story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

パノラマドリーム

2021年01月24日 17時20分56秒 | 小説

広漠な田園地帯に僕は居る。
季節は初秋の頃だろうか、黄金色になった稲穂が風になびく
「こんなところに来たって」
僕はふっと呟く。
そう、こんなところに来たって、未練たらしく来たってあのパノラマカーもなければ、君もいない。
ここは何処だろうか。
田圃の中、複線の線路が延びている。
朝早い電車で神戸を出て、岐阜で乗り換えてきたはずだ。
各務原線の鵜沼宿あたりか・・
それとも名古屋本線の石刀あたりだろうか。

鳶の声がする。
風の中から虫の羽音も聞こえる。
遠くで踏切の警報音がしている。
「どうせ、3500あたりだろう、それとも新5000か」
気乗りがせぬままカメラのファインダーをのぞく。
せめて赤い3500か3100ならそれなりの絵にもなろうか。
それにしてもこの曇天、稲穂は黄金になってはいても、さして良い絵になるはずもない。
いっそ、ステンレスカーでもいいかも、新5000とか・・
気乗りがせぬファインダー、シャッター速度1/500、絞りは・・
そうか、NikonFAでSモードならシャッター速度さえ決めれば、絞りは自動だ。
いや、待てよ・・・
どうして僕はFAなどを持っているのだ。
僕の愛機はデジタル一眼レフ、NikonD7500ではないのか。
だが、考えても仕方がない。

警報音の鳴る踏切が近くなってきているようだ。
ぼんやりした曇天、ぼんやりした低い背景の山。
さして良い絵にならぬとわかっていてもそこは鉄道ファンの本能であると割り切る。
いずれ3500でも、懐かしくなる時代も来るだろう、その時に僕が生きているかどうかは分からぬが。

やがて四つのヘッドライトが真昼間なのに煌々と輝きながら迫ってくる。
「なんだ、あの電車は・・3500は腰にライトがあるだけのはず」
だがすぐに自分で合点がいく。
「そうか、6500が来てくれたのか、あの鉄仮面の」
どうやら、あの頃を知る電車が来てくれたらしい・・少し嬉しくなって、そういえば、あの頃、四つのヘッドライトに糠喜びさせられたことが何度もあったなと苦笑する。
このせっかく来てくれた6500を黄金の穂の中で写しとろう・・・

踏切の音はするものの、列車はゆっくりと近づいているようだ。
突然、柔らかな、およそ警笛とは思われぬミュージックホーンが聞こえた。
6500にミュージックホーン、ついていたかなと一瞬考える。
やがてファインダーにその列車の顔が現れる。
「え?」
わが目を疑う。
まさか・・
だが、余計なことを考える暇など無く、僕は夢中でシャッターを切る、
キューンキューン、モータードライブMD14の駆動音が耳に入る。
フィルムの残枚数は十分なずだ。

だが、その電車の前面には鉄仮面とは似ても似つかない大きなフロントガラスと二階運転台が見える。
しかも運転台は屋根より屹立している。
7500!
僕は叫んだ。
いや絶叫した。
もう、とうの昔になくなったのではないのか。
なぜ今、ここに7500が!
また叫んでしまう。

もう何も考えられない、突然現れたそのスマートな真紅の列車に僕は全神経を傾けてシャッターを押し、構図を変えていく。
細長い車体の連続窓が目の前を通り過ぎていく。
やわらかな曲線で構成された撫で肩の車体、ガラスが連続して空を反射させる大きな窓。
真紅の憧れの列車が今、ファインダーいっぱいに広がっている。
もはや、理由はどうでもいい、7500なんだ7500なんだと、その中間車体にも連続してシャッターを切っていく。
来てくれたんだ、7500が来てくれたんだ!
絶叫しながらシャッターを押していく。
列車の進行に合わせて、田圃の中で僕は身体の向きを変え、撮影していく。
6両編成の列車はゆっくりと、堂々と僕の前を通過していく。
名残惜しく、はるか向こうで見えなくなるまで僕はシャッターを押し続けた。

ごめんよ、君が引退する前、僕は少し拗ねていたんだ。
だから君や、君の兄貴分の7000や、弟分の7700や、はたまた従弟の7300もその最後まで見てやれなかった。
そして今頃、還暦を過ぎて僕は思い出したようにここに通って君たちの面影を追っているにすぎないんだ。
ごめんよ、本当にごめん。

