『河津伊豆守祐邦』~3
文久3年(1863)に新徴組支配(1000石高)
同年外国奉行に就任。
同年、幕府は八月十八日の政変の後、
攘夷の体面を保つ必要から横浜を鎖港しようと図った。
その交渉のため、
河津は池田筑後守長発と共に
フランス公使と折衝。
同年欧米への差遣を命ぜられ、
池田長発を正使とする遣欧使節団
(横浜鎖港談判使節団)の副使として出国。
上海・スエズ・マルセイユを経てパリに入り、
交渉に当ったが、
開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。
パリ約定を調印して帰国。
池田長発と共に幕府に建議したが、
逆に咎められ元治元年(1864)免職、
逼塞を命ぜられる。
古美術崎陽
長崎の歴史
文久3年(1863)に新徴組支配(1000石高)
同年外国奉行に就任。
同年、幕府は八月十八日の政変の後、
攘夷の体面を保つ必要から横浜を鎖港しようと図った。
その交渉のため、
河津は池田筑後守長発と共に
フランス公使と折衝。
同年欧米への差遣を命ぜられ、
池田長発を正使とする遣欧使節団
(横浜鎖港談判使節団)の副使として出国。
上海・スエズ・マルセイユを経てパリに入り、
交渉に当ったが、
開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。
パリ約定を調印して帰国。
池田長発と共に幕府に建議したが、
逆に咎められ元治元年(1864)免職、
逼塞を命ぜられる。
古美術崎陽
長崎の歴史
『牛込忠左衛門勝登』~11
~長崎代官末次平蔵の処罰~
延宝4年(1676)長崎代官末次家の
4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の密貿易が発覚し、
父子は隠岐に流され、
一類は斬罪その他に処せられる。
禁を犯しひそかに商船を唐国に遺し、
日本の絵図・刀剣など国禁品を輸出したことによる。
磔や斬罪者があったのに対し、
平蔵父子が流刑ですんだのは、
投銀(投資)をしただけで、
直接商売に関与しなかった為である。
茂朝の財産は金60万両に相当するといわれたが、
ことごとく没収され、
家屋敷(現桜町小学校)は
町年寄の高木作右衛門に与えられた。
ここは現在「サン・ドミンゴ教会跡」として公開されており
末次時代の遺物も展示されている。
古美術崎陽
長崎の歴史