クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

歌合戦をした“難波田正直”の居城は? ―難波田城―

2016年05月20日 | 城・館の部屋
難波田城址は公園として整備されている。
資料館も有り。

ここは扇谷上杉朝定の家臣“難波田正直”の居城と考えられている。
難波田氏と言えば、松山城合戦にて、
山中主膳と歌合戦を繰り広げたことで知られている。

 あしからじ よかれとてこそ 戦わめ など難波田の 崩れゆくらん

と詠んだ山中主膳に対し、

 君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波も超えなん

と返した難波田正直。
これは「松山城風流歌合戦」と呼ばれ、名高い。
真偽がいずれにせよ、
東国武士が深い教養を持っていたことを伝えるエピソードだ。

この難波田氏は天文15年(1546)の河越夜戦で、
主君朝定と共に戦死している。
その後の難波田城は後北条氏家臣の上田氏が治めるところとなり、
松山城の支城として機能した。

それは長くは続かない。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条征伐により、
松山城は陥落。
難波田城も落ちたという。
以後、廃城。

しかし、上記のように現在の難波田城址は整備され、
現在は公園として憩いの場となっている。
全く消え去ったわけではない。
江戸時代にも遺構はだいぶ残っていたらしく、
絵図も作成されている。

発掘調査により、本郭や馬出廓などが確認された。
園内の各所には、それを示す解説版が建っている。
憩いの場でありながら学習の場でもある難波田城公園。
堀や土塁が復元されており、
一般の公園とは雰囲気が異なることは言うまでもないだろう。


難波田城址(埼玉県富士見市)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする