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「ゆっくりさよならをとなえる」(i) 川上弘美 新潮文庫

2014-08-19 | 読書




 「センセイの鞄」の川上さんのエッセイを昨日から読んでいる。200ページそこそこの薄い文庫なのだが、三部に分かれていて(i)だけで22の文章がある。
連載したものをまとめたそうで、それでこういう形のエッセイ集になったそうだが、読みやすいが、進まない。
難しいことではない、日常の些事、見こと聞いたこと、空いた時間にふと取り上げて読んだ本のこと、そういったことが書いてあるだけなのに進まない。
3ページ程度で終わる一つの題名ごとに、「ふ~~」息を吐いて考えながら、読後の空白は自分の考えに浸りつつ読んで、やっと(i)が終わった。
 
 そんな読み方になってしまうくらい、読み終わるのがもったいない感じがする。

考えていたことが、霊感でもあるように繋がっておきることがある。偶然にしても心の底に古代から繋がっている何かがあるのだろうか。
そうそうあるあると改めて思い出す。

蝶が嫌いと言う人は少ないが、蝶恐怖症で、それは蝶が自然に自然の中で、きっちりと嵌っていない状態が恐ろしいのかもしれないと言う。
それがよくわかる。標本になった蝶は、どんなに美しいモルフォ蝶でも可憐な紋白蝶でも薄気味が悪い。

食べ物に執着することについて、生牡蠣を思う存分食べるとお腹を壊す、それでも限界に挑戦してみたいと書いている。正直に同意できる、面白い。

『骨董屋という仕事』からの引用
「人が亡くなると、その人の生前愛しんでいた品物から、まるで潮の引くように生気が失せ、道具の精彩がこそげ落ちると言ったら信じてもらえるだろうか」

私はこの短い文章を心の底から信じて納得する。それには、涙を誘う様な深い理解と、ささやかな後悔を伴って同意する。
生前いつくしんだものでももう見たくないと言う不敬に近い気持ちを持ったことがあるからなのだが。
骨董の価値は、それが単独の意味を持つ頃になって、その価値がわかる人にとっては貴重なものになるのだろう。


川上さんの日常で、少し現実から浮き上がって見える精神状態にある時間を、人というものになって、やっと前後を見渡したときに感じる不思議な空間や、心休まる状況を、文章の中で共有できる。
読みきるのはもっとゆっくりでいいと思うエッセイだ。

未だ何冊も出ている。買ってきて読まねば。

ちょっとした執着心を持ち合わせているもので、私もはじめたことをやめるだけの気構えがない。性質と言ってしまえば身も蓋もないが。
自分の心にずるずるとひきずられここまで来たのかなと思う。





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