産む。産んだ卵は蛇にしかならないが蛇がそれでかまわんならわしに文句はない。
などと言っている。

コスガさんは、奥さんのニシ子さんのことが少し気味が悪いと言っているが、コスガさんも次第に形が薄く見えるようになる。
寝込んでいたニシ子さんが元気になって店にでてくるようになって、数珠の作り方を教えてくれる。しかし、夜は蛇に責められ睡眠不足になっていく。もうたまらない。
ついに「蛇の世界なんてないのよ」と言ってしまう。
「いい加減に眼を覚ましなさい」「覚ますのはあなたよ」「そんなこと言って」
女はぐいぐい首を絞める。気持ちいいんだか苦しいんだか、女は相変わらず変な顔だ。それならばと思って女の首を絞め返す。
そして部屋は流されてゆく。

「消える」
家族が次々に消える。でも私にだけ気配が感じられる。上の兄が消えたので、婚約者は古くからの月下氷人のテンさんの勧めで次の兄と結婚する。結婚すると次の兄は嫁さんに冷たくなる。消えた上の兄が、次の兄の嫁さんのところに来ている気配がする、嫁さんはその時胸を押さえて苦しがっている。そのうち嫁さんが「鶴が鳴いています」と不意に言い出し、それを言うたびにひゅんと縮んで、とうとう芥子粒ほどになってしまう。テンさんが「返すかね」といい嫁さんは実家に帰っていった。

次の兄も消えて、私の身体が膨れはじめた。縁談の話をテンさんが持ってきて、嫁ぎ先は決まったが、甘い婚約者の声を聞きながら、嫁ぐと私の体も変わっていくのだろうかと思う。

「惜夜記」
短い不思議な雰囲気の話が19編入っている。

その中では
「馬」が面白い。背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった。
それが痒くてたまらなくなり走り出す。走りすぎて鼻息が荒くなり身体から湯気を立て叫ぶといななきになった。人々は「夜が始まるよ。夜の馬が来たよ」という。得意になっていななくと夜が濃くなった。

「ツカツクリ」
5メートルほどの塚の上に、ビロードの敷物を敷いて、そのものが座っている。何かを持ち上げるように手のひらを上に向けて片膝を立てて微動だにしない。
塚の周りで大きな鳥が鋭いくちばしでそのものをかじり始める。夥しい血が流れ、そのものはかじりつくされる。布は鳥の羽ばたきで舞い上がり、その下には何十もの卵があり、鳥たちは喜びの声を上げる。
目に見えぬものとなったその者の気配があらゆる方向に広がり地と天の間を満たす。
気配に包まれて夜はいよいよ更け闇は真のものとなっていく。


ほかに、夢とうつつの境のような、不思議な世界が展開する。それは言葉で築いた虚実の境目のようだったり、おぼろな心の裡にある形にならない気配だったりする。それが何かわからないけれど、読んでいると共鳴して振るえるような気持ちになる。
ありえないようなものに巻かれて、どこか解らない、妖しい世界に連れて行かれる。時間だけは規則通りに流れているが、得体の知れない、ふと迷い込みそうな刻や物事が見えるような気がする。そんな奇妙な話が詰まっている。

「うそばなし」だそうだ。ファンタジックな虚構の世界が文字になって漂っている。知らないものに触れるかすかな恐怖も感じる。
面白かった。



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「森は生きている」 サムイル・マルシャーク 湯浅芳子訳 岩波少年文庫

2014-08-23 | 読書



「ペンギンの憂鬱」
の中にソーニャとニーナが森にマツユキソウを探しに行くところがある。マツユキソウってあれではないかな「森は生きている」の花。と思い出した。
子どもの頃にラジオドラマで聞いて、劇でも見た。ときどき学校で劇を見せてくれていた。「北風と太陽」「ソラマメの煮えるまで」など、後は覚えていないけれど、面白くて何度も夢に見た。
 特に好きだった「森は生きている」なのに焚き火を囲んだ12の月の場面しかはっきり浮かんでこない。それで図書館に予約した。2009年の新版が来て、誰も読んでないように綺麗で新しかった。
戯曲だし子供向けなので、楽しかった。


大晦日なのに、意地悪な老婆と娘に、孤児のまま娘がこき使われて苛められている。
まま娘はそだを拾っていた森の中で、モミの木を切りに来た老兵士が、おじいさんのおじいさんが大晦日の晩に一年の月を一度に見たと話してくれる。

お城では、これも両親のない王女がマツユキソウが欲しいとダダをこねている。
「マツユキソウがないと新年にはならないわ」
では明日は?と教育ががりの博士が訊く。
王女は「マツユキソウのない明日は12月32日よ、そして33日、34日。新年は来ないわ」と言う。
年賀のために来ている隣国の大使たちは途方にくれてしまう。
マツユキソウを持って来たものには籠一杯の金貨を与える とおふれをだす。

一方、老婆の言いつけで森に入ったまま娘は、日が暮れてもマツユキソウが見つからない。雪は深く手足は凍えてくる。すると遠くに焚き火が見えて、12人の人たちが話していた。
それが大晦日に集まった12の月たちで、12月のおじいさんから1月のおじいさんに一年の手渡しをしようとしていた。
可愛いまま娘は火のそばによって、マツユキソウを探していると言う。
そこで、一月の風景が過ぎ二月が過ぎ、三月の雪解けが過ぎ、四月になる。
あたりは明るく、草は萌え出て、マツユキソウの群れが花を開く。
まま娘は花を摘んで籠に入れる。四月は美しく輝く指輪をくれて、困ったときに投げて唱える言葉を教えてくれる。

家では老婆と娘が帰りを待っている。まま娘が持ってきた籠一杯のマツユキソウを見る、褒美は籠一杯の金貨だった。花を大きな籠に入れなおし、隙間を土で生めて二人はお城に出掛ける。

