古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎奉行補足~26

2013-10-30 06:25:09 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~5


河津が奉行として着任した慶応3年当時、

長崎の地には海援隊や

全国各地からやってきた諸藩の浪人達が横行し、

幕府の権威は失墜していた。

同年11月6日に大政奉還の報が、

同12月26日には王政復古の大号令が出された事が

長崎の地にも伝わってきた。

そして翌慶応4年1月10日には、

鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗戦の報が届いた。

この報に接した河津は、

正月13日、当時の長崎港守備当番の

福岡藩聞役の粟田貢を奉行所に呼び、

長崎からの退去の意思を告げ、

平穏裡にことを運びたい旨を伝えた。



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長崎奉行補足~25

2013-10-28 06:25:08 | 長崎の歴史


『河津伊豆守祐邦』~4


元治元年(1864)同年逼塞を解かれ、

慶応2年(1866)歩兵頭並となり、

関東郡代を同年5ヶ月間務める。

関東の取締強化のために設置された関東在方掛

(勘定奉行並・在方掛)に

前関東郡代の木村飛騨守勝教とともに任命される。

同年第124代目の長崎奉行に就任、着任する。

慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで

幕府軍が新政府軍に敗れたという報を聞いた後、

早朝にイギリス船に乗って長崎を脱出し江戸に戻る。

奉行職を罷免。同日、外国事務副総裁に就任し、

同年外国事務総裁となる。

同月に若年寄に転任し、

そのまま江戸幕府終焉の時を迎える。

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長崎奉行補足~24

2013-10-26 05:55:32 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~3


文久3年(1863)に新徴組支配(1000石高)

同年外国奉行に就任。

同年、幕府は八月十八日の政変の後、

攘夷の体面を保つ必要から横浜を鎖港しようと図った。

その交渉のため、

河津は池田筑後守長発と共に

フランス公使と折衝。

同年欧米への差遣を命ぜられ、

池田長発を正使とする遣欧使節団

(横浜鎖港談判使節団)の副使として出国。

上海・スエズ・マルセイユを経てパリに入り、

交渉に当ったが、

開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。

パリ約定を調印して帰国。

池田長発と共に幕府に建議したが、

逆に咎められ元治元年(1864)免職、

逼塞を命ぜられる。


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長崎奉行補足~23

2013-10-24 04:55:10 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~2


嘉永3年(1850)家督を継いで小普請入りし

同年12月に表火之番に就任。

翌4年(1851)に徒目付に就任。

安政元年(1854)箱館奉行支配調役となって

蝦夷地の開拓や五稜郭の築造に携わり、

同年箱館奉行支配組頭となり

同時に御目見の身分となる。

安政5年(1858)布衣を許され、

家禄は100俵高となる。


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長崎奉行補足~22

2013-10-22 05:35:14 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~1


河津 祐邦(かわづ すけくに)


文政4年(1821)~明治6年(1873)

江戸幕府の旗本。

幕末に勘定奉行、関東郡代、長崎奉行、

外国事務総裁などの重職を歴任した。

家禄は100俵高。

官職名は伊豆守。

墓は東京谷中五林寺にある。

曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の子孫であり、

大津事件の際に刑事局長を務めた官僚の

河津祐之は祐邦の女婿、


孫の暹は経済学者(東京帝国大学経済学部教授)



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長崎奉行補足~21

2013-10-20 04:45:28 | 長崎の歴史


『牛込忠左衛門勝登』~11


~長崎代官末次平蔵の処罰~

延宝4年(1676)長崎代官末次家の

4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の密貿易が発覚し、

父子は隠岐に流され、

一類は斬罪その他に処せられる。

禁を犯しひそかに商船を唐国に遺し、

日本の絵図・刀剣など国禁品を輸出したことによる。

磔や斬罪者があったのに対し、

平蔵父子が流刑ですんだのは、

投銀(投資)をしただけで、

直接商売に関与しなかった為である。

茂朝の財産は金60万両に相当するといわれたが、

ことごとく没収され、

家屋敷(現桜町小学校)は

町年寄の高木作右衛門に与えられた。

ここは現在「サン・ドミンゴ教会跡」として公開されており

末次時代の遺物も展示されている。



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長崎奉行補足~20

2013-10-18 05:15:47 | 長崎の歴史

『牛込忠左衛門勝登』~10

長崎薬園は館内町(唐人屋敷)  十善寺会病院
~長崎薬園の開始~

天和元年(1681)元代官末次平蔵が開拓した

長崎村十善寺郷の薬園跡地

及び付近を合わせた8766坪の土地を、

唐船が舶載してきた薬草の植え付け地に指定し、

栽培を開始した。

薬は幕府に献上された(長崎薬園の初め)。

末次平蔵は、唐国から輸入した薬草類の苗木や種子を、

自己支配地の十善寺跡を開拓して移植、

薬品を調製して幕府に献上していた。

末次家滅亡とともに薬園も没収され、荒廃した。

この薬園の地が元禄1年(1688)唐人屋敷となる。


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長崎奉行補足~19

2013-10-16 04:45:26 | 長崎の歴史
『牛込忠左衛門勝登』~9


重忝が制定した「市法貿易法」により

長崎の町民や商人達には大きな利益がもたらされた。

それを恩義に感じ、

寛文12年(1672)重忝が時津廻りで江戸に上った時、

商人達が見送りに繰り出し


岩原郷(長崎市筑後町)の本蓮寺前から

時津辺までのおよそ9キロにわたって

見送りの人並みが続いたという。

この後、この見送りが慣例になったため

延宝4年(1676)派手な見送りはしないようにと厳命した。

その一方、唐人やオランダ人の評価は悪く、

「恥知らずで強欲の人」とみなされていた。



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長崎奉行補足~18

2013-10-14 04:35:48 | 長崎の歴史

牛込忠左衛門勝登』~8
また、この取引で仕入れた品物を

他都市の商人に売却。

莫大な利益が長崎に生まれた。

重忝はこの益金で長崎市街の整備を行った。

市街を80町に整備し、

長崎奉行所を西役所と立山役所に分散。

さらに、寛文3年(1663)の寛文大火により

焼失した長崎聖堂を再建した。


シーボルトの鳴滝塾で知られる鳴滝の地名を

京都の鳴滝にちなんで命名したのは重忝である。

延宝8年(1680)には、

長崎の町中で俳諧・連歌を行なう者を

それぞれ一夜ずつ奉行所に召し寄せ

歌や詩を作らせて鑑賞している。


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長崎奉行補足~17

2013-10-12 05:45:39 | 長崎の歴史
『牛込忠左衛門勝登』~7


重忝は寛文12年(1672)

オランダ・中国の商人と取引をするものは全員、

「市法会所」に所属すること、

会所が値段を査定し、奉行が「指し値」を決定

会所が一括で買い取ること、

売買値の決定権は奉行に属することを定めた

「市法貿易法」を定めた。

貿易の主導を日本側に取戻した。

この前年には、蘭通詞・唐通事に命じて

ひそかに外国貿易品の

出所・仕入価格などを調査させており

調査報告は、その後の市法商法実施後の

奉行所の外国商品価格決定時の重要資料となる。

この結果、以前より安値で取引ができるようになった。



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