涙があふれて景色が見られない。
また踏切がなる。
今度は何が来るのだろうか。

ヘッドライト四つ、今度は騙されないぞ、きっと6500だ。

 

はっと気が付いた。
僕は急行電車に乗っていたようだ。
さっきのは夢だったのか・・・
電車はどうやらSRのようで、ずらりと並んだロマンスシートの、車体中ほどに座って窓にもたれかかっていた。
「夢か・・」
それにしても嬉しい夢を見たものだ。
だが、この電車は何処行きの電車なのだろう。

カーブを曲がる。
車体が傾き、刈り入れ前の田圃の黄金の穂が迫ってくる錯覚を起こす。
大きな連続窓から見る平野は秋の始まりだ。
この電車はきっと、美合発新岐阜行きの急行だろう・・僕はそう思うことにした。
だが、それなら7500ではないのか。
いや、先ほどの夢ではないが7500なんて、今の時代にあるはずもない。
引退したのはもう20年近く前だ。
列車は淡々と走っていく。
乗客は少ない。
列車がカーブを曲がるとき、両開きドアの付いた貫通路を何両かの車両越しに先頭の展望窓がちらちらと見える。
ああ、やっぱり7500だ、するとこの列車も夢なのだろう。

現実に今僕が乗っているのは・・SRだとしたら5700か、いや、SRなんて一昨年の年末に引退したではないかと僕は苦笑する。
おそらくこれも夢で、僕は多分、6500のセミクロスシートに座っているのではなかろうか、いや、案外、2200特急の特別車を奮発しているのかもしれない。

だが列車は速度を上げも下げもせず、淡々と黄金色の田園地帯を走っていく。
三河路の秋の風景に違いない。
夢でもいい、あの7500にまた会えたんだ。
会えただけではなく写真も撮れたんだ、乗ることも出来たんだ。
僕は心の底から満足した。
やがて列車は加速していく。

「もう、大丈夫なようです」
男の声が聞こえる。
「あなた」
女の声は妻だろう・・・
「大野さ~~ん、聞こえますか」
別の女の声、聞いたことのある声だ。
暫くしてその声がこういった。
「おい、大野君、ええころかげんに目を覚まさなかん」
え?
その声は・・
僕は思わず目を開けた。

点滴の管、白い天井や壁、心配そうに僕を見る妻の顔と、その横の白衣を着た男性、そして歳をとったが紛うことなき白衣を着た君の顔。
「また夢か」
妻が泣いている。
「7500は夢の中だったかもしれんが、ここは病院や」
僕が君の顔をぼんやりした視界で見つめているとまた名古屋弁が来た。
「うちわぁうちなんよ」
君がおかしそうに笑う。
「いつまでも鉄道オタクだわな」

 

***文中、数字、英文字は車両の系列形式、もしくはカメラの型式です***

7500、7000、7700、7300、5700、3500、3100、新5000、6500、2200→名鉄の車両系列名
特に7000・7500はパノラマカーとして愛された。
SR→名鉄のかつての特急・急行用の車両総称、5000代7000代の形式があった(7300除く)。
D7500→ニコンのデジタルカメラ
FA→ニコンのフィルムカメラ

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忘れたい、無いものにしてしまいたい思い出もある

2021年01月17日 18時53分53秒 | 日記・エッセイ・コラム
あそこで君と待ち合わせしたのに、君ときたら2時間も遅れてきたんだ。
携帯電話などない時代、待つしかなかったんだよね・・・
駅のコンコースでだらしなく座り込んでいる僕をみて、君は「ごめ~~ん、おごるから」と拝むように手を合わせてくれた。
 
あるときは、誘われて・・でもその日の僕は体調がよくなく、38℃の高熱を出していて、でも連絡の入れようもなくここで僕が待っているとやはり君は遅れてやってきて、こんなことを言った。
「風邪?そんなもん、アルコールで消毒すれば治るわよ」
そして実際、大酒を呑んだ僕の体温は平熱に戻っていた・・
 