マツユキソウが来たお城では新年の宴がはじまる。

そこで、女王はマツユキソウが咲く春の森に行きたいと言い出す。
女官庁は「お母さんのわがまま、お父さんのとっぴょうしのない気まぐれを受け継いで、夏はツララが御所望でしょう」と嘆いている。

老婆と娘は案内役で森に行くことになる。兵士と二人の先導で森に入っていくが、王女は寒くてたまらない。
先へ行く兵士たちは道作りで大汗をかいて赤い顔をしている。
「なぜ赤い顔をしている?」「道作りで動いたからです」「それでは私もそうしよう、シャベルを持て、博士も、女官庁もみんなそうするのです」
息をきらしながらみんなで進んでいくが、迷子になってしまう。道案内の老婆と娘は、まま娘を呼んでくる。
 盗んだ指輪を返し、無事森の中で12の月のお陰でマツユキソウに出会うのだが。
指輪は女王が欲しがり、まま娘が渋っていると、湖に投げてしまう、そこで娘は教えられた言葉を唱えると、一月のタンバリン、二月の角笛、三月の鈴の音が聞こえ、白い姿が娘を連れ去ってしまう。そして春が来る。

みんなでマツユキソウを摘んでいると、木の実がなる夏から秋へ、そしてまた一月。
帰り道が解らず震えていると老人が来て願いをかなえてくれると言う。
老婆と娘は毛皮がいい、犬のものでもいいから欲しいと言うと、二枚の毛皮をくれた、しばらくすると二匹の犬になってソリを引かなくてはならなくなる。

森の中では焚き火が燃えて12の月が揃っている。まま娘はなくしたと思った指輪を貰い、老婆もその娘もいなくなった家に帰る。
12の月は、順番に贈り物を持って家を訪れると言う。別れ際にすばらしい葛籠をくれる。帰り道のために立派なソリもくれる

女王はまま娘のそりに乗せてもらう。お願いしますと、ありがとうを覚えて、褒美を与えることが感謝ではないことも覚える。
l
ままむすめ さようなら12月のにいさんたち!みなさんの新年の焚き火を、あたしは、わすれませんわ。 

女王
 わたくしはよろこんでわすれたいけど、わすれられないわ。
博士 わすれてこそーーー思いだすもので。

ままむすめ (ふりかえりながら)さようなら。四月の月さん。
冬の月たち 途中、なにごともないようにな。
四月 さようなら、かわいい子。ぼくがお客に行くのをまっていておくれ。

 鈴の音がまだながくきこえている、やがてしずまっていく。森の中があかるくなってくる。朝が近づいてくる。



作者も訳者もなくなっている。1946年に書かれた戯曲、童話劇だが「青い鳥」と肩を並べる名作だそうだ。

訳者あとがきでは
この作品は、古くから伝わるスラヴの伝説、すなわち新年をひかえた大晦日の晩に、1月から12月までの月の精がのこらず森の中で出逢うという伝説をもとにして書かれたもので、境遇の不幸に負けることなく、いつも明るさと他人への思いやりを失わず、雄々しく勤勉に働く少女が思いも寄らぬ幸福をえたという、いわばソビエトのシンデレラ物語です。いわゆる継子いじめがあったり、娘と同じ年頃の両親のいない女王のわがままがあったりして、物語はおもしろく展開しますけれど、しかしこの作品のねうちは、そうした筋のおもしろさばかりにあるのでがありません。作品の底に流れている高いヒューマニズム、人間なり人間の生活なり、また社会なりへ向けた作者の眼の鋭さ、深さ、視野の広さ、などによって、この作品は普通ありきたりの童話劇でないものになっています。またその内容を現している形式の美しさによって高い芸術作品にもなっています

気の効いた、面白い台詞が沢山あり、こんな話だったのかと読んでいても楽しかった。ディズニーの映画になれば、劇場に見に行こう。「アナと雪の女王」のようにつくれるかも。




余計なお世話なのですが、左がマツユキソウといわれているスノードロップです。文中に茎に毛が生えているとあるので、実際は右のスハマソウかミスミソウの仲間ではないかと思うのですが、ロシアの春早く咲く花を見たことがないので、、、。



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「さあ 読もう」

2014-08-22 | 日日是好日

 もう週末になった。
 昨日、帰って来た息子が、日暮れが早くなったねぇ と言った。
明るいうちに夕食も出来ていたので、わたしは時間が気にならなくて、時計を見て少し暗いかなと思った。
暑いけれど、夏も終わりかけている。

今月の初め「立秋」だとニュースで言っていたときは、気温も暦どおりだといいのにと思った。
宇宙と繋がっていた頃は、季節も月の満ち欠けのように、暦どおりだったのかもしれない。
「暑い暑い」と空に向かって言わないでも、、


 これからは残暑見舞いだなぁと思っているとちらほらお見舞い状が来た。
お礼状を出そうと思いながらいまだに返事をしてない。また遅くなるにつれて言い訳も長くなるなと思っても、そのままになりそうで、、、。

 いつかどなたかのエッセイで、出そうとした手紙は、出せないまま沼に落ちて溜まっている。
と言うのを読んだ。好きな女性作家(小川洋子さんかも?)のものだったのに、思い出せない。

 私も、便りは読んだらすぐ返事を書く(頭に中に)そして出さないまま。
きっとどこかの沼に積もっていくのでしょう。

 夕食はまた、オムライスにする。中にたっぷりにんじん滓を入れてチキンピラフでもつくって、とろとろ卵で包もう。考えたらおいしいかもと思えてきた。


しばらく面白い本を読まなくて活字飢餓が始まった。
図書館の返却日が31日になっている。
休日はみんなサボって本読みにしようかな。



市大植物園の熱帯睡蓮



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三好達治 「測量船」より「乳母車」

2014-08-21 | 読書
 朝から蒸し暑い。朝食にいつものジュースを作り、コーヒーを淹れてパンを焼く。野菜も見繕ってお皿に盛っていると汗が流れた。

 今朝もまたスロージューサーに、にんじんの搾り滓がどさっと溜まった。もういらないくらいだけれどなんとなく癖で冷凍パックに入れ、なんとなく冷蔵庫に入れる。今日はミートーソースだなと、なんとなく決める。
にんじんのためにハンバーグやカレーやパスタなどを作るけれど、(昨日はキーマ風カレー、おいしかった)レシピに行き詰ってきた。ノートを開いて「にんじん滓レシピ」を開けて、何かまずそうな題名だなぁと思いつつ使っている。
「キャロット・レシピ」とでも名前を変えたらおしゃれになるかも、中身は搾り滓でも(*/∇\*)


汗で湿ったような服を着替えて、エアコンで適温になったパソコン部屋に入ると、床がひんやりして気持ちがいい。外で聞き慣れない大きな鳥の啼き声がしてびっくり、窓を開けるとヒヨドリより少し小さいくらいの鳥が電線に止まっていた。もうモズが来たのかなと思って見ていると甲高い声でさえずって山のほうに飛んでいった。

少し気温が下がった部屋から見ると、薄雲が広がっているが、隙間に羊雲のような丸い雲が並んでいる、高い空には秋が来ているのだろうか、今年は秋も早いと言っていたし。


明け方、母や娘と一緒にいる夢を見た。部屋の中に階段がある知らない家で荷造りをしていた。いつも夢では知らない家に住んでいる。母は「私も一緒に行くからね」と言っていたが、父の姿が見えなかった。「お父さんは自分の部屋がいいんだって」と言っていた。目が覚めて、父は実際自分の部屋が大好きな人だったなぁと思った。
 どこかに又転勤にでもなった時なのだろうか。夫も息子もいなかったが、あの二人は荷造りなどあまり手伝わなかった。夢でもつじつまは合っている(笑)


ふと、三好達治を思い出す。詩っていうのはふと浮かんでくる。夢から覚めて母がいないことに気がついた。お父さんも亡くなったんだな、と思った。



  「乳母車」     三好達治

母よ──
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
りんりんと私の乳母車を押せ

赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知ってゐる
この道は遠く遠くはてしない道


部屋が秋らしい気温になると変に淋しい気分が戻って来る。楽しいことでも考えよう。

最近出会った人が、天真爛漫な人だ、と言ってくれた、いい意味だろうと嬉しかった。そのあと、知ってる人によく似ているとまじまじと見られた、又だ、初対面の人に何度そういわれたことか、似ている人が日本中に何十人もいそうだ。ドッペルさんとか、デジャビュさんとか呼んでくれてもよくってよ、な、気分(^^)




紫陽花色のものって、、ずばり紫陽花なんだけど(笑)




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読む人、書く人

2014-08-20 | その外のあれこれ

「遅れてきた人」と言う言葉がある。
生まれたのが早すぎたという、ちょっとした誉め言葉のようなニュアンスとは違う。現実を見ることができない「育ち遅れた人」、何事でも遅れて気がつく人のことに近いだろう。
過去を思い返して、あの時には気がつかなかった、ひとこと言いそびれたと悔やむ。あの時知っていたら今とは少し違った生き方ができたかも知れないと思う。そういうことが今になってわかる。というような意味がある。ありふれた言葉かもしれないけれど。

 思いあたることも多い、私はいつも気がついたら遅かったと思う。今ならあんな誤解は受けなかっただろう。言葉が足りなかった。思いやりがなかった。うすうす分かっていても他人事のように思っていた。悔いはきりがないが、時間は勝手に流れてしまって、今更とり返すことができない。

 そうなったのは私が幼い頃から読む人だったからかもしれない、それだけではないとは思うが、まず一番はそれだろう。与えられたものを読む人になって、いろいろな世界を旅し、その中で、主人公とともに人生を幾度もやり直した。読書の中の世界と言うものは、現実ではないと良く分かっていながら、身の周りで起きることには距離を置いて見るようになってしまっていた。その上、ちょっと知ったことは身についていると勘違いまでする。

 周りからの言葉で、なんとなくと言うか、今でもふいに現実の自分に気がつくことが多い。自分はどういうものかなどとは考えもしなかったので、両親は、「何も言うことがない出来た子です」と人に話していた。
 怠けもしない、真面目でおとなしく、そしられるよりも何かとほめられる。
間違ってでも目立つことさえしないければ、普通いい子だと言われる。自分でもそうかなと思ってしまう。 
            
 若い頃知り合った年上の人で、とても頭のいい人がいた。一流の学歴を持っていて抜群の記憶力だった。それを自分でも自覚していた。私が夫の転勤で千葉にいたときに出遭った。法務省に勤める、国家公務員の上級職だった。後にハワイ大学に職場留学をした。
 ご主人はその頃やっと普及し始めたコンピューターの研究者だったので、全国の大学に講師で行くことが多くで留守がちだった。なんだか気に入られて私のことを友達だと言ってくれ、招待されて家に行くたびに、親友だ、などと紹介しながらも、なぜかどこか隠し事でもあるそぶりだった。
 どの部屋も出入り口以外は天井まで書架で埋まっていて、本はみなカバーがかかって背表紙を奥にして並べてあった。こういう癖のある人があるのか、と少し不思議だった。私が読んだといった本は、すぐに同じものを取り出して解説してくれたが、いつも最後に「読んでほんとに分かってるの?」と聞いた。優しい明るい人なのに、性格はどこか浮世離れをしていた。

いつだか「実家にいるからすぐ電話して」と言って来た。夫から聞いて電話をした。
お母さんが出て「ハイ ○○でござぁます、まあ、あなたでしたの」河内女はドラマ以外で初めて「ざぁます」を聞いて恐れをなした。
彼女は「先の母がね、私たちの部屋に入ってきてゴミ箱まで持っていくのよ、うんぬん」と長い長い愚痴を言った。
わたしは遅れているので、「それは思い過ごしでしょう」とか何とかありきたりのことを言った。
今思うともう病気が見えていたのかもしれない。
 そのうち彼女は神経の病気になって休職し。とうとう職場も止めた。彼女がどんな仕事をしていたのか訊ねもしなかったが、もし訊ねても「分かるの?」と言われただろう。そう勝手に決め付けて、わたしは地元に帰り、彼女は入院していて十年ほどして亡くなったと、ご主人から知らせが来た。
 彼女の書いた作品は分厚い本になって、自費出版されて送られてきたが、文脈に乱れもない情感にあふれたエッセイも多かった。

