story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

オレンジの風

2018年06月24日 18時45分35秒 | 詩・散文

阪急1008夕景

さっき、あの線路際で重い望遠レンズを手持ちで振り回し
高速で突っ走る列車を見事に射止めていたあなたは
いま、僕の前に裸身をさらす

「早く、早く」と身体をくねらせて僕をいざなう
僕はもう、昼間の撮影で力を使い果たしてしまっていて
一刻も早く眠ってしまいたいのだが

あなたは「このままでは眠れない」などという
眠れなければ起きてればいいさと
僕の心はそう思っているはずなのだが
目の前の白くやわらかな曲線を描く乳房を見ると
自分が本当はどう思っているか
それすらも怪しくなってくる

あなたの胸の先にかじりつき
その柔らかい感触を口の中一杯に頬張った僕は
あなたの喘ぎを聞きながら
汗と体臭と、不思議な甘い香りの中に沈められていく

耽美と怠惰が僕たちを包み、オレンジの照明がわずかに
あなたのよりいっそう美しくなった顔を浮き上がらせる
二人の脇のテーブルには、先ほどまで使っていたニコンが二台

思い通りの撮影ができた
難しい夕陽のシーンで好きな列車の撮影ができた
僕たちは撮影が終わったあと
小躍りしてお互いのカメラのモニターを見せあったのだ

僕のカメラは列車主体で
あなたのカメラはオレンジの夕景が主役で
そして、安酒場で呑んだ後はここに来たというわけだ

白い肌をオレンジに染め
あなたはそれでも僕を求めてくる
僕は何とかあなたに応えようとしながらも
自分の力のなさを思い知りながら
そしてそれが本能だろうかと
あなたに挑みかかる自分がある

汗が水蒸気となって
さして広くない部屋に充満する
甘い香りは僕たちの生きている証なのだろうか

あなたは身体をくねらせ、激しい息遣いで僕に迫る
チカラをすべて出し切ったはずの僕はまたあなたに挑んでゆく
朝までこの営みが続くのだろうか

そうだ、カメラデータの確認と
機材の手入れをしなければ

一瞬でその思いは消え去り、僕はあなたの泉から迸る
甘い液体のなかに沈み込んでいく
汗と汗、体液と体液、唾液と唾液、息と息
冷たいカメラボディにはうかがい知れぬことでもある


(銀河詩手帖289号掲載作品)

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挫折記・小中学生時代

2018年06月14日 20時54分46秒 | 日記・エッセイ・コラム


人生とは挫折の連続である。
自分の人生で一度も挫折を経験したような人はおそらくいないか、いたとしたらその人はよほどの幸運に恵まれているのだろうとは思う。
かくいう僕の来し方も挫折の連続であったことは間違いがない。

最初に断っておくが、この一文は自分が過去に挫折するに至ったその際のきっかけになったであろう人たちを否定するものではなく、あくまでも自分の歴史として淡々と振り返り、これから老境に至る自分への戒めとするものである。

僕は神戸・湊川で長男として生まれ、最初は貧しくとも世の中全てが貧しかった時代、それを特に気にすることなく幼少期を過ごしていたのだけれど、我が家では次々に子供が生まれ、生活が苦しくなるにつれて父は酒におぼれ、身体を壊していく。

定職に就くこともできず、同じ仕事を2年以上は勤めることのできなくなった父は家族を引き連れ、まるで彷徨うかのように大阪・兵庫を転々とする・・
そしてある頃からいろんなものが狂い始めた。
神戸湊川、神戸東川崎、大阪天保山、大阪朝潮橋、また天保山、そして泉大津・・転々としながら、兄弟姉妹は六人になっていた。
(ほかに死産も二人あった)

******

最初の挫折は自分の記憶にある限り、中学校への入学だろうか。
昭和四十八年、泉大津市に居たわけで、小学校を卒業すると、必然的に泉大津市立中学校への入学である。
ところが、父母は僕が中学に入るための用意を一切しない。

それはすでに、我が家が海岸近くの社宅から退出することが決まっていて、父母ともにこの街にはいたくないと考えていたからだった。
春には新しい街で、中学校に入学する・・

だが、三月になっても、父の次の仕事は決まらず社宅の退出期限が迫る。
ここに至って父母は僕と弟を遠く、会津若松の親戚に預けるという手段に出た。

電車が好きで、それゆえ、祖母に連れられての会津への道中も楽しいものだったし、会津の親戚は滞在中はずっと歓待してくれた。
けれど、その間に中学校の入学のための説明会も、そして制服や教材の購入日も過ぎていく。
結局、父が僕たち兄弟を呼び戻したのは、新学期も始まって2週間ほどたってからだった。
帰路は親戚に東京駅まで送ってもらい、そこからは小学生の弟と二人で大阪に戻る。

会津若松から泉大津に帰ってすぐに、トラックに同乗して先に出発した父以外の、母と僕たち兄弟姉妹は、これが家族と乗る最後となるだろう南海電車と、大阪市営地下鉄と阪神電車と、そしてこれからお世話になり続けるだろう山陽電車を乗り継いで加古川の別府へ着いたというわけだ。