言い合いの喧嘩もしたし、君を泣かせたこともあるし・・
でも阪急三宮駅は僕にとっては黄金の思い出のある所だ。
 
そんな思い出も何もかも吹っ飛んだ26年前。
いち早く解体が告げられた阪急三宮の駅ビル、阪急会館、
 
あの日から10日ほどして区間開通した鉄道でやっとここに降り立った時、あの何かが焼けたような匂いと小便の匂いが入り交ざった不思議な空気の中で、僕は立ちすくみ、本当にこの街が元に戻るのだろうかと悲嘆にくれた。
 
愛する神戸の街のそのほどんどが粉々の瓦礫となって地面にばら撒かれていた。
 
ちょうどそのころ、野戦病院のようになった勤め先で、同僚や後輩が被災して命を落とすものもある中、奮闘する君の姿があったはずだ。
新聞で君の病院の悲惨を知った。
だがその時、僕は誰かに連絡を取るより自分のことだけ、自分の家族のことだけで精いっぱいの状態だった。
君の奮闘を知ったのはずっと後になってからだ。
 
美しくない思い出。
あの何かが焦げている匂いと、小便の匂いは、たぶん二か月ほど、この街のあらゆるターミナルから消えることはなかったのではないだろうか。
 
僕は震災を忘れたい。
もうないものにしてしまいたい・・
 
だが、声高に「忘れてはならない」と叫ぶ方々もある。
忘れていいんだよ、辛い思い出は。
忘れてならないのはあの時の記録ですと、小さな声で言っても誰も見向きもしない。
今年も僕の感情を崩壊させるテレビドキュメンタリーが延々と流れる。
 
だから僕はこの日はテレビを見ない。
 
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大晦日の少女

2021年01月05日 20時44分23秒 | 小説

 

コロナウィルスで大変な年だったと誰もが認める大晦日、僕は年内最後の所用として友人が経営する事務所へ相談に行くところだ。
彼は商売がことのほかうまくいかなかった僕のために、大晦日の時間をこじ開けて部下がみな休みに入った事務所で待ってくれているというわけだ。

自宅近くから神戸市営地下鉄に乗る。
子どもの頃から見慣れている車両がやってきてそれに乗り込む。

大晦日であり、しかも世間はコロナだ。
列車は空いている。
窓が少し開いていて、外の風が吹き込むし、トンネルではやかましいが座席に腰掛けると腰の下から心地よい暖房が伝わってくる。
頭寒足熱とはまさにこのことかと、心地よさにうとうとしていた。

いくつめの駅だろうか・・
僕の車両には数人の乗客があり、その一番最後に制服を着た女子高生の姿があった。
小柄でもしかしたら女子中学生かと思えるような背格好の少女だ。

大晦日まで塾か、大変やな・・と思ってその女子高生を眺めた。
・・塾って制服でないと駄目なのか・・
疑問がわいた。

彼女はドアの横に立ち、列車の床を見つめている。
何か思いつめたような、きつい表情だ。

不良というのではない。
髪は染めていないし、きれいな黒髪のセミロングだ。
もちろん、白いマスクも清潔で、服装も清楚に着こなしている。
通学かばんは足元に置いてしまい無防備に見えるが、表情は硬い。
ただ、冬場には見ているものが寒さを感じるほどスカート丈が短いし、ストッキングやタイツは履かず、いわゆる生足だ。

僕にも娘がいる。
離婚した妻との間にだ。
とうに学校は卒業し、OLとして好き勝手やっているようだ。
わがまま放題に育った我が娘は、けれど彼女のようにきつい目をしたことはない。

三宮で電車を降りた。
件の少女は僕の少し前を歩いている。

友人の事務所は山手方向にあるので、阪急・阪神・JRといった多くの人が向かう方向から外れ、僕は北側の階段を目指す。

地上に出て北野坂を少し歩くが、友人への土産をと、彼の好きなパン屋で少し買い物をした。
北野坂のだらだら上りを登っていき、有名なコーヒーショップの脇を通ると、そこに先ほどの少女がいた。
一心にスマホを見ているようだが、口元が固く、あの年頃の自由闊達な雰囲気はない。

友人との会議は小一時間で終わった。
国の方針で今年は申告の類が猶予ができているらしいことも分かった。
とりあえずホッとして、あとは正月だ。
家に帰って酒を呑もうと解放感に浸って坂を下りる。
先ほどのコーヒーショップの角、あの少女がまだそこに佇んでいる。
スマホを持っている手はだらりと下がり、呆然と立っているように見える。

