「かもめの城」(「Rapture」・1965年・米/仏)
監督 ジョン・ギラーミン
脚本 スタンリー・マン
原作 フィリス・ヘイスティング「案山子の歓び」
撮影 マルセル・グリニョン
音楽 ジョルジュ・ドルリュー
出演 パトリシア・ゴッジ
ディーン・ストックウェル
メルヴィン・ダグラス
この作品は高校時代の思い出の作品なので、ちょっと評価が甘めかもしれま
せん。(笑)
話はヒロインを演じたパトリシア・ゴッジの秀作「シベールの日曜日」(1962年)
と同工異曲、バリエーションと言って差し支えない。
違いは‘62年にはまだ子供だったゴッジが3つ歳を取り、今度は正真正銘の
少女から大人への成長を演じられる歳になったという事でしょう。
その分、寓話的な雰囲気は薄れ、より現実的な生々しさが加わっています。
フランス、ブルターニュの人里離れた海岸に建つ一軒家。
両親の不仲から神経過敏、対人恐怖、パニック障害になった少女アニエス。
その極めて内向的な彼女が自分だけの友達として「案山子」を作る。
或る雨の夜、護送車から脱走した囚人が、その「案山子」の服を着て裏庭に
倒れていた・・・。
この作品で描かれてるものは、「内向的な少女が深い傷を負いながら大人へ
成長していく」過程だと思います。
「シベールの日曜日」が「自己喪失」ならば、この作品は「喪失と和解」
悲しい結末は同じですが、「和解」が有る分「救い」は有ります。
アニエスは案山子の服を着て倒れてた男を、「案山子の生まれ変わり」と思
って夢の世界に浸りたい。
そこで、当然「創造主」としての強い独占欲にかられます。
でも、生身の男は住み込みの家政婦カレンと仲良くなってしまう。
それを見たアニエスが病気からの発作のように爆発、カレンを殺そうとして
しまうのですが、男に止められ醒めた後、一目散に走って近所の精神病院隔
離施設の門へしがみ付きます、
「中へ入れて!~私は救いようがない、狂ってる・・・」
エキセントリックな自分の感情を抑えられないのが怖く、又、誰からも褒め
られ認められた事がない故に自己嫌悪の塊でもある少女。
ちゃんと現実を解ってるし、「夢の世界」が自己嫌悪からの逃避であることも
知っている。
どうすればいいのか解らない不安、押し潰されそうな孤独。
3才成長したゴッジが、お手のモノとは言え、不安定な少女を好演しています。
その3年という時間が、町での新しい生活を営む時に見せる「子供じゃない女」
への脱皮を感じさせてくれます。
12歳で「精一杯背伸びした子供」が、15歳では「少女から幼な妻」、完全から
は遠いけれど、それでも、一定のリアリティが有る。
この頃のパトリシア・ゴッジには天賦のものを感じます。
(映画を観ていて、ジョディ・フォスターの「白い家の少女」が何度もよぎりました)
メルヴィン・ダグラスも、謹厳の裏にどうしようもない孤独と傷を隠し、それ故、愛
するアニエスに辛く当たる父親を好演。
家政婦のグンネル・リンドブロムも、いかにも居そうで「女を持て余した」感じが良
かったと思います。
この作品、高校・大学時代に吹き替え版で二度見たきり。
あれから40年、ようやく原語フルバージョンで観る事ができ、感慨深いものが有
りました。
作品的には「シベールの日曜日」が上ですが、好き度で言えば「かもめの城」な
んです、昔から。(笑)
※これを言っちゃ身も蓋もないのですが。
見方を変えると、「子泣きジジイ」を思わず拾い上げた哀れな青年の話。(笑)
※雑誌「ロードショー」か「キネマ旬報」の広告欄に、本作のスチール写真の通販が
出てました。
引き延ばした「四つ切」サイズで、24年前の引越しまでは持っていました。
今では、ちょっと悔やまれます。(笑)
監督 ジョン・ギラーミン
脚本 スタンリー・マン