泉大津の中学校から転校という形ではあったが、僕は一度もその中学には行ったことがなく、中学生活は加古川市の閑静な松林の中の、ただっ広い学校から始まったがその時はすでに授業は三週間ほど先へ進んでいた。
つまり僕は小学校卒業→中学校入学というプロセスにおいて挫折したことになる。
結果的には播州加古川の明るく屈託のない地域性が、自分にとって大きな宝となったわけであり、そこで得た生涯の友人たちは今も大きな宝になっている。

ただ、影響は残った。
三週間の学習の遅れは、先に教科書を用意することもできなかったことから、そのまま学業成績の不調となってしばらく苦しんだ。

*****

父は、新天地での仕事もむなしく、それから半年ほどで亡くなり、我が兄弟姉妹は分裂の危機になった。
いくらなんでも母の手一つで六人の子供は育てられない・・
親戚たちがそういう意見に纏まるのは当然だった。

けれど、母は頑として子供たちを手放さなかった。
行政に相談し、生活保護の手続きを進め、加古川市の山の手にある借家へ移り住んだ。
僕も半年だけ通った中学校から、加古川市と高砂市の境界上にある中学への転校も余儀なくされた。
加古川市は海岸近くと山の手では大きく気風の異なる面がある。
山の手の神吉あたりは、海岸沿いの別府あたりよりも、さらに人は明るく、人懐っこく、そしてよそ者にも全く昔からの住民と同じように接してくれるという、田舎にはあり勝ちな排他的な空気の全くないところだった。

ここの気質は自分には本当に合い、転校した学校ではさらに良い友人たちに出会たこと、これもまた自分にはかけがえのない宝である。

これで当面は良かったのだが、僕の進路を決める際に、このことが大きな足かせとなった。

中学三年、僕は自分の進路を「教育」の道へ進むと、これは小学生時代から決めていたのだが、そこで大きな問題が生じた。
入学遅れによる成績不振はこの頃にはずいぶんと改善し、進学校である公立高校への入学は全く問題がないレベルになっていた。

ところが・・我が家が生活保護を受けていたことがここにきて大きな障害となってしまった。
加古川市の担当者は「君が高校に進学することは素晴らしいことでぜひ頑張ってもらいたい、だが、君が十六歳になったその日で生活保護費の支給が、君の分だけ打ち切られるというのも現実だ」と伝えてくれた。
高校に行ったら、その分、家族が苦しむわけだ。

そこで母は僕を、父がその下請けで勤めていた製鋼所の養成工にすることを決めた。
養成工なら定時制高校にも会社が通わせてくれるというものだ。
これは僕にとっては寝耳に水で、中学の教師が他の就職先の資料も持って来てくれてはいたが、自分としては納得できない。
「進学できる高校に行きたいと」いう願いはむなしく、大人の事情で取り消さざるを得ない。

ここに至って、どうにもならない事情に中学三年の僕は苦しんだ。

この当時、虫歯が多かった僕は、歯の治療に、市から紹介された歯科医院へ通っていた。
あるとき、いつものように治療の継続のために予約してあった歯科医院を訪れ、窓口で母子家庭の保険証を見せた。
とたん、受付の女性は奥に入り、いつもの歯科医が出てきた。
「うちはもう、これは扱わないので帰ってください」という。
歯のいくつかは削ったままで、この先の治療は必要な状況でだ。
「あの、では、どこの歯医者さんへ行けばいいんですか?」
突然言われたことで混乱しながらも、やっとそれは問えた。
「うちは知りません、もう関係ないですから」
歯科医のあの傲慢な姿を思い出すたび、今も虫唾が走る。

自転車で仕方なく家に帰る道、頭の中が混乱していたんだろう、前をよく見なかった。
気が付けば自分は水の中にいた。
道路わきの水路に自転車もろとも飛び込んだのだ。
幸い、田圃のある所だから水路の水はきれいで、底にヘドロもたまっていなかった。
ずぶぬれになって家に帰り、母に顛末を説明すると、母も悔しそうに口を結んだまま、何も言わなかった。
歯科での治療は、今の場所に住む限り、クルマでもないと通えないところばかりで、あきらめざるを得ない。
(僕が国鉄に入社し、その自前の保険証でようやく、国鉄寮の近くにあった板宿の親切な歯科医と出会ったのは翌年の話だ。)

そして、進路については僕は二の手を打つことにした。
大学への進学校に行けないなら、自分の好きなことにチャレンジするというものだ。
加古川市の担当者から「国鉄も養成工をしていたはずだ」とアドバイスをもらった。
担任の教師に相談し、国鉄の募集要項を取り寄せてもらった。
母に黙って入試の申し込みをし、家に来た入試のための葉書も母に見せない。