 広辞苑にも負けない厚さだったが、わたしは拾い読みくらいしか読まないで読みたいと言う人に貸したままになった。書くということでも、実際は現実とは大きな距離があるのだと思った。彼女のように。

 カフカの「審判」が分かるのも周りでは自分ひとりだと思っていた、気安さに本音が出たのだろう。そういうところが付き合い上手でない、現実との折り合いができない人だったのだろうか。ストレスは読書では解決できなかったのかもしれない。
 何か言いたかったのかもしれないし、言っていたようにも思う。でも当時は全く言いたいことを汲み取ることができなかった。

 何か書いておこうとするたびに、読むこととの距離を感じ、なぜか今頃になって彼女のことや絶筆になった最後の詩について思うことが多い。どこからか声が聞こえるように思うことがある。
「読んで本当にわかったの?」
私の矛盾した心の奥が見えていたのはあの人だったのかもしれない。今になって懐かしい。


息吹山のユウスゲ




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「ゆっくりさよならをとなえる」(i) 川上弘美 新潮文庫

2014-08-19 | 読書




 「センセイの鞄」の川上さんのエッセイを昨日から読んでいる。200ページそこそこの薄い文庫なのだが、三部に分かれていて(i)だけで22の文章がある。
連載したものをまとめたそうで、それでこういう形のエッセイ集になったそうだが、読みやすいが、進まない。
難しいことではない、日常の些事、見こと聞いたこと、空いた時間にふと取り上げて読んだ本のこと、そういったことが書いてあるだけなのに進まない。
3ページ程度で終わる一つの題名ごとに、「ふ~~」息を吐いて考えながら、読後の空白は自分の考えに浸りつつ読んで、やっと(i)が終わった。
 
 そんな読み方になってしまうくらい、読み終わるのがもったいない感じがする。

考えていたことが、霊感でもあるように繋がっておきることがある。偶然にしても心の底に古代から繋がっている何かがあるのだろうか。
そうそうあるあると改めて思い出す。

蝶が嫌いと言う人は少ないが、蝶恐怖症で、それは蝶が自然に自然の中で、きっちりと嵌っていない状態が恐ろしいのかもしれないと言う。
それがよくわかる。標本になった蝶は、どんなに美しいモルフォ蝶でも可憐な紋白蝶でも薄気味が悪い。

食べ物に執着することについて、生牡蠣を思う存分食べるとお腹を壊す、それでも限界に挑戦してみたいと書いている。正直に同意できる、面白い。

『骨董屋という仕事』からの引用
「人が亡くなると、その人の生前愛しんでいた品物から、まるで潮の引くように生気が失せ、道具の精彩がこそげ落ちると言ったら信じてもらえるだろうか」

私はこの短い文章を心の底から信じて納得する。それには、涙を誘う様な深い理解と、ささやかな後悔を伴って同意する。
生前いつくしんだものでももう見たくないと言う不敬に近い気持ちを持ったことがあるからなのだが。
骨董の価値は、それが単独の意味を持つ頃になって、その価値がわかる人にとっては貴重なものになるのだろう。


川上さんの日常で、少し現実から浮き上がって見える精神状態にある時間を、人というものになって、やっと前後を見渡したときに感じる不思議な空間や、心休まる状況を、文章の中で共有できる。
読みきるのはもっとゆっくりでいいと思うエッセイだ。

未だ何冊も出ている。買ってきて読まねば。

ちょっとした執着心を持ち合わせているもので、私もはじめたことをやめるだけの気構えがない。性質と言ってしまえば身も蓋もないが。
自分の心にずるずるとひきずられここまで来たのかなと思う。





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義妹のこと

2014-08-18 | その外のあれこれ
久し振りに義妹が来た。近くにいるのに彼女は仕事があるので滅多に会わなかった。
先日、お盆のお参りはお寺さんが忙しくて、檀家が集まって一度に済ませるそうよ。と言って来た。わたしは約束があって行けなかった。

顔を合わさなかったので来たのかと思ったら、梨をどっさり持ってきてくれた。
「とりたてなら腐らないのに、そちらで食べたら」と言ったら、
「皮むくのが面倒で」という。そうか、前ににりんごを持っていったら「面倒なので、みかんが良い」と言った。
別に食べなくて困るわけでもないし、わたしは輪をかけていい加減で大雑把なのでそういうこともあるだろうと思った。
部屋や押入れはきちんと片付いている、なんでもすぐに出てくる、エライもんだ。
「食べなければどんどん持ってきて」と言うことで。むいて出すとおいしそうに食べた。嫌いではないらしい(笑)

彼女は余り見ないくらい美人だった。おまけにマツゲまで長すぎるくらいで横顔も整っていた。いまは年相応になったので過去形。
いつか買い物ついでに見かけて、たこ焼きが食べたいと言うので、二人で焼けるのを待っていたら、焼いていたお兄さんが義妹の顔に見とれてくるくる回すのが遅めになっていた。
ほう、美人と言うのは、たこ焼きやさんも見とれるのかほほう、と感心した。

美しいと言うのはなにかといいものだと思っていたが、本人は生まれつきなので些細なことには慣れるらしい。よくわからないが。
初めて会った人だけがじっと見るくらいで、周りも慣れるようだ。いつも気にしているとどちらもさぞつかれるだろう、
意識した美人は女優にでもならないと、いいことばかりではないのかもしれないなぁ。女優もそれはそれでとか。よそごとながら難しい問題だ。
服装なども無頓着で、私が少しサイズがきついと言うと「もらう」と言ってすぐに着ている。今日もジーパンにTシャツで来た。

