story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

高御位山

2015年10月22日 22時38分29秒 | 詩・散文

高御位山は播州平野に屹立する独立峰で、加古川あたりから見ると高くそびえるように見えるが標高は僅か300メートルちょっとしかない。
「たかみくらやま」と呼ぶ。
ただっ広い播州平野は、一概にすべてが平野というわけではなく、ここが海だった頃の名残か、あちらこちらに小さな岩山を残した独特の景観で、その中でも、この山はよく目立つ。

播磨富士ともいう人もあるが、同じように言われる山はほかにもあるし、高御位山が富士のように見えるのは東からと北から眺めたときだけだ。

大家族で加古川市別府町の社宅へ引っ越してきた昭和48年には、そこは加古川の南端であり、高御位山は見えたとしても小さく、それ程気にすることもなかった。
けれど、別府町で親父が亡くなり、母が僕の12歳を筆頭に6人の子供との暮らしを続ける決意をして、慣れぬ加古川の、それも北の方、東神吉へ子供たちを引き連れて引越しをすることになるのだけれど、初めて東神吉の、田んぼが続くその先に見えた高御位山の姿は印象的で、その時の心情とともに、何か物悲しい風景として僕の心に納められてしまったのは致し方のないことだと思う。

僕がその家に母や弟妹と住んだのは、中学時代の2年半と、国鉄工場への仕事のために通勤をしていた5年の合わせても8年に満たない期間に過ぎなかったが、その期間こそ僕にとっては青春の多感な年頃でもあり、さまざまな思い出が加古川の町に出来、そしてここが、幼い頃から親父の都合で引越しを繰り返すことを余儀なくされた僕にとっての、ある意味では故郷的な場所になるその因であるわけで、平野に小さな岩山がポツリポツリと存在する牧歌的な播磨の風景、開けっぴろげで陽気、にぎやかで裏のない播州人の気風、温暖で年中を通して晴れの日の多い明るい温暖な気候とは、僕の心にある種の影響は与えたことが間違いがない。

さて、今日は私用のために加古川へクルマで走った。
高速道路を快調に飛ばし、明石西インターを過ぎると、正面に高御位山の山容が見え、やがてそれが近づいてくる。
「帰ってきたでな」
思わず、そういう言葉が口から出てしまうのが常だ。

あの山を見ると、なぜか、過去帳入りした友人や知人の姿が思い起こされ、なるほど、霊峰と言われるのはそういう思い出を呼び起こす力を、高御位山は持っているのだと痛感させられる。

必ずしも良い思い出ではないようなシーンすらも、懐かしい映像として頭の中にフラッシュバックしてくる。
ましてや、今日、加古川を訪れたのは夕刻だ。
オレンジに染まりかける空の下の独立峰は、僕の心に懐かしい音楽や映像とともに、亡き友人たちの姿を明瞭に映し出してくれる。

もしかして僕は、この思い出をよびさまされるそのひと時が味わいたくて、理由をつけては加古川に向かうのではないか・・
我ながらそういう分析も試みるが、日が西に沈みきった後の、屹立する高御位山は僕の最も好きな播州の風景であることに違いはない。

鉄道で加古川に行ったとき、今の加古川駅は高架工事がなされ、ホームから非常によく高御位山が見えるようになった。
加古川に好きな風景がまた一つ出来た感じだ。
望遠レンズで迫る高御位山は、そこらのどの山よりも大きく、いや、それどころか、名山といわれる山やまに比肩するほどに立派に見える。
けれど、山が立派に見えても、この山のなす風景は僕にとっては少し胸の中が熱くなるようなものを呼び起こさせる。

先日、この加古川の町で、とても大切な先達だった方を亡くした。
高御位山を見て、その姿を思い浮かべる人がまた増えてしまった。

ゆかりちゃん、良平君、豊社長・・そして忍石先生・・
いや、父も、母方の祖母も、その祖母の連れ合いで、義理の祖父という関係だった則之氏も・・
さらにさらに、国鉄の大先輩方もすでに何人もが・・
加古川の広い、牧歌的な風景の中で眠っておられる・・

いや、自分にとっても青春の当時としては真剣な、今となっては少し恥ずかしさを覚えるあの気張りや苦悩と、まだ、まともに女性というものを知らぬ時代の淡い恋の芽生えのようなものも、すこし酸味のきいた不思議な味わいとして思い出させてくれるのでもある。

そう、だから僕は今でも、高御位山をみて、ときに思い切り泣きたくなる衝動に駆られる。

 

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