原作 フィリス・ヘイスティング「案山子の歓び」
撮影 マルセル・グリニョン
音楽 ジョルジュ・ドルリュー
出演 パトリシア・ゴッジ
ディーン・ストックウェル
メルヴィン・ダグラス
この作品は高校時代の思い出の作品なので、ちょっと評価が甘めかもしれま
せん。(笑)
話はヒロインを演じたパトリシア・ゴッジの秀作「シベールの日曜日」(1962年)
と同工異曲、バリエーションと言って差し支えない。
違いは‘62年にはまだ子供だったゴッジが3つ歳を取り、今度は正真正銘の
少女から大人への成長を演じられる歳になったという事でしょう。
その分、寓話的な雰囲気は薄れ、より現実的な生々しさが加わっています。
フランス、ブルターニュの人里離れた海岸に建つ一軒家。
両親の不仲から神経過敏、対人恐怖、パニック障害になった少女アニエス。
その極めて内向的な彼女が自分だけの友達として「案山子」を作る。
或る雨の夜、護送車から脱走した囚人が、その「案山子」の服を着て裏庭に
倒れていた・・・。
この作品で描かれてるものは、「内向的な少女が深い傷を負いながら大人へ
成長していく」過程だと思います。
「シベールの日曜日」が「自己喪失」ならば、この作品は「喪失と和解」
悲しい結末は同じですが、「和解」が有る分「救い」は有ります。
アニエスは案山子の服を着て倒れてた男を、「案山子の生まれ変わり」と思
って夢の世界に浸りたい。
そこで、当然「創造主」としての強い独占欲にかられます。
でも、生身の男は住み込みの家政婦カレンと仲良くなってしまう。
それを見たアニエスが病気からの発作のように爆発、カレンを殺そうとして
しまうのですが、男に止められ醒めた後、一目散に走って近所の精神病院隔
離施設の門へしがみ付きます、
「中へ入れて!~私は救いようがない、狂ってる・・・」
エキセントリックな自分の感情を抑えられないのが怖く、又、誰からも褒め
られ認められた事がない故に自己嫌悪の塊でもある少女。
ちゃんと現実を解ってるし、「夢の世界」が自己嫌悪からの逃避であることも
知っている。
どうすればいいのか解らない不安、押し潰されそうな孤独。
3才成長したゴッジが、お手のモノとは言え、不安定な少女を好演しています。
その3年という時間が、町での新しい生活を営む時に見せる「子供じゃない女」
への脱皮を感じさせてくれます。
12歳で「精一杯背伸びした子供」が、15歳では「少女から幼な妻」、完全から
は遠いけれど、それでも、一定のリアリティが有る。
この頃のパトリシア・ゴッジには天賦のものを感じます。
(映画を観ていて、ジョディ・フォスターの「白い家の少女」が何度もよぎりました)
メルヴィン・ダグラスも、謹厳の裏にどうしようもない孤独と傷を隠し、それ故、愛
するアニエスに辛く当たる父親を好演。
家政婦のグンネル・リンドブロムも、いかにも居そうで「女を持て余した」感じが良
かったと思います。
この作品、高校・大学時代に吹き替え版で二度見たきり。
あれから40年、ようやく原語フルバージョンで観る事ができ、感慨深いものが有
りました。
作品的には「シベールの日曜日」が上ですが、好き度で言えば「かもめの城」な
んです、昔から。(笑)
※これを言っちゃ身も蓋もないのですが。
見方を変えると、「子泣きジジイ」を思わず拾い上げた哀れな青年の話。(笑)
※雑誌「ロードショー」か「キネマ旬報」の広告欄に、本作のスチール写真の通販が
出てました。
引き延ばした「四つ切」サイズで、24年前の引越しまでは持っていました。
今では、ちょっと悔やまれます。(笑)
この文章以外の、この記事の全てから、鉦鼓亭さんの彼女への想いが伝わってきます☆
ある世代の男性に絶大な人気を誇る、素晴らしい女優さんですよね~!