「あの・・お嬢さん」
僕は思わず声をかけてしまった。
彼女はマスクの上からキツイ目で僕を睨みつけた。
「いや、さっきからここにおられるの、ちょっと気になって」
一瞬怯んだ僕は声をかけたことを後悔した。

「ほっといてください」
キツイ声が出てくるかと思ったが、出てきた少女の声は弱り切っているようなか細い声だ。
「寒くないか」
少女は視線を地面に落とし、少し震えているようだ。
「おじさん・・」
「はい?」
「買ってください」
「なにを?」
「わたしを、わたしのバージンを」
僕はどう答えていいか分からなくなった。
「なにか、そういう約束をした人が来るのを待っているの?」
「来ないんです、5万で買ってくれるはずだったのに」
「5万?」
「だから買ってください、ここで会えたの、縁ですよたぶん」
思い切ったように顔を上げた少女は目に一杯、涙をためていた。
「きみ、幾つなの?」
「高校3年生、17歳です」
「じゃ、だめだ」
「どうしてですか?」
「18歳未満と猥褻な行為をすれば僕が警察に引っ張られる」
「誰にも言いません、本当にバージンですから買ってください、嘘は言いません、5万でよいのです」
「だめだよ、だれが見ているか、何処の防犯カメラに写っているか、この世の中はそう言うことに厳しいから」
「でも、わたし、5万がないと生きてゆけないのです」
必死に訴えてくる少女。
僕がこの話を断っても、この状態なら彼女は手あたり次第、誰かに自分を売りそうだ。
このご時世、喜んで買う御仁もあるだろう。
だが、それで彼女が安全に帰れるという保証などない。
娘がある僕だ、一瞬にしてそこまで考えた。

「ま、暖かいお茶を飲もう」
僕は少女を誘った。
もちろん、少女の身体を買うつもりなんてない。

少し離れたところの喫茶店に少女を連れて入る。
店に入って座った途端、少女は露わな太ももを手でこすっている。
「寒かっただろ」
うん、少女は頷く。
鼻水が出るらしく頻りにハンカチで鼻を拭く。
僕はいつもカバンに入れているポケットテイッシュを手渡した。
「ありがとう・・」
呟き、俯く少女の身体は小さく、可愛いが色気というものからは程遠い。
「どうして制服を着ているの?」
彼女は別に動じずそれには答えた。
「女子高生は売れますから」
僕は驚いた。
自分を商品であると見切っていたのだ。
「じゃ、なぜ生足なの、寒いのに」
「そういうのを買う人って生足のほうが嬉しいんじゃないですか・・」
うーーん・・僕はうなってしまった。
自分の商品価値を高めるということか・・・

けれど少女は暖かい紅茶を鼻水と一緒にすすり、体が温まると泣き出した。

「あのね・・」
僕はしばらくしてから声をかけた。
「安すぎるよ」
彼女はようやく落ち着いて僕を見られるようになったようだ。
「5万がですか?」
「いくらがそっちの世界の相場なのかは知らないけど、自分をそんなお金で売っではだめだよ」
「でも、それくらいでないと買ってくれない」
「買ってくれたとしても、そのあと、君は無事に家に帰れるか?君を買ったやつが悪い奴なら、お金をくれるどころか、どこかへ売り飛ばされるかもしれない」
「でも、でも」
実際、そういう話も聞いたことがある。
「そのお金はなんで要るの?」
彼女は俯いてしまった。

「君を見ていると、僕のわがまま放題な娘よりは、なにか、相当苦労しているように見える」
泣いている、鼻水をすすることもせず、涙と鼻水がハンカチの上に流れている。

「一緒に考えよう、さっき、君はここで会ったのが縁だと言ったよね」
俯いた少女は頷く。
「お金が必要なわけを教えてほしい」

しばらくの沈黙の後、少女は少し顔を上げた。
寒さで赤くなった頬が涙で濡れている。
「受験です」
「親御さんは出してくれないの?」
「無理です、わたしは母一人なのです、母がコロナのせい仕事がなくなり、特に今は出せないんです」
「進学したい学校があるの?」
「美術系の学校です、もう奨学金は申し込みができました。でも受験費用がどうしても出せない、電車賃も・・」
「遠くの学校なの?」
「いえ、大阪です」
そう言うと少女は薄いカバンからA4の封筒を取り出して僕の前に置いた。