小説など美人が出るのが普通なのだが、わたしは綺麗なものは何でも(エヘ)好きなのでそばにいるとついチラチラと見てしまう(^∇^)
わたしは、顔が程ほどなら、いい声がいいなと思っている。歌を歌って一人でも楽しむことが出来る。努力してオペラ歌手にでもなったら歌って暮らせすのがいい。それにひどすぎる顔だったら治せるが声は無理だし。
でも何か不相応なものを得たら、何かを失うかもしれない、程ほどでいいかも ナンテ

周り(両親など)は無愛想で付き合いづらいなどと言っていたが、それをいうなら私なんぞ無愛想の見本ではないかと思っていた。
嫁は誉めるものだと思ったが、よく出来た親だと思ってきたけれど、義妹の顔を見たらそんな事を言っていたのを思い出した。
嫁は可哀想だとつくづく思った。出来すぎるくらいでないと誉めてもらえない。
賢い義妹は二人の息子とは「絶対一緒に住まない」といって別居させた。
弟は孫にメロメロだが、義妹はそんな様子はない。
ネコでも飼ったらと言いそうになったが、待てよと言葉を飲み込んだ。いつからか玄関周りに花を沢山育てだしたのを見て驚いたことがある。
花は母が好きだったので手を出さなかったのだろうか。今まで思慮深いところが見えなかったのかもしれない。
ペットだって理由があって飼わないのかもしれないし、何時か飼うかも知れないし、皮むきが面倒な人はペットもなぁ。
私の推理はここで止まっている。

親は愛想がないと言ったが、彼女とは時々一緒に買い物に行く。運転しないので乗せていくのだが、無愛想と言うのは口下手と言うことだと思っている。
心にもないことを言うのがイヤなのだ。
気にしなければ黙っているほうが楽だ。

今日来たのは何だろうと思ったら「会社が倒産してね、専業主婦になったの」と言う。

仕事が大好きなのかと思っていたが、もうなれない暇をもてあましているらしい。
わたしは仕事に行かなくても忙しくしているので、「ゆっくりいるなら縫い物でも編み物でも、パズルでも持っておいで、わたしは横で本を読むから」と言っておいた。
「パソコン持ってきて、ブログでも書いたら」と言うと目を丸くして「目が疲れるからイヤだ」と言った 言ってから ホッ
編み物はプロはだしで手芸屋さんに頼まれるほどだったが、もう止めたそうだ。そういえば最近見たことがない。
時々来てもいいかと聞いていたが、空模様が怪しく少し暗くなってきて、「洗濯物が心配だ、布団も干したし」と行ってバイクで走って帰っていった。

お昼前に来たので、二人でおそばを茹でて、厚焼き卵とほうれん草で食べたが、果物の皮むきが嫌いというのも、気を使ってそういったのかもしれない。
新聞屋さんがくれた料理の冊子が溜まって積んであったら、欲しいと行って全部持って帰った。

お互いの歴史を知っている身内と言うものはいいものだ。
義妹のクシャミが聞こえたような (*^~^*)


花鳥園のペンギン




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「ノックス・マシン」 法月倫太郎 角川書店

2014-08-17 | 読書


昨日のブログにも書いたのように、読み応え十分な面白さなのですが、私の錆付いた頭ではなかなか追いついていけない部分があります。解った範囲で。


「ノックスマシン」

 数理文学解析を使った20世紀のアングロクサソン探偵小説の論文で博士号をとったばかりの、研究員ユアン・チンルウが国家科学技術局に呼び出された。ここから話が始まる。

2085年の現在、言語分析では、作品の構造や作者の文体の解析も可能にした。そして「オートポエティック」というコンピューターが、質の高い文学作品を量産して、ノーベル賞までとってしまう。
ユアンの研究は時代遅れの最たるものだった。

国家科学技術局では、タイムトラベルの研究をしていた。だがブラックホール理論を応用して飛び立ったトラベラーは二方向に分岐して世界のどちらかにいってしまう、飛び立ったときにパラレルワールドが発生して出発点に帰還できなくなっている。

過去のある時点の座標に盲点があり矛盾が生じることが解った。その時間線上の特異点が、ノックスが探偵小説の十戒を書いた日にあたるという。

そこでユアンは第五章から導かれる数式に虚数i---マイナス1の平方根---を掛け、ノックス場を複素数次元に拡大した。乱暴なたとえで言うと、No Chinamanという実態を持たない虚構の人格を、探偵小説に必須のキャラクターないし「隠れた変数」として裏口から導きいれるようなものだろうか。
あたかもNo Chinamanという観測者が、量子力学で用いられる波動関数を「収縮」させたかのように。
学者は観測という行為によって波動関数が収縮すると主張した。これは別々の可能性を表現する二つの波の干渉状態が、単一の波によって示される固有状態に変化することを言う、だが観測という行為がなぜ、そしていつ波動関数を収縮させるのかそのメカニズムはまったく明らかにされていない 


と難しいが、ともかくユアン博士の仮説が採用され、これを使えば一つの方向に移動でき、かつ帰還も出来るだろう。No を付けて一応無くす、それを虚数としたところが素晴らしい。

行き着く先がノックが十戒を書いた日なら引き受けよう、ユアンは出発する。

十戒の中の5項「探偵小説には、中国人を登場させてはならない」
これがなぜ政治的に正しくないというのか。なぜノックスはこの項を入れたのか。

ユアンはノックスにあって謎は解決するのか。

これは全く見事に書きおさめた、愉快な解が読みどころ。面白かった。



「引き立て役倶楽部の陰謀」   これが一番面白かった。

南アメリカにいたヘイスティングスにワトソン老から手紙が来た。
アガサ・クリスティの新作「テン・リトル・ニガー」(そして誰もいなくなった)の校正原稿について由々しき事態が発生した。引き立て役倶楽部の存続をかけて会議を開く。という内容だった。
それは、このメンバーが登場しない、探偵がいない作品を書き始めたということで憤慨しているのだった。