>12歳で「精一杯背伸びした子供」が、15歳では「少女から幼な妻」、完全から
>は遠いけれど、それでも、一定のリアリティが有る。
・・・私はあれは見たくなかったです。
まぁ単純に、見たくなかった、というだけです。
>(映画を観ていて、ジョディ・フォスターの「白い家の少女」が何度もよぎりました)
???
全然違うような気が???
昨年再見したのでよく覚えているのですが、よぎらないです(笑)。
私はこの映画は、彼女のファンのための作品のように思いました。
そして引退した事を、かなり賢い選択と思いました☆
「シベールの日曜日」よりは、気持ち悪さは少なかったし、
夜の浜辺の描写の美しさと、
最後の壊れてしまったところが、結構好きです♪
.
この文章だけではなく、この記事の全てから、
鉦鼓亭さんの彼女への想いが伝わってきました♪
.
ある世代の男性に絶大な人気を誇る>
男兄弟でしたから、繊細で賢い「妹」が欲しかったのかも。
と、言ってもスチール写真持ってましたから、言い訳は出来ませんね。(笑)
この作品のアニエスは相当面倒くさい子で、魅入られたら最後、地獄の底まで付いてきそうです。
若い頃は、それでも良かったんだなァ。(笑)
ジョディ・フォスターの「白い家の少女」が何度もよぎりました>
これは、僕の書き方が悪かった。
「孤独な女の子」という共通項で、あの映画を思い出したのは確かですが、
頭をよぎったのは、あの頃のJ・フォスターなら、このアニエスをどう演じただろう、が真意なんです。
「アーモンドの香り」とは別物の作品ですよね。
遠くまで続く「人を拒絶するような海岸線」がヒロインの孤独な心象風景みたいで素敵でした。
(砂浜で二人が戯れるシーンはいいのだけれど、ちょっと技巧に走りすぎた感あり)
最後の壊れてしまったところ>
シベールが縋った「蜘蛛の糸」が切れたように、アニエスも「希望が絶たれた」かもしれない。
でも、一人の世界へ戻らされたシベールと違い、アニエスには「解りあえるかもしれない」父親が居ます。
彼女は、一度も褒められず、認められず、自分を長所がまるで無い醜い顔の女の子と信じていました。
でも、ジョゼフから「綺麗だ」と言われ愛された事で、コンプレックスが薄まったかもしれません。
(人を愛する事を怖れ、より一層、殻に閉じこもる可能性もありますが)
更にもう一つ、父親が何故、自分を拒絶していたかの理由も知ったし、父親に愛されていたという事も知った。
「お父様、お家へ帰りましょう・・・雨になるから」
の台詞とラストの映像には、
「もう、私には名前なんか無いの!」
というシベールの叫びより「救いと可能性」があると思いたいです。
さほど遠くない日々には、仲の良い父娘となり、
アニエスは、畑を耕し、家事をやっていくうちに、少しづつ精神も安定してくるんじゃないか。
昔、観た時はネガティブに捉えてたラストですが、今回は、そうとばかりには思えませんでした。
最後に、寂しげだけど包み込むような優しい旋律を書いた、J・ドルリューの仕事も良かった事を書き添えさせて頂きます。
本当にすばらしいですね。
ただ、私は妖精のようなかわいいゴッジでいてほしかったという
非常に利己的な感情を持ってしまい、
大人になった彼女は観たくなかったなぁと思ってしまいました。
そして、彼女が大人になった分、評価も厳しめです。
(同性だからだと思います。苦笑)
僕は好きな映画なんですけど、評価の割れる(3:7くらい)作品です。
男の子にとってシベールは「孤独で哀しい魂」の象徴だったけど、アニエスは明らかに「異性」であり「生身の人間」。
だから高校生くらいだと、アニエスの勝手さ面倒くささも許せちゃう。
この作品を語るのは男ばかりです。(笑)
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事情が出来て、暫くの間、ブログを休止します。
今は、心穏やかに映画を観る事が出来ません。
何とか2ヶ月くらいでカタを付けるか、少なくとも目途を付け、再開する予定でいます。
その時は、また、宜しくお願いします。
(離婚とか別居とか倒産ではないのですが、否応なく面倒くさい事を暫く続けなければならないので)