story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

キハの音

2020年10月21日 22時29分12秒 | 詩・散文

小淵沢でレンタカーを返した。
それは長坂辺りで自分にとってどうしても無視できぬ事件があり、そのことを確かめるためにレンタカーの営業所のある小淵沢で借りたクルマだった。
長坂での用事を終え、時間が余ったからと武田氏最後の居城である新府城址までいったのが時間を押す結果となった。

クルマを返し、改札に上がると次の小海線列車は1時間半後と言うことになっていた。
思わず駅員に「小諸行きはこの列車までないのですが?」と尋ねた。
「まもなく発車する列車が小諸行きです。走れば間に合うと思います」
という答え。
乗車券はすでに神戸で手配したものがあるので改札を入って小海線ホームへ急ぐ。

そこに停車していた列車はキハ110系と呼ばれるJR東日本のいわばローカル線用の標準車両だ。
なんでもいい、僕が乗り込むと列車はすぐにドアを閉め、発車する。
どうやら駅員からの連絡で発車を少し待っていてくれたようだ。

車内は空いているというほどではないが、うまく二人向かい合わせの席が空いていた。
座ってホッとすると、列車はいきなり急こう配をどんどん上がっていく。

僕は一人で向かい合わせの席に座っているが、実は僕と一緒に長坂近くの白州で声をかけた叔母が僕の肩について乗っているはずだ。

初めて乗る小海線列車の旅ではあるが、発車してから驚愕の車窓風景が続く。
日本のローカル線でこのようにダイナミックに高原を走り続ける路線って他にあるのだろうか。
JR世代の気動車は、喘ぐことなく、淡々と坂を上っていく。
白樺林の中を抜け、お洒落なペンションの点在する場所を抜け、谷川を渡る。
時刻はすでに夕刻となり、国内鉄道最高地点を超えると、窓の外は完全に夜となった。

気動車はこの辺りからは緩い坂を下り、淡々と惰行していくようで軽やかなエンジンの音はアイドリングのそれに近い。

いつしかボックスシートの向かいに年配の女性が座っている。
「ありがとうね、迎えに来てもらって」
「いえいえ、それよりこうして向かい合って座ることができるのは嬉しいことです」
「こうちゃん、敬語はしんどいよ、タメ口で行こうよ」
「といっても叔母様、僕はあなたのちょうど一回り年下ですし」
「一回りかあ、ほんと、会いたかったね、生きているときにさ」
「僕も会いたかったですよ、なんで連絡くれなかったんですか」
「知っていたのよ、あなたがいることも・・でもなんだろ、気後れがしてね・・」

71歳だという叔母だが、見た目は美しい大人の女性というイメージだ。
細身、ラメの入ったルージュ、軽そうな絹のカーディガン。

エンジンの音が響く車内。
レールジョイントがゆったりと流れていく。

乗客は誰もエンジンとレールジョイントを子守歌に、ボックスシートの背もたれに身を任せている。

「でもさ、こうしてでも会えたってこと、嬉しいじゃない」
「うん、確かにそうですね。連絡がなければ僕は叔母様のことを知らないまま」
「でしょ、だからあなたを呼んだのよ」
「僕は呼ばれたんですか?」
「そう、純文学が好きなあなたを・・」
「文学は確かに・・特に小諸に縁のある島崎藤村などは好きですが、でも文学より鉄道がもっと好きですが」
「ははは、そうだったわね・・兄は鉄道員だったけど鉄道ファンではなかったわ」
「僕は鉄道ファンであるために鉄道員であることを捨てました」
「変わってるわね、あなたの生き方、きっと損ばかりしている」

窓の外はもう真っ暗だ。
キハのエンジン音に身を任せていると、いろんなことがどうでもよくなってくる。
そういえば、ずっと昔、国鉄のあちらこちらのローカル線にキハ20なる車両が走っていて、あるとき、それは高山線だったか舞鶴線だったか記憶が定かではないがそのキハ20の普通列車に乗っていて、それも夜、乗客の少ない列車、淡々とアイドリングに近い状態で座席の背もたれに身をゆだねて乗っていると、唐突に「もし、このまま人生が終わっても何の悔いもない」と思ったことを思い出す。

JR世代のキハ110系は乗り心地はキハ20よりずっといいし、座席もゆったりしていてとても良い。
真っ暗な窓の外、緩い下り坂を走るキハのアイドリング状態のエンジン音とレールジョイント。
あの時のキハ20に近いものを僕は感じた。
「ね、こうちゃん」
「なんですか?」
「まだ死んじゃ駄目よ」
「ええ、まだそのつもりではないですが」
「うそ、あなた今、このまま人生が終わってもって思ったでしょ」
「あ、それは確かに・・キハに乗って人生を終えれたら幸せかもしれない」
「駄目よ、いろんな人に迷惑をかける」
「それはそうですね、そう思うのはよしておきます」
「そう、それより「いま僕は至極の幸福の中にある」って思うのどうかしら」
「それいいですね、いただきます」
「じゃ、あげるね・・私の家と一緒に」
「了解しました」
僕はちょっと高圧的に叔母に答えた。
家なんてのは貰っても負担が増えるだけで困るものではある。

佐久が近づくと乗客が増える。
いつしか列車はワンマン運転ではなく車掌が乗務していて、車内検札に余念がない。

山の中の暗闇ばかり見てきた僕の目に、新しい佐久平の街が大都会に映る。
そして乗客がどっと乗り込んできた。

叔母が座っていたはずの向かいの席には若い女性が座った。
マスクをして一生懸命にスマホを弄っている。

列車はもはやローカルでもなんでもない通勤列車となりやがて小諸駅に滑り込んだ。
「叔母様、帰ってきましたよ」
「ありがとう、私は先に家に帰っておくね、あなたは明日の朝、ゆっくりでいいから来てね」
「ええ、温泉に入ってゆっくりしてから伺います」
「待ってるわよ」
「はい、それより明日は浅間山が見えるようにしてくださいね」
前回来たとき、雨模様で浅間山は見えなかった。
「そんなこと、私に頼まれてもなあ」
叔母はくすっと笑って空の上に消えていく。

大勢の乗客が降りた小諸駅のホームで、到着した列車を眺めながら僕はゆっくり跨線橋の階段を上る。
さてこの街、今から食事をするところなどあるのだろうか・・僕の心配事はこの時はその一点になっていた。
10月になったばかりなのに夜風が冷たく、寒いと思える小諸だ。

翌朝、ホテルを出るときには見えなかった浅間山は、家の二階の窓を開けた時に、目の前に聳えていた。

 

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