集まったのは

会長   ジョン・ワトスン  ホームズの引き立て役
議長   クリストファー・ジャーヴィス  ジョン・ソーンダイク博士の引き立て役
幹事   ハロルド・メイフィールド  ランスロット・プリーストリー博士の引き立て役
書記   ライオネル・タウンゼント ウイリアム・ビーフ巡査部長の引き立て役
財務委員 ジュリアス・リカード  ガブリエル・アノーの引き立て役(欠席、委任状有り)
常任理事 マーヴィン・アバター  ピーター・ウィムジー卿の引き立て役
 〃   ヘイスティングス大尉  ポワロの引き立て役

その他参加者
     ヴァン・ダイン  ファイロ・ヴァンスの引き立て役、アーチー・グッドウィン ネロ・ウルフの引き立て役。
     M・P・シール プリンス・ザレスキーの引き立て役 など


アメリカではやり出した、ハードボイルドの台頭、エラリー・クイーンの少々不可解な作品が売れていることなど甲論乙駁。

そして、クリスティーの今後作品について採決が行われたが、その時に殺人事件が起きる。

だが、それでも、ワトスン、リカード、ヴァン・ダイン、シールはクリスティ誘拐を工作する。
有名な「クリスティ失踪事件」はこうして実行された。
 

なんと面白い発想だろうか。解決編は真実から異論まで発展していった先に、頭に残るのはいつか読んだ名作探偵小説の主人公と引き立て役の物語でした。
ポワロは作中で亡くなったが、現役なのに登場していない作品があるそれが気にいらない、引き立て役の危機だというところがなんとも気の毒で、かつ愉快だった。

「バベルの牢獄」  鏡像の不思議。論理の展開、SFの世界を楽しませてくれる。

惑星に侵入したわたしは、秘密警察に逮捕された。一人の人格として同期していた人格が精神分離機で破壊し分離された。
鏡像人格の相棒からの思念が届いてくるが、スキャンされずに交信する手段を考える。そして協力して脱出を図る。
裏返しの対象体(キラリティ)をつかって、パソコンのレイヤー機能のようにかさね、裏返しなのでずれた言葉の読点を使って穴を広げていく。ワームホールだ。それを通って逃げだす。句点や中点は黒くなるので駄目というのが面白い。


「ノックス・マシン2」


21世紀のグローバル情報社会ではあらゆる電子テキストがゴルプレックス社のデータセンターとネットワークに取り込まれている。NET環境から孤立した「死蔵データ」は羊皮紙に手書きで記された写本より価値がない。ところが量子ネットワークの構築と「オートポエティクス」のたゆまない進化によって、電子テキストの可変性と自己増殖が著しく増大し、その影響は20世紀以前のオリジナル文献にも及びつつあった。

プラティバはノーベル賞を受賞した父の影響か父親と同じ数理文学解析の研究者になる。しかし、先が見え、存続が危ういところから、ゴルプレックス社の電子図書事業部に就職した。

クィーンの作品で「シャム双子の謎」にシリーズには必ずあった「読者への挑戦」がないことに気づく。
そのためか、放熱現象が起きている。あったものがなくなるブラックホールもどきの現象が起きたのだろうか。
だが様々な可能性を試したが成功しなかった。
CIOは放熱現象から電子テキストを焼き尽くそうとするサイバーテロを確認した。

その頃ユアンは西オーストラリアで修道士になり、チェスタトンの探偵小説「ブラウン神父の童心」書き写す作業を続けていた。
彼はノックスにあった後、また特異点を通り帰還していた。

(5) 探偵小説には、中国人を登場させてはならない。
ユアンはなんどもそのテキストを読み返し、やっと安堵の息を漏らした。確かにここは、自分が属していた2058年の世界だ。ノックスは未来からの訪問者を見送った後、持ち前のユーモアを発揮して、序文の内容を書き直したに違いない。
世界の分岐は回避され、パラドックスもなかった。彼が1929年のオックスフォードに飛ばなければ、中国人ルールは生まれなかったということだ。「探偵小説にはNo Chinamanが登場しなければならない」
そうつぶやきながら、自然と頬がゆるむのを感じた


しかしその後ユアンは貴重なサンプルになった。

その後の身の上話が一段落して、プラティバが来た理由を聞く。

延焼を防ぐには? ユアンの決心は。

その理由付けが実に見事に成功して、結果は感動的。


それぞれ最近にない斬新でちょっと難しい理論が転開する新しいSFに出会った。

科学や物理に興味があるか、海外、特に英米の探偵小説が好きな人なら文句なく楽しめると思う。

法月さんのものは「キングを探せ」しか読んでないが孤島の連続殺人で、探偵が作家と同じ名前だと初めて知った。
これもとても面白かった。






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「ノックスマシン」について あれこれと 「たはごと」なども

2014-08-16 | その外のあれこれ
雨の休日でもう怠け放題でゆるゆるな一日でした。

楽しみにしていた「ノックスマシン」を読み終わりました。すぐ感想を書かないと忘れるのですが、わくわく感がハンパでなく(今は半端なくというようですが)夕べは4編のうち最初の一編を読んで、心残りながら寝ました。
これが、デロリアンに乗って 未来ではなく過去に行くような感じのSFで、よくこんな話をかかれるなぁと感嘆して、大喜びでした。

今朝は休みなのに早起きしてお風呂に入り、朝寝朝酒朝湯が大好きで♪ お酒はダメでよかったよ♪などと歌ってしまいました。潰す身上もなくて(笑)

それから、お昼ご飯なんて作るものですか、大人ばかりなので、たまには休日の食事くらい自己管理してよと思いつつ。
自分も冷蔵庫を開けてオープンサンドを作り、給餌気分で盛り合わせて出し、そそくさと本に戻りました。