そして、国鉄の試験を、自転車で八キロ先にある工場まで受けに行った。

結果は見事合格、3倍の難関を突破して、家に合格通知が来た。
「これ・・なに?」
母は不思議がって僕に尋ねる。
「ああ・・国鉄に行くねん、製鋼所にはいかへん」
悔しがるかと思った母は素直に喜んでくれた。
「あんた、そんな話を進めてたんか・・」そうしみじみ呟いた。

だが、それでも進学できない辛さは僕を苦しめる。
この頃から僕は、一番行きたい道がだめなら、その次に行きたい道を歩くことを覚えたのかもしれない。

この時、希望する高校への進学に挫折し、ついでに歯の治療にも挫折した。

だが、国鉄でのほかに代えられない体験ができ、さらに多くの親友に恵まれ、それは今に至るもとてつもない大きな宝だ。
僕は今も国鉄を悪しざまに言う言葉に強い反感を覚えるのは、この時の国鉄への深い感謝があるからだ。

だが、治療を放置せざるを得なかった歯は、間違いなく悪化した。

ここから先はまた機会があれば書きたいと思う。

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阪急御影

2018年06月04日 22時44分17秒 | 詩・散文

マルーン色の電車が山々や邸宅、公園などの緑の中を行く阪急御影駅

その風情は今も変わることはないが
駅北には立派なロータリーがあり
駅南には再開発ビルが並ぶ

この話は今からおよそ三十年も前のことになるだろうか

その頃のこの駅は郊外の住宅地への入り口
あるいは六甲連山への登山口といった風情で
駅前からのバス路線は駅にロータリーがないものだから
駅すぐ東のガードを潜り抜けた先
深田池のほとりに小さなバス停が拵えてあり
すぐ傍の山の中腹の
大声を出せば声がそこまで届きそうな距離にあるあの病院まで
殆どの人が十九系統の市バスに乗っていた

バスは小さなバス停を出ると
いきなり急カーブと急勾配という厳しい道を
まるで何処かの山の上の観光地へ向かうかのように
エンジンの音を低く篭もらせながら低速で登っていく

もし、この病院までの道のりを歩く場合は
深田池の反対側のほとりから
目の先の道が壁に見えるような石畳の激しい斜めの道を
高級住宅街の中から六甲や反対側の海が見える景色を愉しむ余裕もなく
殆ど登山者のように黙々と歩くしかなかった

僕はいつも坂を登るときはこの路線バスを使い
病院の前のバス停で首を長くして君を待ち続けて
やがて君が病院の職員出入り口から
息を切らせて走ってくるのを
見つけるその瞬間が好きだった
バス停は病院より少し高い場所にあり
そして今日も
君はバス停への階段を小走りに駆け上がってくる

「すまんねぇ・・待ったんじゃろ」
「いや、今、来たとこやねん」
「急に仕事が入ってしもうて」
「仕事は分かっとるし」
「わやじゃ・・・」
そういって君は笑う
何十分待とうが、最初の会話はいつも同じだったし
君が時間通りに現れたことはなかったのではないかと思う

慌てたり、気持ちが昂ったりすると広島弁丸出しで喋る君は
小柄で痩せぎすの体型とともに可愛く見えてしまう
もしかしたら僕は
この階段を上がってくる君を見て
だんだん君に惹かれていったのかもしれない

「バスに乗らんで歩こうよ」
汗を拭き
病院の建物脇から見える
神戸の街や海の方を眺めながら君がそう言う
君は歩きだし、僕はずっと背の低い君の後を追う

なんだか今日の君は苛ついて見える
女性ばかりの一族の中で育った僕には
女性の苛ついた表情が怖い
それは本能的なものだ
「あの・・なおちゃん・・何か怒ってる?」
ふっと、君は振り向いた
「ん?怒っちょらいませんけど」
不思議そうに僕を見る。
可愛いいつもの笑顔だ。
「うち、怒っちょるように見えた?」
「うん、なんでか・・」
君は歩くのを止めて、海の方を見たまま立ち止まった
「不思議じゃのぅ、そがぁなふうに見えるん」
「やっぱり、怒っとったんかいな・・」
「ぷちじゃけどね・・」
「職場で何かあったとか‥」
「済んだことじゃ、もうええがの・・すまんわね、気にさして悪かったね」
一瞬僕を見つめて、そういったかと思うと君は坂道を早歩きで下りだした
「はよ行こうよ、今日は三宮で行きたゅお店があるんよ」

高級住宅街の急な坂道。
君はさっさと肩で風を切って歩いていく
僕は必死で後を追う
邸宅や街路、小さな公園、あるいは里山のままの空き地
それらの初夏の緑の向こうに
マルーン色の阪急電車が見えてきた

君は薄いスカートをひらひらさせながら
まるでスキップを踏むかのように坂を下りていく
僕は自分よりずっと背の低い君の脚力に感心しながら
そういえばこの娘は
広島は広島でも
備北の農家の育ちだったなと改めて思う
ファーン・・電車の警笛が後ろの山にこだまする
青空の彼方では雲雀が囀る

こうして二人で並んで歩くのがとても幸せに感じ
君を抱きたいなどとは、とても思えなかったあの頃ではある

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