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「裁判の非情と人情」 原田國男 岩波新書

2017-06-17 | 読書


第65回日本エッセイスト・クラブ賞受賞
命の不思議についてよく考える。最近読んだ“ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか”
それはヒトの歴史とともに心の歴史が大きな比重を締めた内容だった(なかなか感想文が書けないけれど)

先日偶然この本を見つけて読んでみた。裁判を傍聴したこともないし直接かかわったこともないが、推理小説では最後は法廷シーンで解決することも多い。それなりになんとなく雰囲気がわかるようになってきた。
また以前法務省に勤めている人と親しくなった、ご主人は大学の、システム工学の研究者だった。出張が多くそんな時は泊りがけで当時ブンガクについて語り合ったりしていた、忘年会に誘われたので参加すると若い男性が4人ほどいて彼女が上司だそうで驚いた。聞くとみんな検事で、仕事はと聞くと、離婚したり近隣ともめたりするとよくわかると言われた、ずいぶんざっくりした笑い話のようなもので、これはあまり立ち入ってはいかんと感じてそのままになった。中に私の出身地にやけに詳しい人がいて、その支部に勤めていたことがあるという話だったので雑談がそちらに向いた。

前置きはさておき、とても読みやすく、常に大きな権力を行使する、人を裁く側の裁判官に対して身近に感じる部分も多かった。
20件以上の無罪判決を言い渡し、退官後は教える側でまた新しい経験を語っている。裁判官は世情と人情に疎いと語り、周平と鬼平を読みそれを糧にし、映画も見る。イランの実情を映画で知ることもできると「桜桃の味」を挙げ「黄色いハンカチ」「寅さん」「フライドグリーントマト」「HERO」もでる。裁判官は人間観察も必要であり、深い経験がいる。
こういった親しい書きぶりとは別に、量刑の考え方、民犯罪と国民の目線、えん罪について、無罪判決,死刑について、正面から心情を説いている。

真実を知る被告人のみがわかっている(人を裁く、より)
事実認定の本質的な難しさは真実を神のみでなく、目の前の被告人自身が最もよく知っていることにある。誤った裁判をした裁判官は、犯罪者として処罰されるわけではないが、誤った判断により無実の被告人を刑務所に入れたり、死刑に処したりすることになる。そのことは、真実を知る被告人のみがわかっている。


裁判は人を扱う。正しさとはいったいどういったことなのだろう。この本を読んで、いかに良心をのぞき込み経験を積んだ立派な裁判官であっても、その判断領域は被告人一人ひとり異なった背景があり、証拠は観察の調べの中にしかなく、それが間違っているかいないかの判断はやはり神の領域にしかないように感じた。
近年、科学捜査が進歩したことで、多くの冤罪事件が表に出てきている。こういったことも犯罪の防止になればと思う。

名もない顔もない裁判官 という項目がある。確かにこういう本は役に立った。
書類づくりなど煩雑な仕事をこなす術として手控えを詳細に取っておくというのは、読書の感想でも読みっぱなしですぐに忘れることについてとても参考になった。


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「イワン・イリッチの死」 トルストイ 米川正夫訳 岩波書店

2017-06-08 | 読書



トルストイ56歳の作品だ、しばらく休筆した後でもう死を見つめたのか。彼は壮絶なイリイチの死を内側から見ている。気力のあった頃に大作の後で読んだのだが、その頃はあまり記憶に残らなかったが、再読してみた。



まず、イリイチの死が知らされ、裁判所の同僚の噂話から始まる。彼らの関心は空いた椅子に座る人物についてだった。イワン・イリイチはまだ45歳の判事だった。

イリイチがどんなに俗人であったか、トルストイは容赦なく述べる。
彼は秀才で礼儀正しく順調に地位を登っていった。しかしそれには用心して人と付き合い、尊敬され好ましい人物と思われるように、要領よく仕事をした。そのための努力を惜しまずに、方法を自然に身に着けた。
家庭を持ち、妻と子供に恵まれ新しい家を買った。見栄えのよい部屋をあつらえたが、どんなに品よく飾り立てても所詮自分が満足するありふれた範囲から出ることはなかった。それでも十分快適で、俗人であることには気が付かなかった。
気に入っていた妻と、子育ての煩雑さで溝が深まるまでは。

彼の不運は、カーテンを吊るために上がった梯子が倒れ脇腹を打ってから始まった。重苦しい鈍い痛みが次第に強まり舌に変な味がし始めた。

医者は命に別状はないと診断した、不安に駆られ医者を変えて様々に検査をしたが、はっきりとした病名はなく、薬を処方されるだけだった。
だが痛みは増し、死におびえイライラと落ち着かず、すべては周りのせいにした。
気難しい夫を妻も持て余し気味で、家庭も荒れて来た。

動けるうちは見栄もあり生活のためもあって苦痛にさいなまれながら働いていたが、回りの人々の気配も変わってきた。発病して三か月たって、彼は自分の病気を自覚した。

彼の慰めは下男のゲラーシムの変わらない献身だった。痛みの苦痛は増してきたが医者の絶望的ではないという言葉にある、一抹の希望にすがっていた。だがもう耐えられなくなってきた。

心の声と対話を始めた。彼は人生を遡って思う、自分は坂を上っていたつもりが下っているのではないか。次第に命が離れていく。

苦しみながら死ぬのは何か間違ったのだろうか。

二週間後に長女の結婚が決まった。

妻の眼に憎悪を見た。「お願いだ静かに死なしてくれ」
のたうちながらアヘンをのみ束の間の平安の後にまた苦しみ、希望と絶望が交互に襲って来た。

三日間苦痛にうなり続けて彼はやっと気が付いた。
死んだらみんな楽になるのだ。
許してくれというつもりが伝わらなかった。そして今まで苦しめられて来た死という思いが体から離れていき代わりに光が訪れた。


なんてむごい死にざまを書いたものだろう。トルストイという人にとっても、平凡な俗人が死にぬ間際になって初めて光を見出すという、彼の信仰の一つの形が書かれている。

我々は今の人口と同じ数の死の上に生きているという記事を読んだことがある。歴史上に名を遺した人々も、名を遺したという時にはすでに肉体を持っていない。イワン・イリイチの死は誰にでも訪れる普遍的な避けられないものであると同時に一つの典型でもある。

再読にもかかわらず、深い感銘を受けた。

余談だが、夫人が観劇に行くシーンがある。サラ・ベルナールを見に行くという。
そういう時代だったのか、ならその舞台のポスターはミュシャだっただろう、と何か現実味を感じた。


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