私の病前、病後には、料理も出来るようになったと自慢していたのですが、元気になるとけろっと忘れて、配膳も手伝ってくれません、プン

で読み終わったのですが、ストーリーはつかめましたが、次々に出るミステリの名作が核になっています。クリスティやヴァン・ダイン、エラリークイーン等々。
うまく例えてというか重要な要素になっています。読んだのが若い頃なのでおぼろげな記憶しかなかったのですが、そういう人のためか、中に説明がちょこちょこ入ってました。ありがとうです。

引き立て役たちが、出番があったのなかったのと会議をしていて、クリスティの有名な失踪を計画するなど、もう笑いが止まりません。
年取ってしまったワトスンさんは酔っ払ってしまって(笑)

でもノックスの十戒など、歴史的なミステリの縛りは、以前中井英夫さんの名作「虚無への供物」で読んだ覚えがあります。
少ししか覚えてないのですが、探偵が犯人ではいけない、とか集団組織ではいけないとか言うのがあったような。
そんな事も思い出しました。
「シンデレラの罠」も「わたしはこの事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、犯人なのです」という帯を読んで買った本です。これも話題になっていました。
わたしは、じゃ犯人じゃないのと簡単に考えたのですが、主人公が記憶喪失になってしまって、どうなるの?とびっくりした記憶があります。

量子力学などという難しい言葉が多く、頭の中で簡単な言葉に訳しながら読んだのですが、手間隙かけても読んでよかったです。
未だお読みになってない方は独り言だと思って読み飛ばしてください。

明日、気が確かなら、後々思い出せるような感想を書き残したいと思っています。


若い頃、NHKで見たのですが、いろいろなものの特徴を調べて総括してみるというような番組でした。長女は箱や紐などを取っておいて無駄に溜める。というところで思い当たりました。わたしは長女です。まぁあとは弟が一人っきりなのですが、しっかりした箱など取っておいて、綺麗な和紙などを張ってゴミ箱にしたりしています。
今日は、ハムの箱を開けたので、持って上がって本を入れ優先順位をつけました。一応気分で。もう少し気合を入れて片付けなければいけませんが。

ここまで書いて、最近自分のことをを恥ずかしげもなく書くなぁと感心しています。
これも、一山越えた病後現象かもしれません。
母にでも、肝心なことを言わないので、(別にいう必要もないと思っていましたので)運動会の話をしていたら、「え、リレーの選手だったなんて、うちは運動神経のないソン(子孫という方言です)なのに」と言いましたのでこちらがびっくり。聞いてみると女の子は親にいろんな無駄話をするものなんですね、気がつきませんでした。

いろいろ振り返る年になったし、気持ちも変わってきたようです。

友達がありがたい読者なので、思い出話もいいかなと思っています。

友達ついでに、学校時代からの温泉友達がいるのですが、温泉の脱衣場の鏡の前に宣伝用かもしれないですが、化粧品が置いてあります。そこにあった「むきたて卵肌」というものを買って帰りました、ぽろぽろと角質がとれるものです。
「顔の皮は薄いほうがいいからね」と言って買ったのがわたしともう一人、残りの二人は独身です。
それで友達甲斐に「お肌には気をつけないと、まだ売れるかもしれないでしょう」と他人なら怒られそうなことを言ってみたのですが「今のままで十人並み以上よ。売れないのでなくて安売りしないの」といまだに昔の栄華をあきらめてない二人、鏡のない部屋で暮らしているのでしょう。自信ほど怖いものはありません。

それが忘れていたのに今頃出てきました。私などもう売り切れてますし、アンチエイジングだって顔を背ける歳なのですが、もったいない年代なので使ってみました。

それが首に少しあせもが出てまして、虫さされの「ムヒ」をつけたところ劇的に効きました。効能をよんでみると、虫刺され、あせも、と書いてありました。ナンダ

ところがその手で、卵肌になるかと、顔に塗ってみたのですが、「ムヒ」も手に残っていて一緒に塗ったのか痛いの何の、「ムヒ」を顔には絶対に塗らないようにしましょう。歯を食いしばってこっそり我慢して、一時間ほど泣きました。
「ムキムキ卵肌」の効果は未だ分かりません。「むりむり卵肌」かもしれません。



ハムの箱に入れてみた読書の予定本です(*/∇\*)





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靴の修理を頼みました

2014-08-15 | その外のあれこれ

お墓参りに行きました。朝早かったのでお墓の道の往来が空いていて楽でした。少し遅い時間になると片側にびっしり並んで車が止まるので、道が通りにくくなります。
お花の中に珍しく、おみなえしが入っていて明るくて綺麗でした。見渡すとどこのお墓もおみなえしは見当たらなくてヤッタネと思いました。
田舎育ちの母は、野の花だと喜びます(^^)


不思議なことに、靴が順番に二足壊れました。(壊れるというのかな)とりあえず一足は前がパカンと空きました。底と上が分かれてしまってパカパカするので気がつきました。
まぁ6年くらい履いたし、一度帰って履き替えて出直しましたら、車から降りると今度は右足の指が横から出てきました。前が空いた夏の靴なのです。脱いで見るとこれまた底が外れてしまっていました。
これは履きやすい気に入った靴なのですが、考えてみるとこれももう5年以上は履いています。続けて二足、替え時なのかな、と靴屋さんに行ったのですが、22センチというので小さいサイズはなかなかありません。
その上もう夏物はバーゲンで品薄、やっと一足見つけてきました。
デザインもなにも、履ければいい状態でしたが、ちょっと気に入りました。それに65%引き(^∇^)
店員さんが親切で可愛くて(安くて!)もう一足買おうと思ったのですが、サイズがなくて残念でした。
あと一足は、とても気に入っていたので近くの靴修理屋さんに持って行ってみました。
「これは、もう底に弾力がなくなっているので、歩くとぽろぽろと崩れてきますね」
「履きやすくて、皮も柔らかく疲れないのでいつもはいていたんですが・・・」
といっていたら奥さんが出てきて
「底は貼り直せばいけるかも」
助け舟です 、やっぱりねぇ ここでも大蔵大臣、やりくりの奥深さがわかっていらっしゃる<(_ _*)>
3500円はなんだか高いようでしたが、買ったときは思い切った程の値段だったので、買い直すよりは安く済みました。
気に入った靴ってなかなかないものです。