その学校が良いかどうかは僕にはわからない。
でも僕は普段はこう考えている。
「やらなかった後悔より、やってみた後悔の方が自分自身が納得する」
そしてそれは自分でもそうやって実行し、いくつかの大失敗を経て今の自分がある。
自分の娘に進路を相談されたときもそう答えた。

けれど、もし人生の進路が決まるその時、入り口にすら立てないとき、いや、入り口はそこにあるのに、カネの問題一つでそこに立てないとき、それはどうやって乗り越えればいいのだろう。
「その学校を受験でき、合格したとして、生活はしていけるの?」
「学校は二部制なので夜学にして、昼間は働きます」
「なるほど・・学費は奨学金で心配が要らないと」
「はい」
「最初に通学費用も必要だよね」
「お正月明けからバイトしてそのお金を貯めます。もうバイト先も決まっています」
準備万端、怠りなしということか・・
「合格はできるの?」
「自信はあります」
「普通、その手の学校の受験ってもっと早い時期なんでは」
「二次なんです、一度諦めかけてどうしてもと、もしこれが出来なければわたし・・」
「不合格ならどうする」
僕は意地悪く聞いてみた。
「頑張って不合格なら諦めもつきます」

少女は動じない。
「ただ、君の家でのアクシデントがあって受験費用が今は全く出せないと」
「はい」
そういう少女から涙は消えていた。
「どうしようか・・」
少女は僕を見つめた。
「だから、買ってください!5万あれば前に向いて行けるんです」
「待ってよ・・」
「わたし、こう見えてもいい身体しているんです」
僕は苦笑した。
けれど彼女は制服の合わせ目を外し始めた。
「胸だって、自信あります」
僕は慌てた。
「ちょっと待てよ、それを僕が今見ても話は進まないよ」
だが、外したボタンの胸元からは豊かそうな稜線も見える。
少女は胸のボタンを留める。

ちょうど手元にはいくらかの現金は持っている。
「買わなきゃだめか」
「はい」
「貸すことはできるが」
「借金ばかり増やすのは嫌です、奨学金も借金です」
この子は頭がいいなと、ちゃんといろんなものを見てきているなと感じた。

「わかった」
「ありがとうございます」
「だけど今じゃない」
「え・・??」
不思議そうな表情をする、この年頃の可愛い表情だ。
「5万は安い、10万で買う、ただし、将来だ」
「将来ですか?」
「ああ、君が18歳になったときに売ってくれ、カネは前払いで支払っておく」
「八月ですが、それでもいいですか」
「いいよ、いつでも・・」
「でも」
「でも?」
「わたし、それまでに好きな人が出来たらバージンじゃなくなるかも」
「そこだけは契約してもらわないと困るな」
今度も意地悪くそういった。

「当然、それだけでは足らないかもしれない、その時は僕に連絡をくれ、可能な限りの応援はする」
足長おじさん気取りではあるが、コロナ時代の今の僕に資金のあてなどない。
俺もええかっこしいやな・・と苦笑する。
しかも、担保は彼女の身体なのだ。
足長おじさんには程遠い、俗物の契約だ。

僕は少女に10万円を渡した。
彼女の住所を聞き、携帯電話の番号を聞いた。
「信じていい?」
「はい、その時までバージンでいます」
「いや、そこじゃなくて、ちゃんと学校に行って頑張れるねということ」
そう言うと彼女は僕を見つめて背筋を伸ばした。
「信じてください」
そう言って頭を下げる。

いずれ同じ方向から来た二人、地下鉄駅へ並んで歩く。
少女は僕の手を引き、ちょっとこちらへ・・という。
そのままついていくと神社の境内だ。
「契約の前払い、少しだけいいですか?」
「なんだそれ、君は商業科か」
「あら、分かります?」
そう言って彼女は唇を重ねてきた。
下手糞な、唇を合わせるだけがキスだと思っているようなその動きに、僕はそっと彼女を抱きしめた。
「これだけでも青少年保護法違反だ」
そう言う僕の言葉をさらに覆いかぶせるように少女の唇が迫ってきていた。
「好き」
小さな言葉が聞こえた。

 

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