昔、満員の地下鉄で、両足そろえたまま外に押し出されヒールのかかとが片一方取れてしまったことがあります。
映画なんかでは、はだしになって歩くとか、ピョンピョン跳ねていたら、イケメンのお兄さんが「お嬢さん肩を貸しましょうか」(独身時代のことですから)とか言ってくれるのですが(映画、映画)、淀屋橋駅だったし、会社の近くだったので無理して歩いていきました (*´□`*)゜
エレベーターで「あれ、かかと取れたの?まぁまぁ」といわれたくらいでした。
地下に靴屋さんが入っていたので、すぐ修理してもらったのですが。自分を知ってからロッカーに余分な靴や着替え一式置いてありました。
電車で滑って白いスカートが台無しになったこともありますし。いつも同じ時間だと、なんだか顔見知りの同じようなメンバーがいるんです、それから少し早い時間に変えました。

そうそう、「みずばしょう」を写しに山に登っていたら、ガレ場続きで靴の底に張ってあるゴムが取れてしまい、「あれ、石が当たる?」と思ったんです。
「どこかで靴の底落としたぁ」情けなや。
仕方なくはだし状態で降りたことがあります。幸い山行きのごつい靴下を履いていたし麓まで来ていましたので怪我もなく、ちょっと見では靴を履いた様で何とか我慢できましたが、仲間に、珍しい靴だねぇといわれました。
香港に行った時、安かったのでみんなでナイキの靴を買ったのですが、私だけキッズサイズがぴったりでした。
後ろがくるぶしを包んで、安全でとても歩きやすかったのですが、それも10年近く履いて、壊れるころだったようで、よく見るとひびのようなものも入っていました。
下山してからは、車にあった靴と履き替えて帰ったからよかったのですが、途中で靴屋探しをするところでした。

靴のトラブルは久し振りですが、それでも余りないことで アハ。
「ミミズのたはごと」みたいな話です。(そんな題の本があったような)


おにゆり







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「掏摸 スリ」 中村文則 河出書房新社

2014-08-14 | 読書


単行本だが170ページで読むのにそんなに手間のかかるものではなかった。ただ前に読んだ「去年の冬きみとわかれ」もそうだったが、何かに優れていたり、異常になにかにとり憑かれた人を書くという作家なのか、日常生活には見られない主人公や周りの生き方が少し分かりにくくもあった。
分かるというよりも、まぁどんなテーマでも読み手の想像で筋をたどるのだが、読んでいてこういう世界もあるのかという感想だった。



恵まれない孤独な境遇の青年が、スリで生活している。
スリの手際もよく、効率のいい裕福そうな人を狙って、生き延びている。

底辺の法外の生活者、アウトローなので縛られる何物も持たない。ただ一時関係があった人妻が分かれた後、自殺してしまったという過去がある。

子供の頃、同級生が見せびらかしていた外国製の時計をすろうとして失敗した思い出があった、いまでは天性の勘と器用さで天才的な技を身につけ、つかまったことがない。
一時詐欺組織にいた男と組んだときは、彼のスリの技は人生の美にうつった。

闇の中から出てきたような男に仕事を依頼される。それは依頼というより、命がけの仕事だった。
得体の知れない男は頭が切れ部下も多く、危険な仕事を楽しんでいるようだった。
彼は、子供の人生を設計どおりに操った貴族の話をする。
傲慢で冷酷な自分を神になぞらえ、恐怖や悪といった感情と表裏をなす善を見据えてこそ、死の恐怖を超えることが出来る、という独自の悪の哲学のようなものを話して聞かせる。
仕事はまるで不可能なような三つの条件がついていた。失敗すれば知り合った子供とその母親の命がないという。
彼はその困難な仕事に挑んでいく。
リーダーでない限り、仕事はどんなにうまく行っても、駒の働きでしかない。彼は、ふと知り合った親子の命と、スリの腕に対する矜持と、わずかな希望で事に当たる。

悪には悪の世界がある。そう分かっていても、何か徹しきれないものがあるのが普通で、彼も恐怖や迷いから逃れられない。


作者の苦心が現れた作品だったが、世界が世界だけに割り切れない、雰囲気に乗り切れない部分があった。
ひとのもつ不思議な世界に挑戦しているような作品を二つ読んだが、後はどういった方向に行くのだろう。





余談だが、私は三度スリに会っている。三度とも給料をすられた。二度は定期券ごと盗まれた。定期は会社から半年ごとに支給されていたので少し距離のある通勤圏の私は使いはじめに盗られると痛手だった。もちろんなくせば自分で買わないといけない。
証明書を貰いに行くと経理の係りの人が、気の毒がりながらもあきれていた。紐をつけておいたほうが言いとアドバイスしてくれた。
給料日には本屋に行くのが楽しみで、長い時間本を見て歩き、中にある喫茶で少し読んだりして、宙に浮いた気分で混んだ電車に乗って帰っていた。
乗り換えの改札口で財布も定期もないことに気がついた。駅員さんに教えられて、そばにある派出所に届けたが、そういうものは出ないでしょうと無責任に言われて少し憤慨した。ぼんやり者にでも少しは優しい言葉を掛けてくれても、と思ったのだった。それ以後届けなくなった。
スリというものは知っていたが実在するというのを実感した。
テレビで空き巣狙いのピッキング技やスリの手際のよさを特集した番組があった。係りの刑事がその様子を見せてくれたが、三人組の芸術的ともいえる盗品のリレーに感心した。
それ以後気をつけるようにしたが、またまたミナミの裏道でバックごと盗まれる車上狙いにやられた。
いかにもどうぞという顔をしているのだろうと周りではあきれていた。


外から見れば憎らしいスリだが、小説の主人公ともなると何か、うまくいって欲しいように思えるのは作者の腕かな。






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